手のひらからこぼれる星屑
特別に寒い日であった。今朝のニュース番組で、今夜雪の恐れがあると注意されるくらいには。
のろのろと着替えを済ませたヒースは、両手を擦り合わせながら人気のないバックステージの廊下を歩く。時折指先に息を吹きかけるも、コンクリートが剥き出しになっている床や壁から冷気が立ち上るせいで熱はすぐに奪われてしまう。一歩を踏み出すたびに、悴んだ爪先が痺れる感覚がした。煌びやかな表舞台のホールとは対照的に、費用を極限までカットしたバックステージに充分な空調設備が用意されている筈がなかった。辛うじてクーラーは設置されてはいるものの、暖房はない。暑さで人は死ぬが、寒さで人は死なないということである。
ヒースは今日ほど早入りを後悔した日がないと思った。自宅にいても手持ち無沙汰なので、レッスンも公演もない日ではあるがスターレスにやって来たのが少し前のこと。ホールのシフトは入っていたので、どうせ来ることになるのだからと思っていたが、これはギリギリまで家にいた方が良かったかもしれない。開店作業までしばらく空いているので、自主トレーニングでもして身体を温めようかとレッスン室の予約表を見たところ、残念ながら予約はいっぱいになっていて、飛び入りでさえも出来ぬ状況であった。チームBのメンバーもまだ来ている気配はない。
となれば、ヒースの行先は一つに限られていた。
金のかけられていないバックステージの中で、唯一人の出入りが多いからとエアコンが設置され、冬でも暖かい部屋。つまり、運営のいる事務室である。
行先の決まったヒースはやや足早に廊下を進む。その時、ふと前からやってくる人影を見つけた。
「あれ、ヒース」
「……こ、んごう」
早いね、とヒースに言う金剛であるが、金剛もすでに着替えを終えているのでお互い様である。聞くと、厨房の手伝いをしていたそうだ。
「下拵えがひと段落ついたから少し休憩しに来たんだけど、ヒースは?」
「することないから事務室行こうとしてた」
「そっか……えっと、体調悪い?」
屈んだ金剛がヒースの顔を覗き込む。ヒースは首を傾げて、そして横に振った。金剛はそれでも心配さを全面に押し出した顔をする。そういえばこの男は、他人ことを真剣な顔して考える人間であるのだった。ヒースの今までに見てこなかった人種であり、対応に困るのが常であった。
居心地の悪そうに目を逸らしたヒースは、頬を掻きながら告げる。
「ちょっと寒いだけ」
それなら、と金剛はポンと手を合わせる。
「おいで、いいものあげる」
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あたたかいマグカップから伝わる熱が、寒さで強張った指先をほぐし溶けていくような感覚がした。
「これがいいもの?」
うっすらと湯気の立ち上るカップを受け取ったヒースは、訝しげに金剛を見上げる。金剛は、得意げな顔をして「良い蜂蜜が手に入ったんだ」と言った。
コンロにかけていた片手鍋を洗う背中から目を逸らして、ヒースはきょろきょろと周りを見渡す。連れてこられた厨房の内部は、先に金剛の言った通り準備が一段落ついているようで人は少なかった。
「やっぱり寒い日はホットミルクだよね」
ヒースと同じカップを手にした金剛は、作業台の影に置いてあったスツールを2つ手にすると片方をヒースに渡し、もう片方に座った。それに倣ってヒースも座る。
「ほら、温まるから飲んで」
カップに鼻を近付けて匂いを嗅ぐと、微かに甘い、花のような匂いがした。そっと縁に唇をつけ、中身を口内に含む。ちり、と舌先の焼ける感覚。
「美味しいだろ?」
「……あま」
「えっ、あ、ごめん。牛乳足す?」
「冗談。美味しいよ、ありがとう」
喉を通り抜けた温かい牛乳が腹に向かって行くのが分かる。背中や足は寒いけれど、指先や身体の真ん中は熱を灯しているのが面白かった。
ちびちびと飲みすすめるヒースを見て、金剛は嬉しそうに笑う。
「さあ、あたたまったら残りは事務室で飲もう。運営くんにも用意したんだ」
うん、と頷いてヒースは再びカップを傾ける。
やわらかな味がした。