僕は台所を勢いよく飛び出すと、オリーフ様を振り返らずにシュネー様の眠る部屋へ向かった。
 息を切らしながら辿り着いた彼女の部屋の扉を、荒々しく叩く。

 頼む、早く出てくれ!
 逸る気持ちのままに泣きそうな顔で彼女の名前を呼んだ。

「シュネー様……シュネー様、起きて下さい!」

 するとしばらくして、眠そうに目を擦るシュネー様が扉から顔を覗かせた。

「どうしたのブラウ。こんな時間に……」
「シュネー様、急いで着替えて、支度をして下さい」

 僕はシュネー様の許可も得ずに勝手に部屋に潜り込むと、箪笥の引き出しを開け鞄に彼女の服を数枚入れ込んだ。意識がはっきりしてきたシュネー様は、何事なのかと怪訝そうに僕の顔を覗き込む。

「ブラウ?」

 早々に用意を済ませると僕は彼女の手をしっかりと握り、足早に部屋を出ようとする。台所がある方角を振り返ったが、オリーフ様は追いかけて来ていない。

 僕の胸が早鐘のように鳴って止まない。
 早く。早く、急がなければ。
 寝間着姿の彼女に向き直り、僕はシュネー様に言った。

「逃げましょう」

 僕の言葉の意味がわからず、シュネー様は首を傾げる。

「ブラウ、貴方の言っている意味がわからないわ。どういうことなのか、ちゃんと教えてちょうだい」
「すみません、きちんと説明をしたいのですが、今はその時間がありません。貴方が殺される前に、僕は貴方をこの城から助け出したい」

 殺される?とシュネー様は怯えた。

「殺されるって……」
「……」

 いったい誰に?
 その問いに僕は答えられない。

 とにかく今は僕を信じて着いてきて欲しいと懸命に訴えるも、彼女はそれを許さない。理由なく父や母と過ごしたこの城から出る事は、シュネー様にとって二人を裏切ることだと思っていたからだ。
 早くこの城から出なければ、シュネー様はオリーフ様に殺されてしまう。時間がないという焦りから、いつしか僕らの話は口論へと変わる。

「お願いします、僕とついてきてください」
「嫌よ。貴方が話してくれないなら、私はここから動かない!」
「――すみません」

 拉致があかないと感じた僕は、失礼を承知でシュネー様のお腹を拳で突く。シュネー様の体はがくりと力が抜け、彼女は僕の腕の中に収まった。
 ……申し訳ありません。
 そう心の中で呟いて、彼女を背負うと入口まで走る。

 僕の一族は、元々は身体の作りが他人と違う。だから見世物小屋で芸をしていたというのもあるけど、身のこなしや体力が普通の人より優れている。
 そのため、十二歳になったシュネー様一人分なら、十八の僕にはぬいぐるみを持つほどに軽く感じた。

 僕は、この城に足を踏み入れた日から今日まで、一度も外に出たことがない。
 けれど今、再び外の世界に出る。

 シュネー様が眠りから覚めない内に。
 オリーフ様がやって来ない内に。
 生温い風の中を、真っ暗な闇の中を、僕は、必死で走り続けた。

「はあ、はあ……。うっ……」

 シュネー様は重くもないのに、オリーフ様の事が頭にちらついて心が乱れ、何度もふらつきそうになった。その度に足に力を入れ直し、手でしっかりと彼女を支える。

 こんな闇の中を行く先に、シュネー様の希望はあるのか?
 僕はこの道を進んでいいのか?
 わからない。
 ぬかるんだ足元はぐちゃぐちゃで、靴にまで染みてきている。
 わからなくて不安に押し潰されそうだ。
 でも今は走るしかない。

 力を振り絞ろうと唇を噛みしめた時。
 僕は、いつか伯爵様が僕に言ってくれた言葉を思い出した。

『君は美しいね。まるで摩天楼を照らす月明かりのようだ』

 その瞬間、伯爵様の優しい笑顔や、優しい思い出が、いとおしい気持ちと共に蘇る。

「伯爵様……っ」

 僕は、走りながら涙を流していた。
 伯爵様。
 本当に、そうでしょうか?
 こんな僕でも、貴方にとって月明かりのような存在になれていたでしょうか?
 無我夢中でシュネー様を城から連れ出したけれど、本当にこれで良かったのでしょうか?
 自問自答しても答えは出なかった。

 僕は一人走り続ける。
 上手く呼吸をしようとしても涙と感情が邪魔をして苦しかったが、溢れ出る涙は乾いては流れ、止まることはなかった。

 僕は伯爵様のようになりたかった。
 伯爵様は僕にとってヒーローだったから。誰かのために何かをする時、その判断は正しいのか。誰かのための月明かりに、なれるのか。
 これが正しいのか、そうでなかったのかはわからない。
 わからないことが多すぎてどうにかなりそうだった。
 でも僕は、僕には……、シュネー様を殺すことも、見殺しにすることもできない。

 伯爵様の大切なものを、守りたかったから。

 宛てもなく走っているようで、行き先は決まっていた。
 城から大分離れた南の方、行き場のない子供たちが集まる孤児院があるのだ。そこは訳ありの子供でも預かってくれると聞いたことがある。
 僕は夜通し歩いて何とかその孤児院に辿り着いた。
 さすがの僕もその時には息切れしていて、彼女を背負っているのが精一杯だった。

 孤児院の責任者が僕に気づいて慌てて駆け寄って来る。僕はその方にシュネー様を託すと、ぐしゃぐしゃの顔で彼女の頬に触れた。

「シュネー様」

 彼女が起きないことをわかっていて、僕は呼びかける。
 起きなくていいです。
 理由も言わずにこんなところまで連れて来てすみません。
 一緒に居られなくて、すみません。
 貴方が悪役令嬢になって活躍する日を見られなくて……すみません。

「シュネー様、どうか」

 僕はポロポロと涙を零しながら、朝日に照らされる美しい彼女に笑って言った。

「お元気で」


 ◇ ◇ ◇


 それから五年の月日が経った。
 僕はあの後、孤児院にシュネー様を預け城に戻った。
 オリーフ様は僕に殺したか?とも、どこにやった?とも聞かず、追求することもなかった。シュネー様の姿が城にないことを知ると、何も言われなかった。
 ただ、勝手に城を抜け出した僕は、オリーフ様に解雇されホワイトブルク家の城から追い出された。

 そして今は、伯爵様に会う前のように見世物小屋で芸をしながら毎日を何となく生きている。
 ……これで、良かったんだ。
 僕は火の輪くぐりと空中ジャンプという芸を終えた後、拍手喝采の中、舞台を去って檻に戻った。

 見世物小屋は割りと大きなテント屋根になっていて、「サーカス」という名前だった。僕はそのテントの中に建てられた小さな小屋の中に住み込みで働いている。
 そこに勤める者は猛獣と同じように、檻の中が部屋であり待機場所になっていた。

 檻は五つある。
 扉から一番近いのは猛獣であるライオン。
 その手前の檻にいるのは猛獣使いの男の子。
 その向かいの檻はピエロで、
 その隣が僕。
 一番奥の檻がナイフ投げの女の子だ。
 
 金持ちはそれらの檻を眺めながら、気に入った者がいれば買い取ることもできる。
 この五年の間に僕の事も買い取りたいという人が何人か現れたが、小屋の主は僕に高値を付けて、そう簡単には売れないようにしていた。僕個人を売ってしまうより、芸を長くさせた方が儲かるからだ。

 ずっとこのまま、こんな生活が続くのだろうと思うと胃の辺りがムカムカする。
 他の召使い達は、元気にしているだろうか。
 シュネー様もお元気でいらっしゃるだろうか。
 風邪をひいたり、駄々を捏ねたりしていないだろうか。
 もしかしたら孤児院で金持ちに目をかけられ、引き取られているかも。

 生きていらっしゃれば、今頃十七歳か。
 奥様に似て、きっと美しく成長なされているんだろうな。

 うずくまって、ぼんやりと天井を仰ぐ。
 そんなことを考えてももう、意味は無い。
 だってもう、僕には関係の無いことなのだから。

 ふうと短い息を吐いたその時、見世物小屋の裏側から誰かが入ってくる音がした。

 扉を閉める音と共に、見世物小屋の主の猫撫で声も聞こえてくる。
 『商品』を見に来た金持ちも一緒に入って来たのだろう。
 僕はまたかと思いながらも、姿勢を正しきちんと座り直した。
 それは他の檻の中に入っている者達も同じで、いい子にしていないと後で酷い目に遭うのだ。
 そう、例えば鞭で叩かれたりとか。

 主と客はライオンから順番に見ては、何かを話しながらこちらに近づいてくる。

「この子は猛獣使いなのね、こんな怖そうなライオンを扱えるなんて、すごいわね!」
「そうでしょうそうでしょう? 大柄ですし、気が利く子供なので奴隷にもピッタリですよ」
「でも、もっと奥の方も見てみたいわ」

 どうぞどうぞと下手に出ながら、主はひとつひとつの檻にいる者を説明し始める。
 今度の金持ちは女のようだ。
 ちらりと遠目で見遣ったが、僕より少し年上か、低く見てもそう変わらない年齢に見える。
 どうせ、暇を持て余したどこぞの貴族なのだろう。

 ピエロを素通りした後、主と女は僕の前に立ち止まる。
 僕は俯いたまま胡座をかいて何も言わず黙っていた。

「この者はこの国では珍しい見た目の奴隷でして、白い髪に青い瞳が幻想的でしょう? そして何より褐色の肌がそれをより引き立てているのですよ」

 主は自慢半分、宣伝半分に僕の事を話し始める。
 売りたいのか自慢したいだけなのか、どっちかにしろよ。イライラしながらその場を過ぎるのを待つ。
 見世物小屋で働くのは慣れたけれど、やっぱりじろじろ見られながら話されるのはいい気がしない。
 犬や猫の気持ちがわかるのは僕らくらいなもんだ。

 ここからは主の独壇場。
 バカ高い値段をチラつかせ、手の届かない金額に指をくわえて見ている金持ち達を心から笑うのだ。
 趣味が悪い。
 僕が小さくため息をついたとき、金持ちの女が「なるほど、」と切り出した。

「確かに、摩天楼を照らす月明かりのようね」

 僕はその言葉に、思わずバッと顔をあげた。

「……シュ、シュネー、様……?」

 そこには、
 黒檀のような艶やかな黒髪で。
 雪のような白い肌を持ち。
 林檎のような赤い唇を持った、僕がよく知る女の子。

 シュネー・ハインリヒ・ホワイトブルクが、腕を組んで笑顔で僕を見下ろしていた。