炎に包まれた夜が明け、翌朝。
 僕は固いソファの上で目が覚めた。
 ゆっくりと身体を起こし、眉間に皺を寄せて背伸びをする僕を、カーテンの隙間から覗く光が早く起きろと急かしているようだった。

「……全然眠れなかった」

 僕は額を手で覆って項垂れた。
 眠れなかったのはソファが固いからではない。
 むしろ、サーカスに居た頃の檻の中の方が劣悪だった。
 炎が目に焼きついていたこと、昨日の後始末をシュネー様としたことで僕は心底疲れていた。

 燃え上がるサーカスから脱出した後、火消し達の活躍により辺り一帯の炎は全て鎮火したが、僕達は火消しの団長さんから『火の始末には充分注意してくれたまえ!』とこっぴどく怒られることとなった。
 
 怒られただけで済んだのは、土地周辺の民家に被害が及ばなかったからだろう。
 また、元・見世物小屋の主人の煙草の火が原因だということもあり、僕ら自身は深く話を聞かれることもなく、その場で開放された。
 一緒に助け出したナイフ投げの女の子は騒動の中で逃げてもらったが、見世物小屋に居た他の使用人達は行方知れずだ。

 サーカスも小屋もまっ黒焦げになってしまったので、僕はシュネー様が用意されていた街近くの小さな借家で夜を明かすことになった。
 屋根の下に二人きり……なんて気持ちには全くならず。
 とにかく疲労した心身を癒すべく、僕はソファに沈むように倒れたのだった。

 ぼんやりとした頭で、窓辺にある清潔なシングルベッドに視線を移す。そこには僕のご主人、シュネー・ハインリヒ・ホワイトブルク様が、僕の気持ちなど露知らず、気持ち良さそうにすやすや寝ていた。
 僕はそっと立ち上がり、彼女のすぐ傍まで近寄るとその寝顔をまじまじと眺めた。
 神様の最高傑作とも呼べそうな美しく整った顔は、精巧な人形か、はたまた天使のようで。

 ……昨日の悪役面が嘘みたいだ。
 心の奥でこっそりそう思いつつ、僕はその頬に触れようと指先を伸ばした。

「……」

 しかし、触れる一センチ手前で僕は躊躇した。
 寝ている女の子の頬に勝手に触れるのはどうなんだ。と。
 ……NGなんじゃないのか?
 勝手に触って嫌われたり怒られたりした時のことを想像して、頬に一筋の汗が伝う。僕は短い溜息を吐くとその手を引っ込めた。
 すると、ぱちりとシュネー様の両目が不意に開く。

「うわっ」
「おはよう、ブラウ」

 何もやましいことはしていないにも関わらず、大きな声を出して狼狽する僕。そんな僕に構わず、シュネー様はむくりと起き上がり大きな欠伸をひとつした。

 服は寝間着用の白のワンピースで、純白の布地はシュネー様の肌の色が白いことを再確認させる。目を擦りながらこちらを向く彼女は、昔お仕えしていた頃を思い出させた。
 僕はひとつ咳払いをして、背筋を伸ばして彼女に問うた。

「……っと。朝の食事にされますか?」
「ええ、そうね。……あと一時間後くらいに」
「かしこまりました」

 彼女も未だ昨日の疲れが取れていないのだろう、小さく欠伸をすると、そのまま二度寝タイム。ベッドの上に再びころんと転がって目を閉じた。
 ワンピースの裾から折り畳まれた太腿が露わになって、僕は視線を逸らす。

 シュネー様の二度寝の間に食事の準備をしなければと、僕は台所へ向かおうと彼女に背を向けてその場から離れることにした。
 その時に彼女が頬を膨らませて呟いた言葉は、僕の耳には届かなかった。

「……ブラウのばか。なでなでしなさいよ」


 ◇ ◇ ◇


 シュネー様のご意向で、僕は彼女と共に食事することを許された。本来なら、使用人は主人が食事を終えてから食事をするものだが、これまでの事やこれからの事を、食事しながら話しましょうと言われたためだ。
 屋敷にいた時なら考えられない不作法かもしれない。

 借家は裏路地にある小さなアパートの二階だが、建てられてから比較的新しく、下の階は誰も住んでいないため気楽でよかった。つまり、話しにくい会話も気を遣わずに話せるということだ。

 食事は屋敷に居た頃のような豪華なものではない。
 スープに目玉焼き、干し肉を炙ったものと葉野菜を固いパンで挟んだお情け程度のもの。
 それでも玉子があるぶん、見世物小屋で働いていた頃のまかないに比べれば十分な食事だ。

 けれど、もともと裕福な育ちのシュネー様はどうだろうか。
 僕はスープを品良く頂きながらちらりと彼女を見遣ったが、シュネー様は嬉しそうにエセ・サンドイッチに齧り付いていた。
 その様子に安心した僕は、零すようはにかんで。

「固いパンですから、スープによく漬けて食べないと怪我しますよ」
「ええ、はいひょーふよ」

 口に食べ物を含んでいても何を言ったのかわかるのだから、僕の読解力も捨てもんじゃないなと笑ってしまった。

「ごちそうさまでした」

 ひととおり食べ終わってから、僕とシュネー様は改めて向かい合う。口元を布巾で拭いた彼女は姿勢を正した。

「そうね……順を追って説明をしたいところだけど、貴方も聞きたいこともあるでしょうから、ブラウの質問から先に答えるわ」

 僕は恐れ入りますと早口で礼を言って、開口一番聞きたかったことをぶつけた。

「ではまず。何でそんな犬猫みたいな偽名を使っていらっしゃるんですか」

 確か見世物小屋では、シュネー様は自分のことを主人に『シロ』と呼ばせていた。
 やや身を乗り出して睨む僕に、シュネー様は淡々と答える。

「失礼ね! シロという名前は孤児院で仲良くしていたお友達がつけてくれたあだ名よ。犬猫みたいなんて言わないで。……まあ、どうせ権利書に本名が載っているし、シュネーで名乗っていてもすぐわかるんだけど。ブラウを買い取り戻すために偽名で動いていたの」

 なるほど。
 悪役令嬢を目指していた時期があったから、格好つけているのだとばかり思っていた。
 僕は内心失礼なことを思いながら、相槌を打った。

「そういうわけでこれからはシュネーではなく、シロと呼ぶように」
「な、なぜですか」
「その方がかわいいからよ」

 もう偽名で動かなくて良くなったのでは。そう言おうとすると、僕はもったいぶるようにシロ様の手のひらで続く言葉を制止された。

「まあ、かわいいっていうのもあるけれど……その方が」
「その方が?」

 なんとなくこの先の言葉は想像がつくけど、シロ様に甘い僕は一応聞いてあげることにする。

「悪役令嬢っぽいでしょう!!!!」

 やっぱりか。
 シロ様はふんぞり返って自慢げにそう言った。
 小さい頃からちっとも変わっていない、悪役令嬢に憧れる僕のお嬢様に、口角を上げて心の中でため息をついた。昨夜は彼女にシュネーではないと嘘をつかれて、再会の感動もそぞろに腹を立ててしまったけれど。
 やっぱり、家族同然の大切な女の子が、変わらず目の前にいることに懐かしさと嬉しさがこみ上げてくる。

 僕の大切な旦那様と奥様が残した宝物。

 食事を終えたシロ様は僕に紅茶の要求をする。
 食後には必ず紅茶を召し上がっていたことを覚えていた僕はそう言うだろうと予測して、近くの市場で茶葉を買ってきていた。僕は頷くと早々に立ち上がり紅茶を淹れに台所へと向かう。
 開けた台所からシロ様の様子がわかる。シロ様も無言で僕の様子を眺めていたが、テーブルへ向かってくる僕に腕を組みながらぽつりと呟いた。

「五年」
「はい?」

 僕はシロ様が零した音を拾えなくて聞き返した。

「その間、いろいろな事を考えていたわ」

 カーテンも開けて陽が差しているのに、逆光だからなのかシロ様の様子が神妙に見えた。
 僕は黙って向かいの椅子に座って手を組む。
 静かな部屋に時計の音だけがやけにうるさい。

「ブラウ。五年も経って再び会いに来たのはね、あなたにお願いがあって来たのよ」
「お願い……ですか?」
「そうよ」

 シロ様の黒い瞳がぎらぎらと光っている。
 見たことのないお嬢様の剣幕に、僕はごくりと息を飲んだ。
 彼女の様子から、かわいいお願いだとは到底思えないが、どのようなお願いなのか今の僕には想像がつかない。

「手伝って欲しいの」

 シロ様はゆっくりと立ち上がって、僕を見下ろしてとんでもないことを言い放った。


「――お継母様への復讐を。」