秒針の最期
膝の上で静かに寝息を立てていた猫が、不意に尻尾でヒースの腕を軽く叩いた。柔らかな背に乗せていた手を離す。撫で過ぎたか、と顔を覗き込んで見たが、猫は薄いイエローの目を瞬かせただけであった。
すると、不意にヒースの頭上に影が現れる。
「なにやってんの?」
「藍」
ヒースが答える前に、藍は猫の存在に気付きわあ、と声をあげる。寝てんの、その場に蹲み込んで猫の顔を覗き込もうとすると、僅かに猫が身じろいだ。先ほど一度だけヒースの腕を叩いた尻尾が、今度はしきりに動き出す。片耳がピクリと動き、毛がふわりと逆立った。
この個体は非常に臆病な性格をしており、物音に敏感なのだ。ヒースは声を抑えて藍を咎める。
「大きい声出さないで」
ヒースが猫のご機嫌取りをするように指先で耳の付け根をほぐし、頭頂部を撫でてやると、渋々といったように身体を落ち着ける。
その様子を黙って見ていた藍は、ヒースの隣に座り込んだ。ヒースは猫から視線を外さぬままに尋ねる。
「どうかした?」
どうもしていない、と藍は答えた。今はレッスン室が空くまで待機する時間であり、いつもは空き時間に組み手などをするミズキはトップの集まりで不在、金剛は厨房へ出向き、リコは始めから構ってくれなくて暇だったと言う。それで休憩スペースにいたものの、これから煙草を吸うから、とやって来た鷹見とシンに追い出されたらしい。
そして気分転換に散歩に行こうとしたところ、人通りのない路地の端で座り込むヒースを見つけたらしい。
「絶対あれ、煙草じゃないって。追い出す言い訳やって」
キナ臭いヤクザ共め、と零す藍に、ヒースは思わず吹き出した。
「ヤクザって」
「いや、あの2人はヤクザやろ。特に鷹見。インテリヤクザの典型例。目赤いもん」
「目が赤いって……」
その理屈で言うと黒曜もヤクザになるし、藍自身、赤に近い色の目をしているのだが、あえて言及はしなかった。
藍の口は止まることを知らず、鷹見とシンについてのなにやらをペラペラ話し続けていたが、ヒースはひたすら猫を撫でて過ごした為に半分も聞いていない。つい先程うるさくするな、と注意したばかりなのに。しかし、抱いた猫は苛立つ様子も見せず、むしろヒースの膝の上でリラックスしていた。ヒースは逃げられないのを良いことに、長い毛の中に手を埋める。細い毛と毛の隙間に留まる空気が冷えた指先を温めた。
不意に、藍がヒースの顔を見る。
「ヒースはシン語分かる?」
話を聞いていなかったので、流れを全く理解していないヒースであったがとりあえず否、と首を横に振った。
「オレも〜! なんで鷹見は理解出来るんやろな〜」
「そうだね」
「シン語、オレも話してみたいんだよな。カッコイイもん」
「うん」
「シンはともかく鷹見に聞いたら教えてくれるかな〜」
「……うん」
「……ヒース、話聞いてる?」
ヒースは猫から目を離さない。
「うん」
聞いてないやろ、と藍がヒースの側頭部を指で弾いた。
驚いたヒースが身体を動かしたその瞬間、猫はするりとヒースの膝の上から地面に降りると駆け出して行ってしまう。
あ、とヒースの間抜けた声が溢れた。
「行っちゃった」
「あーあ」
軽やかな足取りで、猫は閑散とした路地の中央を走っていく。段々と小さくなっていく姿を見送って、ヒースは立ち上がった。
「戻る」
「え、怒った!? 猫行っちゃったから?」
「怒ってない」
怒ってるじゃん、と言う藍の言葉には隠しきれない愉悦が含まれていた。
ヒースは、しゃがんだままの藍に背を向けて、足早に店へと戻ろうと歩き出す。
藍はすぐに追いかけてきた。
「そんなに猫撫でたかったら藍ちゃんの頭撫でていいよ!」
「いらない」
「なんで!? ちょー貴重なんやけど!」
「いらない」