深夜に会社で作業していた私は、はあ? と思わず二度見した。

 異世界転移しますか?
 はい。 いいえ。

 明日の午前中までに提出しなければならない企画書がやっとできたと思ってデータを保存したら、こんなポップアップ画面がでてきたのだ。
 疲れてんのかな。
 と、消えもしない眼鏡の下をこすりながら二度見する。こすっても、ひどい隈が消えないことはわかっている。机の上に転がる滋養強壮の栄養ドリンクも、飲み慣れたアラサーの体にはあんまり効いてないのかもしれない。十年も同じ職場で働いていて、こんなバグは見たことがないから、私の頭の方がバグっているとしか思えなかった。
「うーん……?」
 私は食い入るようにその画面を見つめる。「保存する」の文字はどこにもない。やっぱり上司がいる間に作っとけば良かった、と舌打ちした。ネットで「イラストレーター 不具合 異世界」で検索をしたけど、当たり前のようにこの件について出てこなかった。私は半分イライラしながら指先でパソコンを叩く。

 今日は三十四歳になる私の誕生日だった。こんな歳になると、家族からも、結婚して減った友だちからも、お誕生日おめでとうなんてラインはひとつも届きやしない。
 何が楽しくて自分の誕生日に、こんな夜中まで命を削って仕事をしているのか。若者に向けての講演会を開くなら、絶対に「今のうちにやりたい事はすべてやった方がいい」と伝えたい。
 私だって、できることなら若い頃に戻って、恋愛もしたいし友達と遊びたい。後輩も欲しい、ぜったい可愛がる。海外にだって行ってみたい。
 そして――

 ……仕事に対しても、もっと情熱をもって取り組む自分でいたかった。

 今では目の前の仕事を追うことに精一杯で、夢も希望もどこかへ消えてしまっていた。悲しみや後悔と同時に、目の前のポップアップ画面に腹が立つ。ここで「はい」を選んだなら、先ほどまで作ったデータがどうなってしまうかわからない。しかし、ここでいいえを選んでも、せっかく作ったデータが保存されない気もする。
 明日一番に上司に聞いてみようか。しかし、電源をつけたまま朝を迎えるなら、上司に電気代のことで小言を言われるのだろう。それなら、ここでどちらを選んでも結果は同じだ。
「何なんだろうな……」
 私は悪態をついた。私の戸惑う反応を見て、そんなに面白いかパソコンめ。リサイクルに出すぞ。握るマウスに力がこもる。自分の今までのつまらない人生と、これからの展望の持てない未来と、私自身を馬鹿にされたように感じた。今から転職したって、婚活したって、難しいに違い。
 私だって。
私だって、できることならもう一度、一から人生やり直したいよ。
「どいつもこいつもバカにして……!」
 どんなエラーが待っているかもわからないのに、私は感情を高ぶらせた勢いのまま、おるあと叫びながら軽快な音を立てて「はい」のエンターを押した。

 そこからの記憶はぼんやりとしていて、あんまり思い出せない。
 急にブレーカーが落ちたように景色が真っ暗になって、宇宙の中に放り込まれたように、宙をたゆたう夢を見た気がする。意識が戻った時、私の目の前に同じように浮かんでこちらを見ている女の子がいた。
 どんな女の子だったのかは覚えていないけど、オレンジ色だけが頭のすみっこにちらつく。
 そしてなぜか、何度も何度も謝られたあと、その子は最後に深く礼をして、
「妹をどうかよろしく頼む」
 と、ひどく悲しい顔をして……そう言った。


***


 再び目が覚めると、私は清潔なベッドの上に寝かされていた。
 あれ? いつの間に家に帰ったんだっけ。
そう思いながらも、睡魔に勝てず瞳は瞬く。
 居心地のいいフカフカの布団で寝たのはいつぶりだろう。もうひと眠り……と私が寝返りを打った先に、美しい少女の顔がそこにあった。
「……!?」
 飛び起きて辺りを確認すると、そこは見慣れたオフィスではなかった。安い家賃の自宅でもなかった。
 高校生時代に調べたアールヌーヴォー、アールデコという様式を思い出す。植物の模様の壁紙に、木製のベッドや背の低いアンティークな箪笥に窓や花瓶。あの時に憧れた、西洋の家の一部屋に私はいた。
 窓の向こうには青空が広がり、鳥の美しい声が聞こえてくる。
「ここ……どこ?」
 私は恐る恐る、傍らで眠る彼女を覗き込んだ。白く透き通る肌、陽光に照らされてきらめくピンクブロンドの髪。ビスクドールのように整えられた顔と華奢な体は白いローブに包まれて、絵画のような光景がそこにあった。
 その長いまつ毛は涙で濡れていたので、私は彼女の涙をそっと指先ですくいとろうとして、向こう側にある鏡を見て目を見開いた。
「な……」
 頭の中がぐらぐらする。鏡に映った姿、それが”私”の体だと認識してひどく驚いた。
 オレンジ色のぼさぼさの長い髪、ペリドットのような黄緑色の瞳。目の下の隈が真っ黒になっているのが気になるが、年齢も十歳くらい若返っていた。このオレンジはどこかで見た気がする。
 そうだ、世界が暗転した後に出会った、あの女の子。
 私は自分の手の平だと思っていた指先で頬をつねる。それは、鏡の向こうの彼女も同じ。まさか、こんなことがあっていいのか。震える指先を見つめながら、彼女が最後に言っていた言葉を思い出した。

『妹を、どうかよろしく頼む』

 妹……。確かにそう言っていた。 
 じゃあ、目の前のこの子は……。私が再び美しい少女に目を移した時、少女の閉じていた瞼がゆっくりと開く。彼女が顔を起こすと、ほんの少しだけその白い腕が顔の跡で赤くなっていた。
 彼女のぼんやりとしていた目が、私を捕らえる。と、急にぽろぽろと涙を零してその顔が歪んだ。
「……っ。おねちゃ……!!」
「は? ちょ……っ」
「目が覚めたんだね……! 良かった、本当に、良かった……!!」
 私はたじろぐ暇もなく、美少女に抱きつかれてしまった。ふわり、と蜜柑の香りがする。
 やばい、めちゃくちゃいい匂い。あと華奢なのにちゃんと出るとこが出ている、などとオッサンのような気持ちを抱く。私が男子高校生だったなら、確実に恋をしていただろうに。私は少女を肩からガバッと引き剥がして、息を整えた。
 美少女は、たしかに私に向かって「おねちゃ」と言った。
「……どうしたの? もしかして、まだどこか痛い?」
「いや、痛くはないけどちょっと待って」
 私の瞳とは違う、綺麗なエメラルドグリーンの瞳が揺れる。髪の毛を掻きむしりながら私は彼女に尋ねた。
「あなた、だれ?」
 その瞬間、少女はわっと泣き出して、神へ怒りにも似た呪いの言葉を並べ始めた。
「おねちゃが……おねちゃが記憶喪失になっちゃった……!神様、こんなのあんまりだよ……っ。いっぺん死んでこい……!!」

 いや、神様に死ねと言われても困るんじゃ。
などと私は思いつつ、泣き止まない少女をなだめようと肩を掴んで言った。
「……あの、ごめんね。私はたぶん、あなたの姉……なんだよね?」
「……」
 少女は大粒の涙を目に溜めて、こちらをじっと見つめている。
「もしかしたら、あなたが話してくれることで何か思い出すかもしれないし、私のこと、あなたのこと、この場所のこと……申し訳ないけど、ひとつひとつ話してくれないかな。私も、私自身のことがよくわからないんだ」

 私は言葉を紡ぎながら何となく悟った。
 きっと私は、昨日のパソコンの不具合で全く知らない世界に来てしまった。
 そして、全く別の人間になってしまった。わかることは、目の前の女の子が今、私の体を形成しているこの人間の妹だということ……。

 少女は自分で涙を拭って、ベッドの上に座り直した。
 改めて見ても少女はため息が漏れるほど美しい。唇を一文字に結んで、呼吸を整えた彼女は無理矢理笑顔を作って話し始めた。
「私の名前はペコラ。ペコラ・マーティンだよ。あなたの妹。そしてあなたの名前はマオ。マオ・マーティン。家族は私とおねちゃの二人だけ。おねちゃは今の今まで、半年前の事故でずっと眠っていたままだったの」
 この身体は、マオという名前の女の子だった。
 じゃあ、目覚める前に出会ったあの女の子が、マオ……。私は別世界の同じ名前の女の子に入れ替わってしまったのか。
 私は、事故の話を続けて聞いた。
「私たちの両親はだいぶん前に病気で死んじゃったから、おねちゃはマジカルカンパニーっていう会社で働いていたの。それこそ、残業とか、たくさん……。家に帰ってくる日の方が少ないくらい。おねちゃは私が不自由なく暮らせるように頑張ってお金を稼いでくれてたんだけど、半年前に魔法陣の改良を失敗して、大きな爆発事故に巻き込まれて、それで……」
「ちょ、ちょっと待って」
 私はペコラの話を遮って、最後の単語をもう一度聞き返した。いま、ものすごく信じられない言葉を聞いた気がする。
「まほう、じん?この世界は、魔法があるの?」
 私の言葉にキョトンとしていたペコラが、驚いたように笑い返した。
「そうだよ!おねちゃ、さすがにそんなことも忘れちゃったら、仕事に復帰できないよ。おねちゃ、自分がどんな仕事をしていたかも、覚えてない?」
 私は恐る恐る首をたてに振った。
 ペコラは一瞬切なげな表情を浮かべて、切り替えるように淡々と言った。

「おねちゃは魔法使いが働くマジカルカンパニーの開発部、魔方陣デザイナー課に所属している、魔方陣デザイナーだよ」

 魔方陣デザイナー。
 私は、空いた口がふさがらないまま、「そうなんだ」としか言葉を紡げなかった。異世界に来てまで、デザイナーをやるなんて、聞いてない。
「マジか…………」
 窓の外には翼を広げて空を舞う、大きなトカゲの姿が見えた。