「リー、か…?」
不安げに後ろから問い掛けられ恐る恐る振り返ると、不思議そうに眉を下げるシオン様が私を覗き込むように屈んでいた。星詠みの塔の外にある庭園から帰る道中、今日は新しく教えてもらった抜け道から帰ってみるかと、壁下にある鉄格子を外して潜り込もうとしたらこれである。取り敢えず、これが他の黄金聖闘士さんではなくシオン様で良かったと、いつぞやのカルディアやデジェルさんとの初めましてを思い出しつつ、引きつった笑顔を返す。すると呆れたように肩を竦めてから手招きされたので、不思議に思いつつそっと後ろに下がって這い出る。
「何故、そんな所から帰るんだ?」
這い出たところで正座してシオン様を見上げればくしゃりと頭を撫でられて、俯いてごめんなさいと謝れば、そうではない、と優しい声が返ってきた。
「私は怒っている訳ではなく、本当に不思議なだけだ。何故、盗人のように隠れて帰るのだ」
「…サボってるから」
ぽつりと呟けば、シオン様は目を丸くして私を見て、そしてやっぱり優しく微笑んでもう一度私の頭を撫でた。
「シホリ様の事はシジフォスに頼まれた事なのだろう?隠れる必要はないだろうに」
「周りは、そうは思わないから」
「周り…?」
そう零してから直ぐに息を飲む音がしてシオン様を見れば、彼は私では無く私の身体を見て大きく目を見開いていた。その視線の先を追えば、右腕の包帯が解けて昨日手当てした傷が思い切り見えていて、慌てて隠すが抵抗虚しくシオン様にその腕を引かれてしまった。
「これは一体どうしたのだ」
「いや、えっと、その」
「一体、誰にやられた」
さっきまでの優しい表情はどこにも無く、その声色と表情から怒っているのだと分かる。きっと怒っている理由はこの傷痕のせいだろう。ちらりと自身の右腕に視線を落とす。シオン様に掴まれてる更に上、肘から二の腕の辺りにかけて切り傷のような打撃痕…どう見たって聖闘士候補生の訓練では出来ないような傷が数ヶ所出来ている。それもそのはず、これは昨日闘士達に追い掛けられて打たれた鞭の跡だ。いや、そりゃあ昨日の訓練もサボってましたよ。でもさ、一人でぼんやりと小宇宙の特訓して一息吐いたところで現れるとか、ちゃんと特訓してるところをタイミング良く見てないなんて本当昨日は厄日だったとしか言いようが無いんだけど。一応私、黄金聖闘士である童虎さんの下に付いてる訓練生なんだけど、ここまでやる?ってくらいやられたよね。思い出して呆れたように溜め息を吐けば、リー、と低い声でシオン様が名前を呼んだ。やばいめちゃくちゃ怒ってる。
「訓練で、ちょっと。いやぁ、候補生との訓練なんて滅多に行かないから怪我したよね!」
「武器を用いた時でなければこんな風に傷は出来はしない」
「小宇宙の技だよ、凄いよねービックリしちゃった」
「リー」
笑って適当言っていたら更に低い声で名前を呼ばれて、思わず肩が震える。真っ直ぐと私を見つめる視線は怒りで染まっていた。
「誰にやられた」
「大した事ない、よ」
「誰にやられたのかと聞いている」
「だから訓練だってば!!」
思わず声を荒げてからハッとして顔を上げれば、シオン様が目を見開いて酷く驚いた顔をしていた。あぁもう、だから見知った人に見られるのは嫌だったのに。バツが悪くて目を逸らせば、掴まれていた腕の感覚が無くなりゆっくりとシオン様が立ち上がるのを感じる。そっと視線だけシオン様を見れば、彼はもう私に背を向けて歩き出していて。
「っあ、」
どうしよう、怒らせちゃった。そうだよね、心配してくれたのにあんな態度とったからいくら優しいシオン様だって怒るよね。だから仕方ないんだ。自分が全部悪いんだから。
(だから引き止めるなんて、私にはそんな資格無い。自分が、最初に拒絶したのに)
キツく拳を握り締めて唇を噛む。嫌われるのは慣れてる。だから大丈夫。そう言い聞かせて。
「リー?」
涙を堪えて抜け道に入ろうと私も背を向ければ、シオン様が私を呼ぶ声がしてピタリと立ち止まる。さっきまでと違う、優しいいつものシオン様の声色に戸惑いつつも振り返れば、少し先に進んだシオン様が私の方を見て困ったように微笑んでいた。
「此方には人が居ないようだ。手当てをしてあげるから、おいで」
「…うん」
小さく頷いてから立ち上がって駆け出す。勢い余ってシオン様にぶつかってしまったけど、シオン様は優しく頭を撫でてから、行こうか、とマントで私を隠すようにして歩き出した。
しばらく無言で二人で歩いていると庭園を抜けた先にある建物へと入っていく。初めて、入る場所だ。恐る恐る中を覗く私に、シオン様が先にある扉を開けて中を確認してから私に入るように促す。机と椅子が一つづつ、それからベッドが一つあるシンプルな部屋を見回してからそっと中へ入りベッドに腰掛けると、シオン様は椅子を引いて私の向かいに座った。
「もし痛むようなら言ってくれ」
「大丈夫、童虎さんの手当てより絶対丁寧だから」
「童虎の手当てはそんなに大雑把なのか?」
「というより加減が出来ないの!ほんとに痛いんだよ!」
「あぁ、それはあるかもしれないな」
クスクスと笑ってほどけた包帯を丁寧に巻き直すシオン様の俯いた顔を見て、ほっと息を吐く。怒ってないみたい、なんて随分都合が良いけれど、思わず泣きそうになったから、思っていた以上にシオン様には嫌われたくないみたいだ。不意に黙り込んだ私に気付いて、少し顔を上げてから痛むか?と問い掛けるシオン様に首を横に振る。そんな私の様子を見てから彼は口元を緩めて再び怪我の手当てを始める。
「牡羊座の聖衣が、彼処へ行けと言っていてな」
「…ア、リエ、ス…?」
「普段は遮断出来るが、何故か強く声が響いたのが気になったんだ」
巻ききった包帯の先を結んで、終わりだと告げるように肩を叩くシオン様に目を丸くする。牡羊座の聖衣、って今シオン様が纏っている黄金聖衣のはず。聖衣が言っていたって、もしかして。
「黄金聖衣にもなると、喋るの…?」
「……いや、黄金聖衣だからではない。聖衣は、彼らは皆生きている」
「生きて、る」
「昔から、修復士として聖衣に触れてきたからか聖衣の声や思いが伝わってくるのだ」
そっと自分の胸元を、牡羊座の聖衣を撫でるように触れてから軽く目を伏せるシオン様に、私も視線を牡羊座の聖衣に向ける。聖衣も、生きている。もう一度、そう呟けばシオン様は微笑んだ。
「知っているかリン。聖衣も所有者を選ぶのだと」
「え、でも聖衣継承戦で勝ったり、黄金聖闘士だって候補生とかいるんでしょ?なら教皇様が選ぶんじゃないの?」
「あぁ、確かに継承戦に勝ち抜いた者が聖衣を手にする事は出来る。しかしな、それに見合った小宇宙が無ければそれは只の重いだけの鎧だ」
そうだったのか。ぽかんとしてシオン様を見つめていたら彼はくつくつと笑い出した。だから聖闘士の、小宇宙の訓練があって、私より前からいる人でも聖衣を持ってない人がいるんだ。じゃあ、あの闘士達もそうなんだろうか。ふと部屋の窓に目を向ける。赤く染まった空が徐々に藍色に移り行くのを眺めて、もう直ぐ夜が訪れるのだと知る。
「小宇宙の強さだけではない、その者が聖闘士に、そして己を纏うに相応しいかを聖衣は感じ、生きている。自分が生きた歴史を継ぐに相応しいかを、そして聖闘士達の意志を強く刻みながら、これから先の未来を伝えるために」
「…シオン様は、見たことあるの?」
彼らの、聖衣達が見た、聖闘士の意志や、生き様を。
視線を戻せば私につられて外を見ていたシオン様の横顔が赤く照らされていた。真っ直ぐに見つめる私に、シオン様は何も答えず、只優しく目を細めて微笑んだ。
