悲運のその後

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鼓膜を揺らすようなエンジン音。
気を抜けば飛んでいきそうな遠心力、身体に重くのしかかる重力が俺の全身を震わせる。
フロントガラスに飛び散る泥をワイパーで飛ばして、シフトパドルでギアを変えた。そうして暴れるハンドルを両手で力強く握りしめて左に回す。いつも通りだったはずの状況が一気に変わった。
瞬間、レース中に聞こえるはずのない異音。
車体全体に振動するようにそのおかしな挙動がハンドルを通して伝わってくる。

気づいた時には遅かった。
コーナーの先の崖に車体が思いっきりはみ出て、傾いた車体はそのまま落ちていく。

嘘だろ。そんな言葉を出せるはずもなく俺は段々と小さくなる崖上を見つめながら、ただ絶望感を感じることしかできなかった。脳裏をよぎるのは、親父の顔とナマエの顔。

俺、死ぬのか…。そう悟ってしまった。

ああ、くそ…息が、苦しい。





「っ…は…」

心臓を掴まれたような焦燥感に、飛び上がるように起き上がった。背中は冷や汗で濡れて息が苦しく、早まる心拍につられて呼吸すらままならない。
…また、アレがフラッシュバックしたらしい。つい2年前にレースドライバーを引退することになってしまった事故がトラウマの一種となって何度も悪夢のように俺を蝕んでいる。
額にべっとりと引っ付く前髪を乱暴にかき上げて、ため息を吐けば隣から小さなうめき声が聞こえた。

「ん、…」

枕に顔を埋めていたナマエが身じろぎをしてシーツをぎゅっと掴んでいる。少しだけ半身が出ているその光景に、寒そうだなと独り言を吐いて毛布を掛け直しせば眉をさせていたナマエの表情が和らぐ。
小さな唇を閉じて、寝息を立てているナマエの目の下にはうっすらとクマが見えていた。そのクマの原因が俺にあることは一目瞭然で、申し訳ない気持ちで親指で頬を優しくなぞる。


俺が事故に遭ってから、ナマエにはすぐに別れを切り出した。
ドライバーとして再起不能。ただただ走り続けてきた俺は走る術を失って、これからどうするのか、どうしたいのか…何も考えられなかった。
でも俺の存在はナマエの重荷になるのは嫌でも分かる。そしてこれから選択の自由があるナマエの人生を奪うことは明白だった。そんなこと望んでいない。

だから俺は、俺よりももっといい相手がいるだろって冷たく突き放した。ナマエに嫌われたくて、酷い言葉を何度も浴びせた。それでもナマエは頑なに首を縦には振らなかった。それが嬉しくもあり、悲しかった。

俺だって半端な気持ちでこの行動をしたわけじゃない。ナマエが俺以外の男と結婚して幸せになるだなんて、考えただけで腑が煮えくりかえりそうになるぐらいに腹が立つ。でも俺にナマエの人生を好き勝手する権利はどこにもない。

そんな俺にナマエは何度も、優しく言葉をかけてきた。
私の人生は私の好きにする。拓海くんと一緒にいたい。酷いこと言われたって本心じゃないって分かってる。
だからもう無理しないで。だから拓海くんのそばにいさせて。

優しく俺を包み込むような温かいナマエの声色は今でも鮮明に思い出す。


そうして俺の有無を言わせずナマエは渡英してきた。
内定を貰えていた企業を蹴って、不得意なはずの英語を猛勉強して、その身1つで飛んできた時には度肝を抜かれた。俺よりも年下なのになぜか度胸は俺よりも上で、さすがの行動力にあんぐりと口を開けて驚く俺に笑って言って見せた。

拓海くんが拒否したら、ホームレス生活なっちゃうよ。

その強引にも見える言葉に、やっと俺は久しぶりに心から笑えた。
ナマエは俺のそばにいる選択をしてくれた。本音ではそれが何よりも嬉しかったんだ。




「すー…、すー…」

寝息さえ、愛おしいなんて俺はどうにかなっちまったんじゃないのかって笑いが込み上げてきた。
そんな愛しさを抱きながらも、頬をなぞっていた親指の腹で目尻と撫でても起きる気配はない。
慣れない異国の土地に疲れ切っているはずなのに、俺に悟らせないようにと明るく振る舞っているとこは健気で可愛いけれど心配だ。

ふと視界の端にはる時計を見れば、短い針は3時を少し過ぎていた。

なんか、目が冴えたな…。
今から寝ようにも夢見が悪かったせいですぐには寝られそうにない。
俺はナマエを起こさないように、ゆっくりとベッドから足を出して立ち上がる。少し肌寒いけれど羽織るほどでもない。グッと背伸びをして、なんとなく歩き始めた。
ふとベランダに意識が向いて、足が勝手に進んでいく。冷たい風を浴びたらスッキリしそうだ。

施錠を外して窓をスライドさせれば、フワッと冷たい風が頬を撫でた。そうと思えばカーテンを激しくたなびかせたせいで物音が響き渡る。俺は慌ててベランダへと出て窓を閉めた。
ナマエが起きたら、余計な心配をさせてしまうかもしれない。起きちまうかも…とビビりながら窓越しにナマエを観察したが、ピクリとも動かなかった。ひとまず、大丈夫みたいだ。

「……さみ」

そう呟いた言葉は白い息を一緒に消えていく。
日本とは全く違う夜景の街並みを見ながら、ぼうっとしてみる。異国の地とは言っても、渡英してから何年も経っているからか物珍しいほどでもない。最初は周りを見渡しながら歩いていたけれど、もうそれも随分昔の話だ。
英語もなんとなく話せるようになったけれど、なぜか俺よりもナマエの方が話せる。本人曰く、数年前まで学生だったからと笑っていたけどそんなもんか…?年下のはずのナマエにポテンシャルが負けている気がして、ちょっと悔しいかったのは秘密にしたい。

……日本は昼ぐらいか。
……親父、ちゃんと店開けてんのかな。ああ、そういえば…イツキにメッセージ返さねえとまたうるさいだろーな…。
そんな他愛もない考えが思い浮かんでは消えていく。


日本での思い出が、正直言ってしまえば恋しかった。
眠い目を擦りながらも親父に叩き起こされて嫌々豆腐を配達していた日が懐かしい。…今の俺は、紙コップの水をこぼさずにドリフトできんのかな。…無理だろーな、きっと…。

自嘲気味な笑いが溢れて鎖骨あたりにある傷跡に無意識に手がいく。ぼこぼことしている傷跡を指でなぞるたびに、脳裏に崖下に落ちていった光景が鮮明に浮かぶ。

……アレがなかったら、まだ走れてはずなのに。
肌をひりつかせるような緊張感を、もう二度と感じることはできない。走りを楽しく思えてたはずの俺はいない。

俺、これから…どうなりたいんだろうな…。明かりのないトンネルを歩いている気分は、こんな気分なんだろうか。見えてこない答えにうんざりしそうだ。

「たくみくん」

舌ったらずの甘い声色が背後に聞こえた。
弾かれたように後ろを向ければ、眠そうに目を擦っているナマエがいた。…窓、開けるのも気づかないぐらい考えてしまっていたんだとようやく気づく。
とろん、としている目で俺を見つめながらベランダへと出てきた。

「どうしたの…、ねむれない…?」

瞼を開くのも難しそうなナマエは俺の服の裾をグイッと引っ張った。
そうして俺の表情を見て、すべてを包み込むような笑顔を向ける。なんでもないように、俺の思いを吹き飛ばしてくれるように明るく笑った。

「あはは、ねぐせすごいよ」
「…うるせー」

俺がそう言えばナマエは嬉しそうに笑みを浮かべた。俺の手に華奢な指を絡ませて手を握る。冷たくなってしまった俺をあっためるようにぴとり、と身体を引っ付かせて夜景に目を向けた。イギリスの街中を照らしている街灯の光がナマエの瞳を輝かせる。それが俺の目にはやけに綺麗に見えた。

「きれいな夜景をひとりじめしたんだ、ひどい」
「…ん、ごめん…なんか目が冴えて」
「そっか」

俺とナマエの間にあったかいとも言える無言の空気が流れる。決して気まずい訳じゃない。

ナマエは何も聞かない。知っていて、何も聞かない。それが酷く心地良い。ほんと…ナマエって人生何周してんだよって聞きたくなるほどに俺を包み込んでくれていた。

キラキラと灯りを反射させていたナマエの眼光が俺に向く。

「ベッドのなか、さむい…」
「…子供みてえ」
「あったかいたくみくんがいないとねられない…ので、セキニンとってください」

頬を少しだけ膨らませてぶすくれるナマエは、悔しいけれど可愛い。あくまで自分が一緒に寝たいからと俺を呼び戻してくれたみたいだった。その優しさに乗っかるようにしてナマエの小さな背中についていくようにして足を進める。

ベランダの窓を施錠してベッドへと振り返れば、ナマエは腰掛けるようにして俺を見つめていた。
その目はやっぱりとろん、ととろけていて今にも寝てしまいそうだ。

「たくみくん、はやく」

両手を広げて俺を待っているナマエを包み込むようにして抱きしめて、ベッドへと身体を預ければ俺の匂いとは違うナマエの甘い香りが鼻をくすぐった。
不覚にもそれが男心を刺激してきて、腰が疼くけれど本人は安心したように俺の腕の中で目を瞑る。
……明日は、手出してもいいよな…と首をもたげた欲を抑え込んで俺も同じように目を瞑った。


まだ、先の答えは出ない。
でもナマエとだったらもう少しだけ立ち止まって、一緒に答えを探せる。
それがどう転んでもそばにナマエがいるならなんとかなるような、そんな安心感が芽生えてきた。


ナマエの寝息と、夜の静けさが子守唄のように俺の眠気を誘う。

夜が更けていく。


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