ご主人様は悪役令嬢にはなれない8(オランジュ編1)
大事なことを、忘れてしまうのです。
簡単な料理のレシピ。
言伝の内容。
さっきまでしていた用事。
それくらいなら、まだよかったのです。
自分の家、勤め先の住所。
得意先の名前。
大切な思い出。
酷い時は、ご主人様の、名前さえも間違えてしまいます。
きっとこれはドジだとか、抜けているとか、そういう類のお話ではないのです。
多分、きっと、病気。
気をつけていても、何かの拍子で忘れてしまう。メモを取っていても、気を張り詰めていても、変わりありませんでした。
どうしても簡単なこと、他人ができるようなことができない自分が嫌いで、辛くて。
……悔しかった。
涙に咽ぶ夜もありました。
でも次の日には何をミスして何を言われて落ち込んだのかすら忘れているんです。
元気な人はきっと、都合が良くていいじゃないかと笑うのでしょう。でも、このことに私は、いつか自分が何者かさえ忘れてしまうのではないかと、ときどき怖くなりました。
そんな私でも、ひとつだけ忘れないことがあります。
それは……裁縫の仕方です。
どんなに複雑な構造の洋服でも、量が多くても、短納期でも、見事に縫ってしまえるのが私の特技であり、誇りでした。
針と糸があれば仕事をもらえます。先頭もきれます。仕事さえきっちり完了すれば、雇い主から叱られることもありません。
私が生きていく上で、裁縫はとても重要な役目を持っていたんです。
けれど今度はそれを理由に、からかわれたり妬まれることが多くなりました。
頭が悪い癖に任せて大丈夫なのかとか、複雑な模様もすぐに忘れるんじゃないかとか、あらぬ噂を立てられたり、陰で表で、笑われることも多くなりました。
それでも、生きていくために、ずっと耐えていました。
人を笑うより、笑われる方がずっと賢い生き方だと思うからです。馬鹿なりに考えた、私の生き方でした。
ところがそんな私に、大きな事件が起きてしまいます。
「オランジュ!! これはいったい、どういうことだい!?」
「えっ……」
猪のように鼻息を荒くした雇い主が、私のもとへ怒ってやってきました。
机の上に叩きつけられた赤ん坊用の服。雇い主いわく、仕様書と違うではないかと言うではありませんか。
仕様書では男の子用に青い糸で刺繍するように書かれてあったそうです。しかし、私は女の子用と聞いていたため、赤い糸で花柄の刺繍を施してしまったのです。
私は確認しようと、慌てて仕様書を自分が使っている荷物籠から探しました。けれど、仕様書はどこにも見当たりません。
一瞬、私がしまい忘れたのかと思いました。けれど、私が大事な仕様書を置き間違えるはずはないのです。大事なものは全て同じ荷物籠に入れるようにしていたから。
くすくすという笑い声が背中から聞こえた時、やられた……と思いました。
私は火が出るかと思うくらい真っ赤になって、立ったまま雇い主に叱られました。言い返そうという思いも沸き起こりましたが、所詮私が反論したところで勝ちはありません。
だって、私は忘れっぽいお馬鹿なオランジュなのだから。
もうすぐ得意先の受取人がやってくるのに、こんな始末でどうするのかと雇い主の怒りは全く収まる気配がありません。唇をかみ締めて私は、ただ地面を見つめていました。
もう少し、私がしっかりしていれば。
もう少し、私が賢ければ。
こんな惨めな思いをしなくてよかったんでしょうか。
「お前は今日限りで辞めてもらうよ!」
目頭が熱くなり鼻がつんとしてきましたが、絶対に泣きたくありませんでした。
泣いたら負けだと思ったからです。
私は雇い主から殴られることを覚悟に、ぐっと目を瞑りました。その時です。
「やあ、良かった。今日の私は本当に、運がいいようだ」
ドアの鈴が鳴ったことに、誰も気づきませんでした。
張り詰めた空気の中に落とされたかのように、穏やかな声が響きます。紺色のベストとズボン、渋いグレーのコートを着た紳士が心底ほっとしたように、弾む息を整えながら駆け寄ってきました。
その姿を見た雇い主が、ぎょっとして私の前に手を組んで紳士に声をかけました。
「ホワイトブルク様……! お約束にはまだ大分お時間があるようですが、いかが致しましたか?」
ホワイトブルクというこの紳士はどうやら私が製作した洋服の取引相手のようで、私まで顔が青くなります。注文内容とは違う、今の商品を見られたらと思うと……。
ホワイトブルク氏は雇い主の問いかけには応えず、机にある赤ん坊の服を見つけるとぱっと顔を明るくして手に取りました。反対に、雇い主はこの世の終わりのような顔をして息を飲むのがわかります。
「そうなんだよ! 出産予定日より早く、ついさきほど産まれてね。ああ、もう注文内容を覆すことはできないだろうと残念に思っていたけれど、私は本当にツイているよ。彼女にも早く見せてあげたいな」
「申し訳ございません、ホワイトブルク様……! うちで雇っているオランジュという者が注文内容の青糸と赤糸を間違えまして、このような刺繍でお届けすることになり……! 申し訳ございません!!」
雇い主が深々と頭を下げる様子に、彼はキョトンと首を傾げます。
私はホワイトブルク氏の表情に一瞬疑問を抱きましたが、雇い主に強引に頭を掴まれ同じように頭を下げさせられました。
彼の足元に、白い細身のズボンと磨かれた靴がやってくるのが見えました。頭の上から、品のある女性のような声が聞こえてきます。
「ゴルト、君のその言葉だけでは彼女たちにはわからないよ。子供が産まれて嬉しいのはわかるけれど、ちゃんと説明してあげないと」
「そ、そうかい? 困ったな、また私の悪い癖が出ていたようだね……」
「まあ、ボクも嬉しくて仕方がないんだけどね。気持ちはわかる。とりあえず……そこの御二方。顔を上げてくださいませんか」
どうやら、ホワイトブルク氏の御つきの者のようでした。頭にあった雇い主の手の力が緩んで、私は雇い主の顔が上がるのを確認すると、そっと自分の顔も上げました。
御付の者はリラという方で、男性なのか女性なのかわからないほど、美しい顔を持つ人でした。美しいのは顔だけではなく、立ち振る舞いもどこかの貴族のように優雅です。私は彼……彼女? と目が合って、ウインクされて慌てて目を逸らしました。
「やあ、君がオランジュかな。この洋服は君が作ってくれたものだね?」
私はホワイトブルク氏に問われて、曖昧に頷き返しました。彼の眼差しが、今まで出会ったどの人よりも温かかったから。
「実は今日産まれた私の子供がね、男の子と聞いていたんだが……女の子だったんだよ! 予定より早く産まれて飛び上がるほど喜んだのはいいんだが、注文していた新生児用の服を男の子用に青でお願いしていたものだから、焦ってしまってね」
ホワイトブルク氏は大事そうに赤ん坊の服を抱いて、まじまじと眺めていました。本当に大切だということが、彼の言動全てから感じられます。
「だから、どうにか別の色糸でお願いしようと走ってきたんだけど、その心配は無用だったようだ。オランジュ、君が赤糸で刺繍をしてくれていたからね!……ありがとう、オランジュ」
私はその言葉に、今まで抑えていた気持ちがいっぺんに溢れるように涙を零して顔を歪ませていました。悲しかったからではありません。ホワイトブルク氏の言葉が、とても温かかったからです。
彼は自慢するように隣に佇むリラさんに服を見せ付けました。
「ごらん、リラ! 私は貴族として何十年と生きているけれど、こんなに立派で美しい刺繍は見たことがないよ。特にこの花の蔦にあたるところ。細かいのに全くズレがない。きっと愛らしい娘に良く似合うはずだ。すばらしいとは思わないかい!」
「ふむ……。確かに、ボクもゴルトに連れられて様々なお屋敷に足を運んだが……オランジュさんほどの年齢でここまで繊細でいて豪華な刺繍ができる人はいないだろう。大抵の事はこなすこのボクにも真似できないな。……って、ゴルト、まさか」
「そのまさかだ」
静かに泣いていた私へ、ホワイトブルク氏がポケットからハンカチを出して私へ向けてどうぞと差し出します。受け取っていいものか判断に迷っていると、後ろに佇むリラさんが軽く笑って促しています。微笑みをより一層深くしたホワイトブルク氏が、満足そうに頷きました。
そこへ、確認するように私の雇い主が声をかけ歩み寄ります。
「あの……。と、いうことは、今回の発注ミスはお咎めもなくお支払い頂けるということで、よろしいのでしょうか?」
「ああ、そういうことになるね」
お金は支払われる。
雇い主はそれを聞いて安心したのかひっそり胸を撫で下ろしました。
私は百合の香りがするホワイトブルク氏のハンカチを胸の前で握り締めながら、明日からの自分のことを考えていました。
明日から、また「いつものオランジュ」の生活が続く。
そう思うと、とっても胸を締め付けられるような、そんな思いになります。
この目の前の人のもとで働けたら、どんなに幸せでしょうか。
この人たちと働けたら、どんなに楽しいでしょうか……。
でも私は、仕方ないと心の中で割り切って目を伏せました。
それが私、オランジュの運命なのだから。
ところがホワイトブルク氏は、工場にいる誰もが思いもつかなかった言葉を雇い主に放ちました。
「ところでオランジュ、君、私の屋敷で働かないかい?」
雇い主、私を妬んでいた女性たち全てが悲鳴に近い驚く声を上げました。
後から聞いた話で、私もさらに驚くことになるのですが、ホワイトブルク氏はこの辺一体の領地を治める伯爵様だったのです。私は目を瞬かせて、ホワイトブルク氏を見つめていました。
彼の表情で、嘘ではないことは明白です。
「本当に、本当の本当に、貴方のところで働けるんでしょうか?」
「ああ、そうだよ」
ホワイトブルク氏はにっこりと笑って、頷きました。私を安心させるための、優しい笑顔でした。
私が口角を上げかけた時、雇い主の慌てた声が彼に飛びます。
「お待ちください、ホワイトブルク様! オランジュはうちが雇っている使用人です。勝手にお話を進めないで頂きたい。それに、この者でなくとも他に有能な使用人ならいくらでもおります!」
私を妬んでいた者たちが、顔を見合わせながら呼応しました。
「困ったな……。私はオランジュがいいんだよ。私は美しいものが好きでね。彼女が施す刺繍は美しい。刺繍だけではない、裁縫もプロ顔負けの出来栄えだ。これと全く同じことができる使用人が、他にいるかな?」
雇い主はそれでも、という顔をするので、ホワイトブルク氏は懐からあるものを取り出そうとしました。それは、
「あ……私のしようしょ……?」
「そのようだ。名前もきちんと書いてある。オランジュと。この工場の側にあったゴミ箱に捨てられていたよ。きっと誰かが捨てんだろう」
口元に弧を描くホワイトブルク氏に、何人かの使用人が顔を背けます。きっと、心当たりがあるのだろうと私は思いました。
「そのような事をする心の汚い人間は、私の屋敷にはいらないんだ。そうそう、貴方もオランジュにこう仰っていただろう。『お前は今日限りで辞めてもらうよ』と」
「ぐっ……き、聞いておられたのですか」
「ここを解雇されたオランジュを、私が雇用するのに何も問題ないだろう? リラ」
「そうだね、ゴルト」
リラさんに同意されて機嫌よくなったホワイトブルク氏は、改めて私に向かい合い、手を差し伸べてきました。
私は今度は迷いなく、その手を伸ばして掴みとります。
笑顔になった彼に小さく「ありがとう」と言われて、私は泣いているのか、笑っているのかわからない顔をして喜びました。
「というわけで、今日限りでこの工場への注文は取りやめさせて頂くよ。これからは私にはオランジュという凄腕の使用人がいるからね。今までどうもありがとう!」
元雇い主の悲鳴を背に、私とリラさん、そしてホワイトブルク氏……いえ、新しいご主人様は工場を後にしました。
リラさんが肩をすくめて両手を上げると、不敵な笑みでご主人様を見遣ります。
「これからはオランジュがいるって? よく言うよ、彼女を引き抜こうと虎視眈々と狙っていた癖に」
「何か言ったかい?」
「いいや、なんにも」
私は久しぶりに声を上げて笑った気がしました。
簡単な料理のレシピ。
言伝の内容。
さっきまでしていた用事。
それくらいなら、まだよかったのです。
自分の家、勤め先の住所。
得意先の名前。
大切な思い出。
酷い時は、ご主人様の、名前さえも間違えてしまいます。
きっとこれはドジだとか、抜けているとか、そういう類のお話ではないのです。
多分、きっと、病気。
気をつけていても、何かの拍子で忘れてしまう。メモを取っていても、気を張り詰めていても、変わりありませんでした。
どうしても簡単なこと、他人ができるようなことができない自分が嫌いで、辛くて。
……悔しかった。
涙に咽ぶ夜もありました。
でも次の日には何をミスして何を言われて落ち込んだのかすら忘れているんです。
元気な人はきっと、都合が良くていいじゃないかと笑うのでしょう。でも、このことに私は、いつか自分が何者かさえ忘れてしまうのではないかと、ときどき怖くなりました。
そんな私でも、ひとつだけ忘れないことがあります。
それは……裁縫の仕方です。
どんなに複雑な構造の洋服でも、量が多くても、短納期でも、見事に縫ってしまえるのが私の特技であり、誇りでした。
針と糸があれば仕事をもらえます。先頭もきれます。仕事さえきっちり完了すれば、雇い主から叱られることもありません。
私が生きていく上で、裁縫はとても重要な役目を持っていたんです。
けれど今度はそれを理由に、からかわれたり妬まれることが多くなりました。
頭が悪い癖に任せて大丈夫なのかとか、複雑な模様もすぐに忘れるんじゃないかとか、あらぬ噂を立てられたり、陰で表で、笑われることも多くなりました。
それでも、生きていくために、ずっと耐えていました。
人を笑うより、笑われる方がずっと賢い生き方だと思うからです。馬鹿なりに考えた、私の生き方でした。
ところがそんな私に、大きな事件が起きてしまいます。
「オランジュ!! これはいったい、どういうことだい!?」
「えっ……」
猪のように鼻息を荒くした雇い主が、私のもとへ怒ってやってきました。
机の上に叩きつけられた赤ん坊用の服。雇い主いわく、仕様書と違うではないかと言うではありませんか。
仕様書では男の子用に青い糸で刺繍するように書かれてあったそうです。しかし、私は女の子用と聞いていたため、赤い糸で花柄の刺繍を施してしまったのです。
私は確認しようと、慌てて仕様書を自分が使っている荷物籠から探しました。けれど、仕様書はどこにも見当たりません。
一瞬、私がしまい忘れたのかと思いました。けれど、私が大事な仕様書を置き間違えるはずはないのです。大事なものは全て同じ荷物籠に入れるようにしていたから。
くすくすという笑い声が背中から聞こえた時、やられた……と思いました。
私は火が出るかと思うくらい真っ赤になって、立ったまま雇い主に叱られました。言い返そうという思いも沸き起こりましたが、所詮私が反論したところで勝ちはありません。
だって、私は忘れっぽいお馬鹿なオランジュなのだから。
もうすぐ得意先の受取人がやってくるのに、こんな始末でどうするのかと雇い主の怒りは全く収まる気配がありません。唇をかみ締めて私は、ただ地面を見つめていました。
もう少し、私がしっかりしていれば。
もう少し、私が賢ければ。
こんな惨めな思いをしなくてよかったんでしょうか。
「お前は今日限りで辞めてもらうよ!」
目頭が熱くなり鼻がつんとしてきましたが、絶対に泣きたくありませんでした。
泣いたら負けだと思ったからです。
私は雇い主から殴られることを覚悟に、ぐっと目を瞑りました。その時です。
「やあ、良かった。今日の私は本当に、運がいいようだ」
ドアの鈴が鳴ったことに、誰も気づきませんでした。
張り詰めた空気の中に落とされたかのように、穏やかな声が響きます。紺色のベストとズボン、渋いグレーのコートを着た紳士が心底ほっとしたように、弾む息を整えながら駆け寄ってきました。
その姿を見た雇い主が、ぎょっとして私の前に手を組んで紳士に声をかけました。
「ホワイトブルク様……! お約束にはまだ大分お時間があるようですが、いかが致しましたか?」
ホワイトブルクというこの紳士はどうやら私が製作した洋服の取引相手のようで、私まで顔が青くなります。注文内容とは違う、今の商品を見られたらと思うと……。
ホワイトブルク氏は雇い主の問いかけには応えず、机にある赤ん坊の服を見つけるとぱっと顔を明るくして手に取りました。反対に、雇い主はこの世の終わりのような顔をして息を飲むのがわかります。
「そうなんだよ! 出産予定日より早く、ついさきほど産まれてね。ああ、もう注文内容を覆すことはできないだろうと残念に思っていたけれど、私は本当にツイているよ。彼女にも早く見せてあげたいな」
「申し訳ございません、ホワイトブルク様……! うちで雇っているオランジュという者が注文内容の青糸と赤糸を間違えまして、このような刺繍でお届けすることになり……! 申し訳ございません!!」
雇い主が深々と頭を下げる様子に、彼はキョトンと首を傾げます。
私はホワイトブルク氏の表情に一瞬疑問を抱きましたが、雇い主に強引に頭を掴まれ同じように頭を下げさせられました。
彼の足元に、白い細身のズボンと磨かれた靴がやってくるのが見えました。頭の上から、品のある女性のような声が聞こえてきます。
「ゴルト、君のその言葉だけでは彼女たちにはわからないよ。子供が産まれて嬉しいのはわかるけれど、ちゃんと説明してあげないと」
「そ、そうかい? 困ったな、また私の悪い癖が出ていたようだね……」
「まあ、ボクも嬉しくて仕方がないんだけどね。気持ちはわかる。とりあえず……そこの御二方。顔を上げてくださいませんか」
どうやら、ホワイトブルク氏の御つきの者のようでした。頭にあった雇い主の手の力が緩んで、私は雇い主の顔が上がるのを確認すると、そっと自分の顔も上げました。
御付の者はリラという方で、男性なのか女性なのかわからないほど、美しい顔を持つ人でした。美しいのは顔だけではなく、立ち振る舞いもどこかの貴族のように優雅です。私は彼……彼女? と目が合って、ウインクされて慌てて目を逸らしました。
「やあ、君がオランジュかな。この洋服は君が作ってくれたものだね?」
私はホワイトブルク氏に問われて、曖昧に頷き返しました。彼の眼差しが、今まで出会ったどの人よりも温かかったから。
「実は今日産まれた私の子供がね、男の子と聞いていたんだが……女の子だったんだよ! 予定より早く産まれて飛び上がるほど喜んだのはいいんだが、注文していた新生児用の服を男の子用に青でお願いしていたものだから、焦ってしまってね」
ホワイトブルク氏は大事そうに赤ん坊の服を抱いて、まじまじと眺めていました。本当に大切だということが、彼の言動全てから感じられます。
「だから、どうにか別の色糸でお願いしようと走ってきたんだけど、その心配は無用だったようだ。オランジュ、君が赤糸で刺繍をしてくれていたからね!……ありがとう、オランジュ」
私はその言葉に、今まで抑えていた気持ちがいっぺんに溢れるように涙を零して顔を歪ませていました。悲しかったからではありません。ホワイトブルク氏の言葉が、とても温かかったからです。
彼は自慢するように隣に佇むリラさんに服を見せ付けました。
「ごらん、リラ! 私は貴族として何十年と生きているけれど、こんなに立派で美しい刺繍は見たことがないよ。特にこの花の蔦にあたるところ。細かいのに全くズレがない。きっと愛らしい娘に良く似合うはずだ。すばらしいとは思わないかい!」
「ふむ……。確かに、ボクもゴルトに連れられて様々なお屋敷に足を運んだが……オランジュさんほどの年齢でここまで繊細でいて豪華な刺繍ができる人はいないだろう。大抵の事はこなすこのボクにも真似できないな。……って、ゴルト、まさか」
「そのまさかだ」
静かに泣いていた私へ、ホワイトブルク氏がポケットからハンカチを出して私へ向けてどうぞと差し出します。受け取っていいものか判断に迷っていると、後ろに佇むリラさんが軽く笑って促しています。微笑みをより一層深くしたホワイトブルク氏が、満足そうに頷きました。
そこへ、確認するように私の雇い主が声をかけ歩み寄ります。
「あの……。と、いうことは、今回の発注ミスはお咎めもなくお支払い頂けるということで、よろしいのでしょうか?」
「ああ、そういうことになるね」
お金は支払われる。
雇い主はそれを聞いて安心したのかひっそり胸を撫で下ろしました。
私は百合の香りがするホワイトブルク氏のハンカチを胸の前で握り締めながら、明日からの自分のことを考えていました。
明日から、また「いつものオランジュ」の生活が続く。
そう思うと、とっても胸を締め付けられるような、そんな思いになります。
この目の前の人のもとで働けたら、どんなに幸せでしょうか。
この人たちと働けたら、どんなに楽しいでしょうか……。
でも私は、仕方ないと心の中で割り切って目を伏せました。
それが私、オランジュの運命なのだから。
ところがホワイトブルク氏は、工場にいる誰もが思いもつかなかった言葉を雇い主に放ちました。
「ところでオランジュ、君、私の屋敷で働かないかい?」
雇い主、私を妬んでいた女性たち全てが悲鳴に近い驚く声を上げました。
後から聞いた話で、私もさらに驚くことになるのですが、ホワイトブルク氏はこの辺一体の領地を治める伯爵様だったのです。私は目を瞬かせて、ホワイトブルク氏を見つめていました。
彼の表情で、嘘ではないことは明白です。
「本当に、本当の本当に、貴方のところで働けるんでしょうか?」
「ああ、そうだよ」
ホワイトブルク氏はにっこりと笑って、頷きました。私を安心させるための、優しい笑顔でした。
私が口角を上げかけた時、雇い主の慌てた声が彼に飛びます。
「お待ちください、ホワイトブルク様! オランジュはうちが雇っている使用人です。勝手にお話を進めないで頂きたい。それに、この者でなくとも他に有能な使用人ならいくらでもおります!」
私を妬んでいた者たちが、顔を見合わせながら呼応しました。
「困ったな……。私はオランジュがいいんだよ。私は美しいものが好きでね。彼女が施す刺繍は美しい。刺繍だけではない、裁縫もプロ顔負けの出来栄えだ。これと全く同じことができる使用人が、他にいるかな?」
雇い主はそれでも、という顔をするので、ホワイトブルク氏は懐からあるものを取り出そうとしました。それは、
「あ……私のしようしょ……?」
「そのようだ。名前もきちんと書いてある。オランジュと。この工場の側にあったゴミ箱に捨てられていたよ。きっと誰かが捨てんだろう」
口元に弧を描くホワイトブルク氏に、何人かの使用人が顔を背けます。きっと、心当たりがあるのだろうと私は思いました。
「そのような事をする心の汚い人間は、私の屋敷にはいらないんだ。そうそう、貴方もオランジュにこう仰っていただろう。『お前は今日限りで辞めてもらうよ』と」
「ぐっ……き、聞いておられたのですか」
「ここを解雇されたオランジュを、私が雇用するのに何も問題ないだろう? リラ」
「そうだね、ゴルト」
リラさんに同意されて機嫌よくなったホワイトブルク氏は、改めて私に向かい合い、手を差し伸べてきました。
私は今度は迷いなく、その手を伸ばして掴みとります。
笑顔になった彼に小さく「ありがとう」と言われて、私は泣いているのか、笑っているのかわからない顔をして喜びました。
「というわけで、今日限りでこの工場への注文は取りやめさせて頂くよ。これからは私にはオランジュという凄腕の使用人がいるからね。今までどうもありがとう!」
元雇い主の悲鳴を背に、私とリラさん、そしてホワイトブルク氏……いえ、新しいご主人様は工場を後にしました。
リラさんが肩をすくめて両手を上げると、不敵な笑みでご主人様を見遣ります。
「これからはオランジュがいるって? よく言うよ、彼女を引き抜こうと虎視眈々と狙っていた癖に」
「何か言ったかい?」
「いいや、なんにも」
私は久しぶりに声を上げて笑った気がしました。