友人K #1

 入隊は一年前、支部所属の俺が本部に来て向かう場所といえば個人ランク戦ブースと荒船隊や影浦隊の作戦室、それくらいだ。ランク戦のために本部にも作戦室を貸与されているものの、ほとんどの生活を支部で過ごしているため本部の作戦室には物がほとんどない。本部での居場所にはあたるものの、俺にとってゆっくり落ち着ける場所というわけでもなかった。
 しかし、現在目の前にする部屋は今まで述べたどれでもない。普段立ち入らない廊下を進み大きな黒いドアの前に立つ。シュン、と音を立ててドアが開き視界に飛び込んでくるのはパソコンや機材、資料がぎっしりと並べられたデスクに壁際に配置された巨大なコンピューター、天井から下がるケーブルの束、そして職員の制服とは異なる作業着を纏った人々。
 少しだけ息を吸い込み、室内に向かって声を掛ける。
「失礼します、鈴鳴支部の村上です。寺島さんはご在室でしょうか」
「お、鈴鳴の村上君?珍しいね」
 入口付近のデスクに座る男性スタッフがこちらに気が付くと、作業の手を止めてにこやかに返事をくれる。他のスタッフからも物珍しさからか視線を向けられ、少しばかり居心地が悪い。
「チーフならちょっと前に出てったけど、すぐ戻ると思うよ。あの奥がチーフのデスクだから一緒に座って待ってて」
 そう言って男性は奥のある部屋を指差した。
 今日足を運んでいるのは滅多に赴く機会のない本部の開発室だ。つい先日、突然開発室の寺島さんから俺に連絡が来た。本部のエンジニア、それもチーフの寺島さんから連絡を貰うなんてはじめてのことで驚きはしたものの、レイガストの性能テストに協力してほしいと言われれば断る理由もなかった。寺島さんがレイガストの考案者であることやレイガストを使う隊員が本部隊員でも数少ないことを考慮すれば、支部の人間である俺に声がかかるのもそれほど不自然な話ではない。
 どうやらチーフである雷蔵さんはさらに奥の部屋で作業しているらしい。ありがとうございますとスタッフの男性に礼を述べ、彼が示した部屋を見遣りその言葉を反芻する。何気ないその台詞に、どこか違和感を覚える。
 ”一緒に”ってなんだ。

  通り道にあるデスクに絶妙なバランスで置かれた資料を崩さないよう慎重に進み奥の部屋を覗くと、部屋の隅には段ボールが積み重なっている。デスクに並ぶコンピューターの前に光る大きなガラス越しにもう一部屋あるようだ。そのデスクの前に二脚並んだワーキングチェアの片方の足元にサンダルが見えた。寺島さんは外しているはずなのに、いったい誰か。
「お、雷蔵さんお帰り」
 こちらの気配に気付いたのか、そのワーキングチェアからは少年のような少女のような、どちらともとれる声がした。
 向こうは俺を雷蔵さんと勘違いしているようだが、この声には、聞き覚えがある。ちょうど一週間ほど前、ある忘れがたい防衛任務の夜が脳裏に鮮明にフラッシュバックした。
『君、名前は?なんて書く?ここはなんて国?』
『ここで野垂れ死ぬ訳にはいかないから、悪いね』
 灰色の戦闘衣に身を包み、黒い弓を穿ち、黒い刀を振るう小柄な来訪者。 あの夜は声色に冷やかさを纏っていたが、間違いない。その姿、声を脳が正確に記憶している。
「お前、あの時の」
「あれ、雷蔵さんじゃなかった。これは失礼」
 軽やかにチェアを回転させて俺と向き合ったのは白い包帯に右腕を包み、黒髪を揺らす金の瞳の少女。紛れもないあの夜の帰還者、長谷瑞貴だった。



「待たせちゃった上にコイツいてびっくりさせたかな。悪かったね」
「いえ、確かに予想外ではありましたが」
 まさかの人物に身構えた俺と頭上にはてなマークを飛ばして首を傾げた目の前の彼女。彼女は敵ではない、それはいい。ただ、あの夜の戦闘を思い出し、若干の気まずさで言葉に詰まった。突然門から現れた彼女に黒い刀身を首筋に添えられたあの緊張感も、太一を緊急脱出させられ、来馬先輩の腕を落とされた瞬間の腹の底が冷え切るようなあの怒りも、戦闘後トリガーを解除した彼女が血を流しながら崩れ落ちた時の衝撃も、明瞭に記憶してしまっている。状況が状況だったとはいえ怪我人相手に、それも重症の人間と刀を交えていた事実を反芻し背筋に冷たい汗が伝った。
 お互い何を発するでもなく沈黙が痛い空間に『あれ、村上待たせた?ごめんごめん』と寺島さんがひょっこり顔を出す。寺島さんが戻ってきてくれたおかげで彼女と一対一でなくなったことに安堵しつつも、この状況は未だ全く理解できない。何故彼女が開発室の、しかも寺島さんのデスクにいるのだろうか。まるで自室でくつろぐかのようにのんきにコーラを煽る彼女の姿には肩の力が抜ける。
 ちょっと待ってて、と寺島さんは一度姿を消すと隣の部屋から椅子を転がしてきた。並べられた二つのワーキングチェア後方のちょうど間に椅子を置いた雷蔵さんにどーぞかけて、と促されたので腰かける。右手のワーキングチェアに雷蔵さんが腰かけると、くるりと回転してこちらと対面する形になる。長谷はすでにこちらを向いていた。というか回転しすぎて若干明後日の方向を向いているが、寺島さんはそんな彼女に構わず口を開く。
「時間も有限、早速本題に入ろうかな。村上、長谷の相手してやってほしいんだ」
「......?」
 寺島さんの発言で再び疑問符が脳内を占拠する。長谷の相手をする、とは。分かっているのは、寺島さんの言葉の真意を俺が正しく汲み取れていないということだけ。
「正しくは、村上はレイガストで長谷の持ってた近界のトリガーと仮想戦闘してほしい、かな。」



「とまあ、そんな訳」
「なるほど、彼女は隊員になることが決定したんですね」
 寺島さんのさっくりした説明によると、彼女こと長谷瑞貴は上層部との面談の末に正式にボーダーに入隊することに決まったようだ。ボーダーの入隊日は一月、五月、九月の年三回設けられているが、現在は八月。一か月後の入隊式までは時間があるため、しばらくは怪我の療養をしながら彼女の所持するトリガーの解析のため開発室の研究に協力することになっているらしい。
「そんで長谷の持ってたトリガーの性能的に俺の管轄だから、今は長谷ごと預かってるって感じ」
「長谷ごと」
「村上に伝えたレイガストの性能テストってのは名目上ね。長谷の持ってた向こうのトリガーの解析がメインだよ。入隊式まで長谷も暇だろうからとっととデータ取っちゃおうって訳。モールモッドとかトリオン兵相手のデータはとれたから、一応白兵戦のデータも見とこうかなと。ある程度の対人戦データがとれて長谷も暴れられるし、まあ一石二鳥かな」
「暴れる、ですか」
 斜め左前方の彼女に視線を向けると、金色の瞳と目が合う。先日の静かな苛烈さは鳴りを潜め、琥珀色が穏やかに揺れていた。彼女の右腕を包む包帯の白を見るとじくりと胸が痛む。近界で負った怪我であって俺が傷つけた訳ではないけれど、あの時すぐに話を聞いていたのならすぐに治療できていたのではないかと、今となってはどうにもならない考えが頭を巡る。
「ずっとベッドで安静にしろって言われても身体鈍るからさ、生身もトリオン体も。ここでトリオン兵相手で何回か仮想戦闘?させてもらったけど、どれも同じような動きしかしないからそろそろ飽きてきた」
「プログラミングしてるんだから当たり前。長谷もそこそこ強いからさ、実力のある人間に長谷の相手してもらおうと思って、それで村上を今日呼んだんだ。まあ、長谷の相手を出来る人間が限られてるってのも大きいんだけどね」
 雷蔵さんが相手してくれればいいのに、と呟く彼女に俺が入ったらデータ取れないだろ、と返す寺島さん。一人勝手に心が沈みかけた俺をよそに交わされる二人のやり取りは固さがなく、まるで既知の友人かのようにぽんぽんと会話が進む。彼女が敬語を使っていないからかもしれない。あの夜、彼女は十七歳か十八歳だと言っていたはずだが、年齢差や立場を気にしない性質なのだろうか。寺島さんの方も特に注意するでもなく、それがさも当然のように会話が織りなされていた。
 ただ、「長谷の相手を出来る人間が限られる」という台詞にはどこか含みがある。考えられる理由はやはり、
「それは、近界から帰ってきたから、という意味ですか?」
「そうそう。長谷のこと知ってる隊員はあの日の防衛任務に入っていた部隊と諏訪、堤、東さんと冬島さんとかそれくらいかな。長谷ってだいぶ特殊なケースなんだよね、攫われて近界から戻って来れた人間って初めてだから。村上も聞いたことないでしょ?」
 一年前にスカウトで三門市に越してきた身であり三門の事情に精通しているとは言えないが、確かに近界から帰って来た人間というのは聞いたことがない。防衛任務で警戒区域を巡回する時に放置された空き家に崩れた家屋、瓦礫が積み重なる荒れ地やもはや砂しか残らない更地を眺めて近界民の侵攻による被害を感じることはあっても、俺は四年前の侵攻それ自体を経験してはおらず、近界に攫われた人間がいるという事実も正直あまりピンと来なかった。
 だから目の前にいる彼女が四年前の侵攻で近界に攫われて、今こうして帰還しているという事実を情報として理解できても、我がものとしては感じ難い。寺島さんは特殊なケースだと言っているし、彼女はかなり幸運だったんだろう。
「だから長谷の事情諸々を知っててレイガスト使ってる村上っていう適任がいて助かったよ」
「ただの隊員の俺と会わせて大丈夫なんですか?」
「ちゃんと上には許可取ってるよ。むしろ長谷がボーダー内で交友関係を広げる足掛かりになってくれたら助かる。いつまでも開発室で預かってらんないし」
「預かられてたの私」
「あ、近界関連の話はなしで。今後長谷が近界にいたことは伏せてもらうから、その辺の軽いすり合わせも今日の目的だよ」


「じゃあ準備するから二人で自己紹介でもしてて」
 そう告げて寺島さんは腰かけたワーキングチェアをごろごろとデスクに近づけると、そのままカタカタとコンピューターをいじりはじめる。再び一対一の形になってしまった。落ち着かない俺に構わず長谷が口を開く。
「えっと、名前なんだっけ。あん時の人だよね、一番最初に会った人」
 あの夜、長谷に一番最初に会敵した俺は彼女に名前を聞かれたのだが、流石に名前までは憶えていないか。それでもどうやら俺のことを覚えていたようだ。
「ああ、合ってるよ。鈴鳴支部所属の村上鋼だ、よろしく」
「長谷瑞貴、学校行ってたら高三らしい」
「あ、同い年か」
 あの日は何ともあやふやな言い方をしていたが、どうやらきちんと年齢が判明したらしい。苛烈な日々を過ごして日付を数えることも出来なかったのか、それとも近界とこちらでは暦なども違うのだろうか。ともあれ同級生であるならば多少気が楽になる。
「そうなんだ、まあそんな感じ。よろしく、鋼」
「えっ」
「ん?」
 荒船やカゲ、水上や穂刈など男友達に下の名前で呼ばれることは多いが、女子に、それもいきなり名前を呼ばれるのは初めてで少し動揺してしまった。一方の長谷と言えば何の躊躇いもなく、今も動揺を見せる俺に対して首を傾げている。まるでこちらの反応がおかしいかのような仕草は勘弁してほしい。
「長谷、同い年でもほぼ初対面の人間を下の名前呼び捨てはやめときな」
「あ、ごめん。向こうにいた時の癖かも。嫌だった?」
「いや、ただちょっとびっくりしただけだ。・・・近界だと名前で呼び合うことが多いのか?」
「そうだね、わりかし。名字がない人が多い国も多かったし」
「なるほどな。鋼でいいよ、同級生は下の名前で呼ぶ奴が多いし」
「それなら遠慮なく。私も名前でいいよ」
「え”」
「ぶふっ」
 彼女からの想定外の提案に、自分でもどこからそんな声が出た?と笑ってしまいたくなるような間抜けな声が出た。吹き出した寺島さんはそっぽを向いて震えているし、長谷はきょとんとした顔をしている。寺島さんのアドバイスを見事に脇に置いた発言だったのだが、彼女の発言にツッコむ前に俺の声でツボってしまったらしい。何とも言えない空気に若干の気恥ずかしさを感じながら、改めて彼女と向き合う。
「・・・じゃあ、瑞貴、だな。改めてよろしく」
「うん」
 よろしく、目の前の少女はそう穏やかに呟いた。



狭間