08
印鑑をつくる依頼をして、パソコンを買って、午後は翻訳業務に勤しもう。
遊びに行った翌日で疲れてはいたものの、就籍許可が出たことがわたしを活動的にしていた。
就籍届を出すには印鑑が必要だし、何かと必要になってくるだろうから印鑑登録もしておこう。そんな気持ちで、早くから開いているお店で印鑑の作成依頼をした。
翌日の午後には完成するとのことだったので、必要な書類も今日のうちにもらって書いてしまおうと考える。
ひとまずは区役所と税務署に行って、必要な書類をもらった。それからパソコンの専門店に行き、店員にいろいろと教えてもらいながらパソコンを購入。前いた会社で使っていた会計ソフトと同じものを見つけたので、それとUSBメモリも併せて購入した。それからアメリカ、イタリア、フランス、ドイツに関する歴史や文化が学べる本を買った。外での用事が終われば、あとはホテルに帰って本と睨めっこをしながらパソコンで文字を打ち込んでいくだけだ。
少し荷物は重くなったけれど、もともと大きなキャリーバッグを持っているので問題はない。イタリアに関する本をすぐ手に取れる場所において他は仕舞い込み、仕事を始めた。
今まで全くわからなかった言語が突然わかるようになって、不思議だけれど面白い。自分の頭で理解したとおりに文字を打ち込むだけなので、作業自体はスムーズに行えるものだった。専門用語らしきところは調べつつ、A4の用紙2枚ほどの文書は日が沈み切った頃に訳し終わった。
あとは明日一度読み返して、それから余裕があれば午後、宇都宮さんの所へ持っていこう。彼はわたしのことを受付や秘書室に話しておいてくれるらしく、事前に電話をしてくれれば来るのはかまわないと言っていた。
仕事のものを仕舞ってから、シャワーを浴びて部屋の電気を消しベッドに寝転がる。
サイドチェストに置かれた淡いオレンジ色のライトをつけて眺めながら、自分は一体何をしているんだろうと自問してしまった。
名探偵コナンの世界にやってきてから一ヶ月近く経っている。仕事はどうなったのだろう。家族や友人、上司、同僚はわたしを探してくれるのだろうか。考えれば考えるほど嫌な想像をしてしまう。
仕事は連続無断欠勤で、辞めさせられているかも。あぁでも、仕事帰りにいなくなったのだから捜索願が出されているかもしれない。時間の流れ方が違ったらどうしよう。あちらではあまり進まなくて、ということならいいけれど、浦島太郎のようになるのはいやだ。帰れる保証があるわけでもないのだけれど。
異世界に来てしまうだなんて、あまりにも非現実的な事態だというのに、身分の証明が必要だったり、お金が必要だったりと現実は否応なく突きつけられる。もう戸籍はつくれるし、仕事も最低限生活ができる程度にはできそうだ。生きていくための心配はあまりしなくていい、いいのだけれど、腑に落ちない。
「……寝よ」
ライトを消して布団をかぶって、きつく目を閉じた。
誰かがわたしの"本当"を知ってくれたらいいのに。そうしたら、こんなにも孤独感に苛まれることはなかったのに。
誰へでもない文句を心の中で呟きながら、疲れた心はすぐに眠りに逃げ込んだ。
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カーテン越しに入ってくる光に瞼越しに目を刺激され、目が覚めた。
寝るのが早ければ起きるのも好きな時間でよいのだから、楽な生活ではある。
けれどわたしの本来の日常は遠ざかったまま、目が覚めたら自分の家でありますように、なんて願いは叶いそうもない。
ルームサービスを利用して朝食をとり、出かける準備をした。
時計を見て、まだ店やお役所の開く時間じゃないと判断し、昨日訳した文書を読み返した。
「……問題はなさそう」
そのあとは昨日もらった書類に書ける範囲のことを書くと、九時を回っていた。
出かける準備をして、フロントにキーを預けてホテルを出た。
すっかり探索しきった街中を歩き、まずは区役所を目指した。
区役所に就籍届を出して、税務署で事業を始めることに関する届け出をして、それらが終わると、お昼を回っていた。意外と時間がかかったなぁと思いながら、近くのファミレスで昼食をとった。
午後は宇都宮さんに翻訳をしたデータを渡して、報酬と次の仕事をもらった。
戸籍は得ることができた、仕事もなんとかなりそうだ。あとはお金を貯めて運転免許を取れば、一般的な身分証明の方法を得られる。
ひどく安堵を覚えると同時に、これからのことが不安になった。このまま社会的な身分を得て、それでわたしはどうなるのだろう。元いた場所へ帰る方法をどうやって探せばいいのかわからない。いつも通りに電車に乗って、それで気づかぬうちに名探偵コナンの世界にやってきてしまった。
クラウセヴィッツ夫妻や宇都宮一家と知り合って、繋がりを作ってしまって、本当に良かったのだろうか。いつか、帰ることができたなら。仕事を放り出していくことになるかもしれない。お別れさえ言えないかもしれない。
それを考えて、胃の底が冷え切るような感覚がした。
けれど、"いつか"を夢見て身分も不確定なまま生きていくには、現代社会は管理がされ過ぎていた。
きっかけは電車だった。それなら、帰る方法がはっきりわかるまでは、電車に乗らないようにしていよう。
困っているところを助けたことがきっかけとはいえ、良くしてもらったのだから義理は通したかった。
あとはいかに、主要キャラに会わないようにするかだ。特に探偵、警察官、FBI捜査官には。もちろん、組織の人間にも。あからさまに避けてしまえば、必ず疑われるだろう。特に組織については、その存在を知っていることすら隠し通さなければならない。
無難に生きていくのも大変そうだと、ため息が漏れた。
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就籍届を出してから、三ヶ月が経った。
何かと気にかけてくれるクラウセヴィッツ夫妻と宇都宮さんが頻繁に仕事をくれたおかげで運転免許を取るためのお金はすぐに貯まった。合宿で最短で免許を取り、顔写真付きの真っ当な身分証明書が手に入った。
預金口座も作れたし、携帯電話を買えた。何より保証人なしで安いアパートに入居できたのもよかった。ずっとホテル暮らしでは、無理があったから。
どこにでもいる人間になることが、こんなにも難しいことだったとは。
けれども、達成できた今となってはもう関係がない。
最低限の義理は通せる状態で、絆されないように、別れが惜しくならないように生きていかなければならない。
一人で生きていける強い女を演じたくて、目元がきつく見えるようにアイラインを引くようになった。口紅ではなくリキットルージュを使うようになった。ヒールが高めのパンプスを履くようになった。服も、淡い色のものをあまり着なくなった。
口調も少しきつくすれば、元いた世界でのわたしは影も形もないだろう。
そうしなければ、元いた世界の自分とこの世界の自分を分けなければ、寂寥感に押し潰されてしまう気がした。
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