不認識


「毎日、熱心じゃのぅ」


不意に声を掛けられ、振り返ればクラスメートが教室のドアにもたれ掛かり此方を見つめていた。派手な銀髪を一つに括っている彼とは大した会話をした事が無かったように思う、そう名字は不思議に思って首を傾げた。仁王は男子テニス部、しかもレギュラーだったはずだ。となると、放課後の教室に人がいなくなる時間は既に部活動に向かっているはずである。となると忘れ物でもしたのだろうか。


「放課後に、そうやって皆の机を拭いていくなんて疲れんか」


なんてぼんやりと考えていた名字をそう顎で指す彼に、彼女の視線は仁王から自身の手元へと移る。放課後にクラス全員の机を拭いていく、これは1年の時からの彼女の日課のようなものだった。最初は自分の机だけだったのだが、一つ始めると他も気になってしまい結局全ての席を拭くことになっていただけなのだが。まさか人知れず行っていた日課を知っている人物がいたとは、と再び仁王へと視線を戻す。


「何か、日課になっちゃって。そんなに疲れないよ」
「ほぅか。しかしお前さんが仲良かったとはな」
「え?」
「いつも忘れず、最後に拭いていくじゃろう?アイツも喜んでるんじゃなか?」


ドアから離れ、軽やかに名字の傍まで近付くと名字が丁度拭いていた席をそっと撫でる。その表情は僅かに口元を緩ませていて、普段の彼の表情とは違う優しげなものだった。その様子をただ見つめていた名字は、口を開いてから一度閉じ、そして一つ唾を飲み込むとゆっくりと開いた。


「────ねぇ仁王くん、『一体誰の話をしているの?』」


僅かに、声が震える。『誰の話なのか』という点は恐らく名字がいた席の主の事だろう。しかし名字は、この席の主が誰かなど知らないのだ。只、自身の席から順に回っていくと一番最後になるというだけで別段思い入れも無い。だが、仁王の言い回しが妙に引っかかったのだ。机から名字へと緩やかな動作で顔を上げた彼は、無表情だったが直ぐに口端を歪に上げて笑った。ぞわりと、悪寒が走る。彼らしい表情ではあるが、今この瞬間だけは名字には異様だと思えた。言いようもない恐怖に持っていた布巾を握り締める彼女に、仁王は顔だけでなく体ごと向き直る。


「『名取静和』を知ってるか」
「名取さん、って…」
「お前さんが毎日、最後に綺麗にしているこの席の主じゃ」


トン、と指先で自身が寄り掛かる机を叩く。その音は二人きりの教室に良く響き、その動作は名字の視線を何故か惹きつけた。仁王は名字から視線を逸らさずそのまま話し続ける。


「名取嬢とは3年間クラスが一緒でな、『な』と『に』だから一学期はいつも俺の前の席になるんじゃ。1年の時のアイツは名前の通り物静かな奴で、それでもまだ友達と笑ってた。本が好きで図書室に入り浸ったりも、」
「仁王くん、その、今此処にいない名取さんが、どうしたの?」


仁王の話の意図が読めず遮るように問い掛ければ、突然バチリと蛍光灯が音を立てて一本消えた。反射的に肩を揺らすが、教室は未だ夕陽に照らされていて一つ消えたところで大して暗くなることは無く、名字は仁王から目を逸らさず……否、逸らせずに背中を這う恐怖に耐えるように唇を軽く噛み締める。そんな彼女を気にもせず、仁王はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべながら口を開く。


「世の中には、他人に認識されにくい奴がいるのを知ってるか?」
「認識?」
「そう。例えば、隠れんぼをしていたが皆に忘れ去られて見つけてもらえない奴とか、遠足の集合の時にいなくても気付かれない奴じゃ。名取嬢は『そういうタイプの人間』でな」


仁王が視線を名字から逸らし名取静和の席へと移す様子を見つめながら、そう言えば名取静和がどんな人物だったかを全く思い出せない事に気付く。クラスメートだからと全員覚えている訳ではないが、名前は分からないが顔は分かるつもりでいたのに全く思い当たる人物が居なかったのだ。
不意に、怖くなった。
それが何に対する恐怖なのか考える事を拒否するように頭を振る。くつくつと笑う声がして睨むように見れば、口角を上げて笑う彼が名字を見ずに空を仰いだ。


「1年の時はまだ友達もいたからクラスにもまぁ良い具合に馴染んでた。けど、2年になってから友達とクラスが分かれた名取嬢は徐々に認識されなくなっていった。そうして段々と、アイツは居ても居なくても『誰にも見てもらえなくなった』んじゃ」
「……待っ、て。確かに、私名取さんと話した事ないし思い、出せないけど、誰にも見てもらえないなんて事、」
「無いとは言えんだろう?今もこうして『見てない』んだからな」
「…………え」


緩やかに、空を仰いでいた仁王が視線だけを名字に注ぎ、その口元は綺麗な弧を描いていた。キラキラと輝く銀髪が、横顔が夕焼けで真っ赤に染まるのが恐ろしい程綺麗で、背を伝う汗に異様な吐き気を感じる。見てない、見てないという事は。呼吸が荒くなっていくのを落ち着かせようと持っていた布巾をきつく握り締める。しかし眼前の男はと言うと名字の、僅か横を見つめながら話し続ける。


「名取嬢はな、2年の時から皆に気付かれない事に病んでいった。だが、真面目な性格だったアイツは学校に行かないと両親に言う事も出来ずにいつしか精神だけ学校に来るようになった。だから今日も、肉体を置いて学校に来たんだろう?名取嬢」
「っ……!」


話し掛けるのが、自身では無いと気付いていた。気付いていたが振り返る事は出来なかった。気配を、感じてしまったから。血の気が引いていくような感覚に、それこそ血が止まりそうな程に布巾をきつく握り締め、一度俯いてから再び眼前の男へと視線を向ける。
────片目を僅かに伏せて、その綺麗に整った顔を僅かに歪めて、酷く悲しそうに仁王は笑っていた。
今までの笑みではなく、慈愛にも似たその顔に名字は息が止まるように感じた。そして、振り返らなければいけないと、名取静和と向き合わねばならないと反射的に後ろを向く。
自身から僅か数歩後ろに、彼女は立っていた。唇を痛いくらいに噛み締め俯いて涙する彼女は生身ではないのだと分かる程に薄く透けていて、思わず息を呑めば名取は顔を上げて名字へと襲い掛かる。待て、と後ろから仁王の声がするのを聞きながら、目の前の彼女の顔から目を逸らせずにいた。


「私、貴方を知ってる……」


首元へと伸びた手を払い除けるでもなく、逆に名取へと近付いた名字に、仁王も、名取も目を丸くしてその手が止まる。持っていた布巾が手から落ちるのも気に止めず名取の手を握り締め、名字はもう一度、知ってるの、と話し掛ける。


「毎日朝一に、海岸沿いでおっきいワンちゃんの散歩してるよね。私あの辺に住んでて、いつも……悲しそうな顔してたから、気になってたの。話して、みたかったの」
「……う、そ……」


首を横に振ってから名取を見つめる。ずっと前から知っていた。家の近くの海岸をゴールデンレトリバーと共に歩いていく少女の、不意に見せる悲しげな横顔がいつも気がかりだった。何処に住んでいて、何処の学校に通っているのだろうかとぼんやり考えて、他人事の様にただ見ていただけだった。だからこそ、


「今度は、勇気出すから。私、名取さんと友達になりたいよ……!」


握り締めた手を更にきつく握る。目の前の名取がほろほろと泣いている顔を見て、掴んだ手を離したくないと思った。名取はと言うと優しく一度微笑んで、ありがとう、と呟いて夕陽の中へと消えていった。





────……


一つ息を吐き目の前の扉を見つめる。扉を開けるだけだ、開けるだけだと分かっているのに、足が竦んで体が動かない。扉を開けても、また今までのように誰かに見てもらえなかったら、そう思うと嫌な汗が背中を伝う。不意に、躊躇する彼女の背を誰かが押す。俯いている間に開かれていた扉の向こうへと軽く押し込まれ、顔を上げればニヒルな笑みを浮かべた銀髪が、彼女の背を押して教室へと入っていく。彼女が声を上げるより先に教室の中から声が上がる。


「名取さん、お早う!」


教室の喧騒の中、真っ先に彼女を見つけて駆け寄ってくるのは昨日初めて会話をした……────


「────お早う、名字さん」


綻ぶ名取静和の横を飄々と通り過ぎた仁王が優しく微笑んでいたのを、名字だけが見ていた。