早く目が覚めて、珍しく私は夏休みの宿題という名の問題集を机に並べた。もう7月も終わりに近づいて、8月はすぐそこまできている今日この頃。夏が本気を出しているせいか毎日最高気温が更新されていた。
とはいえ早朝は比較的涼しいので、窓を開けて扇風機をつけてみる。じわじわと首元や額に浮いていた汗が風に当たって気持ちいい。全く手がつけられていないと言っても過言ではない問題集の最初のページを巡ってシャーペンを握る。そんなに等級の高くない私は最近、任務をあまり当てられていない。ともすればこの貴重な期間に宿題を進めるのが賢明な判断というものだろう。正直あまり数学は得意ではないのだが、未来の私のために腹を決めることにした。
問題集の横に教科書を並べて、ひとまず解けそうな問題から埋めていく。扇風機と、窓の外の微風と蝉の声、そして手元のシャーペンの音だけが私の世界に流れてくる。ベッドに放置されていた携帯が賑やかに騒ぎ出すまではかなり集中できていたと思う。
「びっくりした……」
何ページか進んだところで突然、あまり鳴らない着メロに意識を引き戻された。この音は七海か灰原のどちらかからである。けど七海は本当に緊急の任務が発生したとか余程のことがない限り連絡してこないので、おそらくは灰原だろう。緩慢に腕を伸ばして携帯を開く。
メールの送信者は……やはり灰原だ。特に約束をしていたわけではないが一体どういう用件だろうか。メールボタンを押してから一番上の未読を開封する。件名は特になかった。
《起きてる?夏油さんがスイカもらったらしいんだけど、苗字も食べない?》
な、なんて魅力的なお誘いなのだろう。スイカはまだ今年食べていないし、ちょうど小腹も空いてきたところだ。断る理由などあるはずもなく、私は速攻で《食べる!》と返信をした。
ひとまず問題集はそのままに、適当に出られるような服に着替えて軽く髪を整える。灰原からの返信も待たずに携帯だけ握りしめて自室から出た。向かうは共用スペース。きっとそのあたりにいるだろう。
私が集中していた間にわりと時間は過ぎていたようで、太陽は空の真ん中付近まで移動していた。うちわを持ってくればよかったかな、と思うくらいには暑さが戻っていて、申し訳程度に手で風を送ってみる。いや、暑い。
握りしめていたほうの手のひらの中で携帯が振動した。メールの返信が来たらしい。確認すると、やはり共用スペースにいるとのことで、夏油さんがスイカを切り分けてくれているらしい。五条さんがすでに二切れ食べているようで、《早く来たほうがいいよ!》と急かす文言で締められていた。
「灰原!まだある!?」
「うわっ、来るの早いね?!」
まるい黒の後頭部に大きな声で呼び掛ければ、驚いたように肩を揺らしてから灰原がこちらに振り返る。手元には半分近く食べられたスイカ。めちゃくちゃ美味しそう。なんで夏油さんはスイカもらって帰ってきたんだろう。謎だけど感謝である。
「まだギリギリ残ってるよ」
そう返事をしてくれたのは当の夏油さんだった。いつもしっかり首元まで締めている学ランは流石に着ておらず(暑いしな……)ラフな格好で椅子に腰掛けている。
「瞬間移動してきたの?」
「灰原がメールくれた時点で部屋出たもん。あ、夏油さん、私もいただいちゃって大丈夫ですか…?」
「全然いいよ。悟に全部食べられる前に食べちゃいな」
「ありがとうございます!」
「苗字こっち座りなよ」
「あ、ありがとう」
綺麗に切り揃えられたスイカの一切れをお皿に載せて、スプーンと塩も確保する。その間に灰原が自分の横の椅子を引いてくれたので、お言葉に甘えてそこに座らせてもらった。
輝く真っ赤なスイカに、塩を少しかけて一口目はそのままかぶりつく。塩が絶妙に甘さを引き立てて本当に美味しい。下手に水を飲むより水分補給できるんじゃないかと思うくらいのみずみずしさだ。種を取るのがちょっと面倒だが、この美味しさと比べたらなんでもない。あのまま部屋にこもってたらこの感動と出会えてなかっただろうな。その点では灰原にもめちゃくちゃ感謝である。
「美味し?」
「美味しい!灰原、メールくれてありがとね」
「よかった!絶対みんなも食べたほうがいいと思ったからさ」
「そういえば七海は?」
「さっき食べる分だけ持って部屋帰ったよ」
「あ、そうなんだ」
見回してみると家入さんと庵さんもいないから、多分二人も自室にいるのだろう。私もスイカを食べ終わったらまた部屋に戻って宿題をやろうかな。でもそれだけだとあまりに現金なやつに思われるだろうか。まあ、実際スイカ目当てで来ただけだから違いはないんだけど。
種と格闘しながらひたすらスプーンで掘り進める私の隣で、灰原はすでに綺麗に平らげていた。赤い部分が全くない。すごすぎる。
「夏油さん、美味しかったです!ありがとうございました!」
そう言って流し台にお皿を持っていく灰原に、夏油さんはニコニコとした顔で手を振りかえす。それから灰原は自然な手つきで皮をビニール袋に入れて、食器を洗って水切りカゴに立てかけた。それをなんとなく横目で見つめながら、育ちがいいなぁとぼんやり思う。もし自分の彼氏とか旦那さんがあそこまで自分でやってくれたらかなり助かるだろうな。彼氏いないから知らないけど。
相変わらず夏油さんと五条さんはのんびりスイカを食べながら携帯をいじったりして雑談している。多分当分ここに残るのだろう。灰原はどうするのかな。このまま部屋に戻ってしまうのだろうか。戻ってもいいんだけど、せめて私が食べ終わるまではここにいてほしい。この空間に3人だけなのは微妙に居心地が悪いので。
私の心のうちを知ってか知らずか、視界の端で黒髪がこちらの様子を伺うのを察知した。元々座ってた椅子の背もたれに肘を乗せて、「そろそろ食べ終わる?」と聞いてくる。
「ちょい待ち!」
それだけ返事をして、残りの赤い部分を掻っ攫う。先ほどの灰原のものと比べたらまだ食べられる部分があるようにも思えるが、これだけ食べたら上出来なほうだ。現に五条さんのお皿に積まれているスイカの皮の上にはまだ割と食べられそうなほど果肉が残っている。あえて指摘することではないけども。
口の中のものを全て飲み込んで、「夏油さんごちそうさまでした!美味しかったです!」と声をかける。先ほどと同じように彼はニコニコと手を振ってくれた。
灰原に倣って皮をビニールの中に入れ、ささっと食器を洗ってしまう。近くのタオルで手を拭いてから、共用スペースの出入り口まで移動していた灰原と合流した。
「苗字はこのあとなにするの?」
「部屋に戻って宿題かな。実はさっきまでそれやってたんだよね」
「へえ〜、……宿題……??」
そんなものあったっけ、などと恐ろしい顔をする灰原。あったよ。堂々と出されていたよ。「存在、忘れてたかも」なんて想像通りの言葉を言うからつい笑ってしまった。
「灰原は最近任務続きだったんだっけ?」
さすがに勉強が好きとかじゃなくても、よほどのことがない限りあんなに休み前に夜蛾先生に念を押されていた宿題の存在を忘れるなんてことはないはずだ。特に灰原は不真面目な生徒ではないから、初めからやる気がなくて記憶から消えてるなんてこともない。ない……と思う。
「そうだよ〜……今日も朝くらいに戻ってきたばっかでさ。それでたまたま同じように任務終わりの先輩たちと一緒になったんだけど、なんでか夏油さんがスイカ片手に持ってて」
「あ、そういう流れだったんだ。てか朝帰りとか大変だね。お疲れ様」
疲れたような顔をしたり、楽しそうな表情になったり、彼を見ているといろんな感情がくるくると出たり入ったりするのがわかるから面白い。とにかく、単発的な任務が続いたせいで息つく暇もなく今日まで来てしまったらしい。宿題の存在を忘れてしまうのも頷ける。であれば、と私は同級生のよしみでこんな提案をする。
「ねえ、これから一緒に勉強会しようよ。って言ってもそんなに教えられることないけど」
「え!」
助かる!と今にも抱きついてきそうな勢いの灰原の目は輝きに満ちている。よほど困り果てていたらしい。とりあえずこのあとお互い問題集を持って再度集合ということになったが、果たして私と灰原だけで進められるのだろうか。ちょっと心配である。七海にも誘いを入れてみようかな。ぱち、と携帯を開いてみる。ゆるゆるとメールボックスから七海の名前を探して、あまりの見つからなさに大人しくアドレス帳からメールを作成した方が早いかもしれない、と思い至る。
「……ね、七海も誘う?」
「え、その予定だったけど」
珍しく灰原がちょっと小さめのボリュームで聞いてきた。いつもだったらむしろ「誘っといた!!」とすら言いそうなのに。
彼は薄い灰色の瞳をちらちらと彷徨わせながら、弱々しくこちらに焦点を合わせた。光を反射して、白銅のように煌めくそれに、うっかりと心の奥を焼かれそうになる。どうしたんだ、私。灰原が急に真面目な顔になるから、なんだか変な気分になる。
「七海ももちろん誘ってもらっていいんだけど……!むしろいないと困るかもしれないんだけど……」
「うん」
「ちょっとだけ、二人で頑張ってみない……?僕なりに精一杯やるから……」
「う、うん。全然いいよ」
私の返事に「やった!」と嬉しそうに返すものだから、その姿につい犬の尻尾がぶんぶんと振られているような幻覚すら見える。そんなに喜ぶことかな、私と宿題やるだけなのに。
なのに、じわじわと私まで嬉しい気持ちが込み上げてくる。本格的に変かもしれない。いきなりこんな、なんでだろう。体温が少し上がったような気がする。申し訳程度に手で風を送ってみたけど、やっぱり暑かった。