ご主人様は悪役令嬢にはなれない9(オランジュ編2)
「……ジュ、オランジュ、オランジュ!!!」
気がついた時には遅く、雇い主のつんざくような怒号と共に鋭い痛みが頬に走りました。
思ったより足に力が入らなくて、そのまま床に倒れ込んでしまいます。
口の中が切れたかもしれない……。
どうやら私は、新しい雇い主にぶたれてしまったようです。
「お前! さっきから何度も何度も呼んでいるのにちっとも返事をしやしない。聞いているのかい!」
「す、すみませんっ、おくさま……」
私は慌てて立ち上がり謝りました。
すぐに反応しなければ、またぶたれてしまうからです。
ぶたれてしまったのも、これも私が悪かったのです。短気でせっかちな雇い主の性格を知っていながら、私が昔を思い返してぼんやりしていたから。
途中まで進めていた婚礼用の布を確認する手を止め、私は来いと命じる雇い主の後をついて行きました。伯爵様の城で働かせてもらう前の工場より大きな工場でしたが、建物のあちこちが傷み、劣化も激しい工場でした。
雇われている人数は建物に比べて少数精鋭で、給料も働く割合に対して少なく、工場で働く人はみな不満に思っていました。それゆえに、女たちの間ではいつも衝突やいじめが横行していて、私もその被害の例外ではありませんでした。
私はこの工場に辿り着くまでに六回の転職を行っています。
近頃は、能力があっても人間同士のコミュニケーションが取れない輩は必要ないみたいで。そんな理由もあってか、私は伯爵様の屋敷を追い出されてから中々新しい仕事につけませんでした。
そんな中でも就職できたこの工場は婚礼衣装を作る仕立て屋で、貴族から町民、平民までさまざまな夫婦が何度も足を運んでは衣装の内容を話し合い、決定したものを納期までにそれぞれ作業を分担して完了させていきます。本当なら私も、裁縫の第一線で作業ができたらと淡い期待を寄せていましたが……。
新入りの私の仕事は布を解いて糸に戻したり、布を買ってきたり、掃除したりなど誰もができる……下手をすれば子供でもできる仕事でした。
「今度はこの洋服を解いて、糸にしておいてちょうだい」
「……はい」
工場の裏に集められた大量の服を前に、私は心の中でため息をつきました。
ひとりでやってのけるのはあまりにも多い服の山。
これを夕方までに解いておけというのだから、奥様も相当鬱憤が溜まっているみたい。
「どっちが先でもいいから、あとは新たに入った注文の仕様書をよく確認した上で、今日中に布を用意しておくように。……何か不満があるのかい?」
「い、いいえ。とんでもないです」
私が俯きがちに洋服を眺めていたものだから、奥様が眉間に皺を寄せて聞いてきました。
私は慌てて否定しましたが、奥様は愛想なく「なら、さっさとやっておくんだよ」と声を荒げました。
「仕様書がまとめて置いてある場所はもう覚えているね?」
「……えっと」
「まさか、また忘れたんじゃないだろうね?」
「……」
長い沈黙の後、私は「工場の奥様の机の2番目の引き出し」ですと答えましたが、大きなため息の後にそこに入っているのは領収書と昼のおやつだよ! と怒られてしまいました。
「玄関ロビーの大棚の上にあるラックにすべて刺さってる。早くしな!」
「は、はいっ」
私は奥様から言われた言葉をまた忘れてしまわないように、足早にロビーへと駆け出しました。
◇ ◇ ◇
古びた工場の赤い扉からオランジュが出てきたのを見て、僕とシロ様は物陰に隠れた。
何か大事そうな紙を、手提げ籠に入れてはまた取り出して確認し、また仕舞っては取り出して再度確認をしている。
忘れっぽい彼女のことだ。何度も確かめておかなければ忘れてしまいそうで不安なのだと思う。
三度目の確認を終えた後、オランジュは集合商店街の方へと早足で歩いて行った。
きっと、雇い主に買い物を頼まれたのだろう。
オランジュの背中がまだ見えている内に、僕はシロ様に尋ねた。
「追いますか?」
「いえ、今はいいわ」
シロ様が即答したので、僕はオランジュから視線を外した。
僕たちは奥様に復讐をするために、まずはオランジュの元を尋ねていた。
使用人の所在はお嬢様の調べで全てわかっているらしい。
僕の次にオランジュの元を尋ねる理由をシロ様に問うたところ、『いつまでも同じ服でいるわけにはいかない』からだと仰った。
僕ならコックのゲルプから先に会いに行きたいと思うけれど、シロ様に限らず全ての女性は、料理より身なりを優先するらしい。
男の僕には理解しかねる。
シロ様は工場の様子を覗いたり、時折ぶつぶつと呟きながら、何か考えていた。
僕の頭の中では、彼女が言った「復讐」の二文字でいっぱいだというのに……。そんな不安を他所に、シロ様はひとしきり工場を覗いた後、僕の方へ向き直ると仕切り直すようにしてはつらつと言った。
「さてと。さあ、ブラウ! 中に入るわよ」
「はい、シロさ……ええっ!?」
僕は素直に頷こうとしてたじろいだ。
まさか、工場内に潜入されるおつもりだろうか?
先日の火事一件を思い出し、今度こそ悪党になってしまいそうなお嬢様を慌てて止めようとした。
しかしお嬢様は両手を腰に当て、もう何度目かの飽きれた顔で言い放った。
「工場の方に用はないわ。私たちが入るのは店の方よ。もうっ、早く行くわよ」
シロ様は僕の隣に立つと、すっと僕の腕に自分の腕を滑らせて、腕を組んだまま店に引っ張っていこうと歩き出す。
バランスを崩しかけた僕は慌てて彼女が向かう先へと歩幅を合わせた。
店は工場の反対側、オランジュが商店街へと向かっていった大通り側に入り口を設けているようで、それほど遠くはない。
扉の前で二人、店を見上げる。工場と違い塗装をやり変えたのか、店先は綺麗に見えた。
オレンジの屋根に白い壁。温かみのある木製の扉にブロンズの取っ手。
格子窓で中の様子は何となくわかるが、会計机が一つと顧客との打ち合わせ用の机と椅子が二つほど。また、壁際には様々な婚礼衣装がトルソーに飾られている。
どうやら主に婚礼衣装用を扱うお店のようだ。
ん?
僕は何か引っかかる疑問を頭に浮かべたが、シロ様に急かされてそのまま店の方へと歩を進めた。
「いらっしゃいませ」
店内は思ったより光が差し込んでいて明るい。
工場の暗く陰気臭い雰囲気とは打って変わってホワイトな空間である。
店の奥から、この店の主人だろう恰幅な女性が手を組んでやってきた。が、僕とシロ様の姿と見ると明らかに残念な表情をして急に愛想のない態度で話しかけて来た。
「……どのようなご用件で?」
これは、金のないやつはとっとと帰んな! という顔だな。
僕は経験上そう思った。無理もない、若い男女が二人。いくら適齢期とはいえ、身なりがそれほど裕福でもなさそうな二人に来られても。貴族から平民まで相手をしているとしても、商売人から見ればポテンシャルの下がる客だろう。
僕はオランジュのもとを尋ねたと直球で告げようと口を開いた、その時。
ぼとっ。
ぼと、ぼとと。
シロ様が笑顔で懐から札束を机の上に投げ捨て、そして、とんでもない爆弾発言を投下してきた。
「私たち、今月結婚するの!」
「ブーーーーーーーーッ!?」
僕は札束よりもシロ様の発言に、噴いて後ろにひっくり返りそうになった。
誰と、誰が、結婚するって?
口を魚のようにぱくぱくさせながら彼女に何か言おうとしたが、シロ様に視線でそれを止められて僕は少し冷静さを取り戻した。
何か、考えがあるのか。
主人は彼女の爆弾発言よりも、目の前の札束に顎が外れそうなほど驚いている。まあ、そうだろうな。見た感じ、この店一年間の家賃分はありそうだからだ。
「だから、それに見合う私のウェディングドレスを作って頂きたいの。ねえ、あなた!」
「は、はは……」
笑うしかない僕に、シロ様は邪気のない笑顔でそう言った。
誰があなただ。
気がついた時には遅く、雇い主のつんざくような怒号と共に鋭い痛みが頬に走りました。
思ったより足に力が入らなくて、そのまま床に倒れ込んでしまいます。
口の中が切れたかもしれない……。
どうやら私は、新しい雇い主にぶたれてしまったようです。
「お前! さっきから何度も何度も呼んでいるのにちっとも返事をしやしない。聞いているのかい!」
「す、すみませんっ、おくさま……」
私は慌てて立ち上がり謝りました。
すぐに反応しなければ、またぶたれてしまうからです。
ぶたれてしまったのも、これも私が悪かったのです。短気でせっかちな雇い主の性格を知っていながら、私が昔を思い返してぼんやりしていたから。
途中まで進めていた婚礼用の布を確認する手を止め、私は来いと命じる雇い主の後をついて行きました。伯爵様の城で働かせてもらう前の工場より大きな工場でしたが、建物のあちこちが傷み、劣化も激しい工場でした。
雇われている人数は建物に比べて少数精鋭で、給料も働く割合に対して少なく、工場で働く人はみな不満に思っていました。それゆえに、女たちの間ではいつも衝突やいじめが横行していて、私もその被害の例外ではありませんでした。
私はこの工場に辿り着くまでに六回の転職を行っています。
近頃は、能力があっても人間同士のコミュニケーションが取れない輩は必要ないみたいで。そんな理由もあってか、私は伯爵様の屋敷を追い出されてから中々新しい仕事につけませんでした。
そんな中でも就職できたこの工場は婚礼衣装を作る仕立て屋で、貴族から町民、平民までさまざまな夫婦が何度も足を運んでは衣装の内容を話し合い、決定したものを納期までにそれぞれ作業を分担して完了させていきます。本当なら私も、裁縫の第一線で作業ができたらと淡い期待を寄せていましたが……。
新入りの私の仕事は布を解いて糸に戻したり、布を買ってきたり、掃除したりなど誰もができる……下手をすれば子供でもできる仕事でした。
「今度はこの洋服を解いて、糸にしておいてちょうだい」
「……はい」
工場の裏に集められた大量の服を前に、私は心の中でため息をつきました。
ひとりでやってのけるのはあまりにも多い服の山。
これを夕方までに解いておけというのだから、奥様も相当鬱憤が溜まっているみたい。
「どっちが先でもいいから、あとは新たに入った注文の仕様書をよく確認した上で、今日中に布を用意しておくように。……何か不満があるのかい?」
「い、いいえ。とんでもないです」
私が俯きがちに洋服を眺めていたものだから、奥様が眉間に皺を寄せて聞いてきました。
私は慌てて否定しましたが、奥様は愛想なく「なら、さっさとやっておくんだよ」と声を荒げました。
「仕様書がまとめて置いてある場所はもう覚えているね?」
「……えっと」
「まさか、また忘れたんじゃないだろうね?」
「……」
長い沈黙の後、私は「工場の奥様の机の2番目の引き出し」ですと答えましたが、大きなため息の後にそこに入っているのは領収書と昼のおやつだよ! と怒られてしまいました。
「玄関ロビーの大棚の上にあるラックにすべて刺さってる。早くしな!」
「は、はいっ」
私は奥様から言われた言葉をまた忘れてしまわないように、足早にロビーへと駆け出しました。
◇ ◇ ◇
古びた工場の赤い扉からオランジュが出てきたのを見て、僕とシロ様は物陰に隠れた。
何か大事そうな紙を、手提げ籠に入れてはまた取り出して確認し、また仕舞っては取り出して再度確認をしている。
忘れっぽい彼女のことだ。何度も確かめておかなければ忘れてしまいそうで不安なのだと思う。
三度目の確認を終えた後、オランジュは集合商店街の方へと早足で歩いて行った。
きっと、雇い主に買い物を頼まれたのだろう。
オランジュの背中がまだ見えている内に、僕はシロ様に尋ねた。
「追いますか?」
「いえ、今はいいわ」
シロ様が即答したので、僕はオランジュから視線を外した。
僕たちは奥様に復讐をするために、まずはオランジュの元を尋ねていた。
使用人の所在はお嬢様の調べで全てわかっているらしい。
僕の次にオランジュの元を尋ねる理由をシロ様に問うたところ、『いつまでも同じ服でいるわけにはいかない』からだと仰った。
僕ならコックのゲルプから先に会いに行きたいと思うけれど、シロ様に限らず全ての女性は、料理より身なりを優先するらしい。
男の僕には理解しかねる。
シロ様は工場の様子を覗いたり、時折ぶつぶつと呟きながら、何か考えていた。
僕の頭の中では、彼女が言った「復讐」の二文字でいっぱいだというのに……。そんな不安を他所に、シロ様はひとしきり工場を覗いた後、僕の方へ向き直ると仕切り直すようにしてはつらつと言った。
「さてと。さあ、ブラウ! 中に入るわよ」
「はい、シロさ……ええっ!?」
僕は素直に頷こうとしてたじろいだ。
まさか、工場内に潜入されるおつもりだろうか?
先日の火事一件を思い出し、今度こそ悪党になってしまいそうなお嬢様を慌てて止めようとした。
しかしお嬢様は両手を腰に当て、もう何度目かの飽きれた顔で言い放った。
「工場の方に用はないわ。私たちが入るのは店の方よ。もうっ、早く行くわよ」
シロ様は僕の隣に立つと、すっと僕の腕に自分の腕を滑らせて、腕を組んだまま店に引っ張っていこうと歩き出す。
バランスを崩しかけた僕は慌てて彼女が向かう先へと歩幅を合わせた。
店は工場の反対側、オランジュが商店街へと向かっていった大通り側に入り口を設けているようで、それほど遠くはない。
扉の前で二人、店を見上げる。工場と違い塗装をやり変えたのか、店先は綺麗に見えた。
オレンジの屋根に白い壁。温かみのある木製の扉にブロンズの取っ手。
格子窓で中の様子は何となくわかるが、会計机が一つと顧客との打ち合わせ用の机と椅子が二つほど。また、壁際には様々な婚礼衣装がトルソーに飾られている。
どうやら主に婚礼衣装用を扱うお店のようだ。
ん?
僕は何か引っかかる疑問を頭に浮かべたが、シロ様に急かされてそのまま店の方へと歩を進めた。
「いらっしゃいませ」
店内は思ったより光が差し込んでいて明るい。
工場の暗く陰気臭い雰囲気とは打って変わってホワイトな空間である。
店の奥から、この店の主人だろう恰幅な女性が手を組んでやってきた。が、僕とシロ様の姿と見ると明らかに残念な表情をして急に愛想のない態度で話しかけて来た。
「……どのようなご用件で?」
これは、金のないやつはとっとと帰んな! という顔だな。
僕は経験上そう思った。無理もない、若い男女が二人。いくら適齢期とはいえ、身なりがそれほど裕福でもなさそうな二人に来られても。貴族から平民まで相手をしているとしても、商売人から見ればポテンシャルの下がる客だろう。
僕はオランジュのもとを尋ねたと直球で告げようと口を開いた、その時。
ぼとっ。
ぼと、ぼとと。
シロ様が笑顔で懐から札束を机の上に投げ捨て、そして、とんでもない爆弾発言を投下してきた。
「私たち、今月結婚するの!」
「ブーーーーーーーーッ!?」
僕は札束よりもシロ様の発言に、噴いて後ろにひっくり返りそうになった。
誰と、誰が、結婚するって?
口を魚のようにぱくぱくさせながら彼女に何か言おうとしたが、シロ様に視線でそれを止められて僕は少し冷静さを取り戻した。
何か、考えがあるのか。
主人は彼女の爆弾発言よりも、目の前の札束に顎が外れそうなほど驚いている。まあ、そうだろうな。見た感じ、この店一年間の家賃分はありそうだからだ。
「だから、それに見合う私のウェディングドレスを作って頂きたいの。ねえ、あなた!」
「は、はは……」
笑うしかない僕に、シロ様は邪気のない笑顔でそう言った。
誰があなただ。