随分と、鮮やかな朱だ。冬だからこそ澄んだ空気だからこそ、こう鮮やかな色になるのだろうか。日が落ちるのが秋よりは遅いとはいえ、まだ夕方の五時前だというのに日は傾きつつあり、大きな太陽が世界を朱色に染めてその向こうから藍色の空がやってきている。
(なんや、今ならええ曲作れそうや)
忘れないように浮かんだ曲を口ずさみながら、部室を後にする。いつもなら一番最後は白石部長だったのに。引退してからは部長になった財前が一番最後に此処を出る。先輩がいなくなった部室はもう少し寂しくなるかと思ったが、三年生並みに濃いのが思いの外同級生にもいて、そんなに感じることはなかった。手の掛かるのが増えたくらいだ。財前の足取りは軽く、しかし向かうのは帰路ではなく校舎だった。上履きに履き替えて階段を上る、静かな校内に財前の微かな鼻唄が響く。きっと今日も彼女は一人で薄暗い美術室にいるのだろう。目的の場所が見えて、口ずさむのを止める。扉の前で一息ついてからゆっくりと扉を開いた。
「財前くん、今の歌誰の?」
「聞いてたんですか」
「うん」
カーテンを閉めきった部屋の中心で彼女は財前を振り返り笑った。
名字名前は美術部の部長で、コンテストに出した絵は殆どが表彰されている程の腕があるが、変わり者の多い四天宝寺で『変わり者』と言われているような不思議な人物だ。そんな彼女と財前が知り合ったのは、テニス部の全国大会の後だった。
「ねぇ、今日の空は何色だった?」
「…せやから、自分で見たらええやないですか」
「駄目。まだだから」
そう言って名字が視線を自身が向かい合っていたキャンバスへと移す。
澄み切った夏空の、その中心に空を見上げる少年の姿が描かれた絵。中心といっても八割が空で、あくまでもメインは空なのだと彼女がいつだか話していた。表情もよく分からない絵なのに、きっとこの絵の少年は泣いているのだろうと分かるのは、彼女の表現力が全国レベルだからなのか、その少年があの日の自分だからなのか。
「あの日の空を、財前くんをね、鮮明に残ってるから、今は混ぜたくないんだよ」
そう呟いて、愛おしそうにキャンバスを撫でた。
―――そう、あれは全国大会に負けて、三年生との最後の大会を終えた後の自分だ。ふと一人になって見上げた空があまりにも澄み切っていて、あぁ最後だったのだ、と突然そう思い知らされて涙が零れたのだ。それを、名字は偶然見てしまったのだという。そして勢いでその日のうちに下絵を描いてしまったのだと。
「本当はね、授業サボって此処に籠って仕上げたいんだけど!」
「受験生がそれはあかんやろ」
「先生にも怒られた!だから放課後とか財前くんに会うときは空を見ないようにしてるよ!」
そうですか、と返して教室に入って適当な椅子に座る。
全国大会が終わって暫く経ってから突然呼び出しを食らって、僅かな光しか入らない美術室で「勝手に描いちゃったんだけど色塗ってもいいかな?」と、この絵の下絵を見せられた時は何から突っ込むべきなのか考えたものだ。見たその日に描き終わっていたのに数日経ってから訪れたのは、財前がどこの誰で何部でどの学年かも分からなかったから探すのに手間取ったのだと笑う彼女に面食らったのも懐かしい。
財前の様子を見て満足そうに笑ってから名字は再び筆を取る。椅子の背もたれに顎を乗せてその様子をぼんやりと眺めてから目を閉じる。自分が描かれていると言っても殆んど財前だとは分からないであろうその下絵に肖像権も何もないだろうと、別に、と大した興味もなく返した事を今では後悔している。
『ねぇ、空は何色だった財前くん。財前くんの中のあの日の空は、どんな色だった?私は、こんな色だった』
そう言って彼女が見せた絵には、余りにも鮮明にあの日の空の色がのっていて、あの日の情景が、忘れたはずの感情が一気に込み上げて、名字の前で泣いてしまったから。それを見て、慰めるでも困るでも無くただ満足そうに微笑んで、良かった、と呟いたこの『変わり者』にここまで惹かれる事も無かったのに。断っていたら、と過去の自身を悔いる。
「この前ね、たまたまうちの後輩がこの絵を見ちゃったんだけど、財前くんと同じように泣き出しちゃってね」
「何しとるんですか」
「不可抗力だよー。それでね、なんで泣いてるの?何が胸にきたの?教えて!って言ったら」
「キチガイやないですか」
「探求心からですよ!でね、聞いたら『苦しなるほど綺麗な空だから』って」
「……」
「『きっとこの人も泣いとって戻らない事が苦しいんやろって思ったら涙が溢れて』って泣いてた」
それを表現しきった私凄い!なんて自画自賛する名字に小さく息を吐いた。人とずれている彼女が、一体何を思ってあの日の自分を描いたのか。話すたびに不思議で仕方がない。それが彼女のこの才能の対価なのかもしれない、と無理矢理納得させて鞄から取り出した水を飲み込んだ。
「描かなきゃって思ったんだよ」
ぽつりと、まるで財前の心を読んだように名字が口を開く。驚いて顔を上げると、彼女は絵では無く財前を見つめていた。真っ直ぐな瞳に目が逸らせず息を飲む。
「あの刹那を切り取らなきゃいけないって、私の全身の血液が騒いだの。心から何かを叫びたくなるような、あの熱情を、財前光という人間が感じたままのあの瞬間を、とても美しいと思ったから。そう感じたから、描かなきゃいけないって思ったんだよ」
そう、凛とした声が美術室に響く。これだから、この名字名前という人物は困るのだ。まるで愛の告白のようだと、彼女から視線を外して溜め息を吐いた。名字はそんな財前を気にもせずキャンバスに向かう。
「こんなの初めてなんだよー」
「なにがです?」
「この絵を誰かに見せたくないなーって思うの」
「…前にコンテスト出す言うとったやないですか」
「うん」
「それと、色んな人にこの絵を通して財前くんの想いを感じさせて泣かせたいーって」
「言ったねぇ」
そう、財前からすれば、恥を晒すような事をしたいと目の前の人物は常日頃言っていたのだ。それが何故、もうすぐ完成するという時になって。眉間にシワを寄せれば、名字はコトリと筆をおいて満足そうにキャンバスの縁を撫でた。
「皆にあの熱情を伝えたい、ってのはあるの。でもね、同時に誰にも見せないで私と財前くんだけが知ってればいいなって気持ちもあるわけよ」
「はぁ…」
「だって、この時の財前くんを、白石くんも小石川くんも忍足くんも石田くんも千歳くんも金色くんも一氏くんも知らない。私だけがあの瞬間、一番胸が熱くなるあの瞬間に居合わせたの。でもこの絵が世に出たらきっと彼等は気付くでしょう?」
それはやだな、と呟く彼女の横顔はいつもの飄々としたものではなく、小さな子供が拗ねているようで、財前は顔が熱くなるのを感じて背もたれに突っ伏した。本当に、彼女は狡い。まるでそれは自分を独り占めしたいと言っているようではないか。
あほちゃいます、と小さく悪態をついてから、些細な抵抗で名字に鞄から取り出した飴を投げつけた。見事にそれは彼女の頭に当たり、いた、と小さな悲鳴の後に不貞腐れながら飴を拾った。
「あ、そうだ財前くん。この絵のタイトル決めてよ」
飴の封を開けて口に放りながら名字が口を開く。タイトルですか、と聞き返せば彼女は大きく頷いた。恐らく仕上がったのであろうその絵をぼんやりと見つめて、再び溢れる感情を飲み込んでから、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「…『空は何色?』」
財前の言葉に一瞬目を丸くしてから、直ぐにふわりと穏やかに微笑んで、いいね、と立ち上がった。ゆっくりと歩みを進める彼女は自身の目の前へとやってきて、財前が見上げると同時に腰を低くして一気に距離を詰めた。不意に近付いた名字の顔に驚いて少し身を引くと彼女は意地悪くにいっと笑った。
「じゃあ、さっきの歌も『空は何色?』ってタイトルね 」
「……いやっすわ」
目を逸らして呟けば、ひどい、とやはり楽しそうに彼女は笑った。
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