巡りのもよう
宙に浮いた右の足首を掴んでやると、剣呑であった目付きから一転、驚きに満ちた表情に変わる。そしてその時初めて、案外少年が大きな瞳をしていることを知った。猫のようなまんまるの瞳の中に、困惑した表情を浮かべる自分がはっきりと写っている。薄く膜を張った澄んだ硝子玉を縁取る睫毛は密度が高く、そして長い。成程、こうして見ると整った顔立ちは一気に幼さを増し、年相応かそれ以下に見えた。
「っ離せや!」
しかし次の瞬間に表情は元の不機嫌なそれに戻り、掴まれた足を無理に引くので咄嗟に手を離した。片足という不安定な姿勢から転んでしまう可能性があったからだ。頭を打ちつけてしまうと命に関わるし、仮に頭を打たなくとも床についた手など怪我されたら困る。先に手を出してきたのは彼だとしても、自分の方が歳上で――しかも彼は未成年である――キャストの彼と違い自分は格下のキッチンスタッフ。責任問題を問われた時に不利益を被るのは勘弁であった。
そもそも、キッチンであまり暴れられたくなかった。埃が舞うので。
「……んだよその目は。文句あんのか」
「いや、あのね、文句のあるなし以前に君が勝手につまみ食いをしようとしたのが問題だろう」
返しに不満があったのか、彼は唇を突き出してテーブルの上を指さす。その先にあるのは、未だうっすらと湯気が立つ出来立てのおにぎりであった。
「だって、それメニューじゃねえだろ」
彼の言う通り、主に女性をメインの客とするスターレスにおにぎりという無骨なメニューはない。余りの食材を使った賄いであるという指摘はその通りなのだが、これだけは特別で、届けるべき人物がいるのである。
「だからって勝手に食べていい訳じゃないから。これは運営くんへの差し入れ」
それに、賄いを提供する場所はここではなく、他の者が作った料理がきちんと準備されている。それを指摘すると、彼は途端に顔を顰める。
「……だってよぉ……あっちはさぁ、黒曜がいんだろ」
と彼――ミズキは言いにくそうに辿々しく言葉を紡いだ。
キッチン業務をしている立場で、キャストと関わることはあまりない。しかし、この店ではキャスト自らがステージ業からホールスタッフ業まで担うことや、賄いを提供することもあって、名前と顔(本名ではなく、芸名のようなものらしい)は一方的に知っていた。
ミズキというキャストについての情報は、未成年であること、前店舗からの古参であることしか知らない。加えて、いつも不機嫌そうにしているところしか見たことがなかった。関わりを持つことなどこれまでも、そしてこれからもないと思っていたし、平和主義を掲げる身として見た目の粗暴な彼らと接するのは避けていたいと思ったいた。しかし、事務業に励む運営用に用意した差し入れに手を出されそうになり、当然のことだが制止の声をかけたのだ。その後蹴りを入れられるとは思ってもいなかったが。
ミズキ曰く、普段賄いを提供しているスペースには黒曜というキャストがいて、あまり会いたくはないらしい。しかしお腹は空いている。何か腹の肥やしになるものはないかと探していたところ、ちょうど良くおにぎりがあったので頂いてしまおうとしたそうだ。
「えっと、じゃあ黒曜と喧嘩していて気まずいってことかな」
「喧嘩じゃねーよ。ただ会いたくねーってだけだ」
「早く仲直りした方がいいと思うよ」
「だから喧嘩じゃねぇって」
と、ミズキが荒々しく言葉を放った時、不意にぐぅ、と鈍い音がした。音源など聞かずとも分かっていて、ミズキの腹に視線を向ける。しばらくの沈黙の後、再び腹の音がなった。
「うっせえぞおっさん! 腹減ってんだよ悪いか!」
「何も言ってないし、それにおっさんは止めてよ」
ミズキは頬を紅潮させ、唾の飛ぶ勢いで捲し立てる。いくら口が悪かろうが、容姿のオラつき具合が凄まじかろうが、不思議と怖くはない。論点がたったのおにぎりということもあって、怒りを顕にしていても子犬の威嚇のようにしか見えなかった。
だから、怒鳴った勢いのまま、肩を怒らせて厨房から出て行こうとするミズキの背に声をかけてしまったのだ。
「お腹が空いてるんだろう? これは運営くん用だけど、特別に何か作ろうか」
するとミズキは黙ったまま大股で近付いてきた。そして目の前まで辿り着くと、満面の笑みを浮かべて肩を軽く殴ってくる。
「おーおー、お前イイヤツじゃ〜ん!」
その切り替えの早さよ。軽快に返された手のひらに困惑した。
「……最初から狙ってた訳じゃないよね?」
「んなわけねーだろおっさん! てかオレ肉食いたい!」
おっさんは止めて、と再度言うもミズキの脳内は肉のことでいっぱいになっているらしく何も聞いていない。余程腹が空いていたのだろう、弾む足取りで冷蔵庫へと向かう背中を見て、笑うと幼さが増すのだと、呑気なことを思った。
そして、全ての始まりとなる奇妙な出会いは、こうして誰の知る所でもなく起こっていたのだった。