振り返れども気配だけ
「結構遅くなっちまったな」


向日が窓の外を見上げれば、日は傾いて宵闇が深くなる様に随分と遅い時間まで残っていたのかと渡瀬は溜息を吐いた。
専属トレーナーによる検査を済ませたレギュラー達のデータを交友棟で紅茶を飲みながらまとめていると、クラスメートでもある忍足が今日はもう打ち切りにしろと跡部からの言付けを伝えにやって来たのが数十分前。レギュラーの部室に戻ってきてから着替えの済んだ彼等と落ち合い、自身のラケバを持って部室を出たところで内廊下の暗さに眉を顰めたところで先程の向日の台詞である。何故レギュラーである彼等が揃って残っているのかと考えてから、恐らくこの時間まで各々練習をしていたのと、遅い時間になったのでマネージャーである渡瀬を心配してだろうと思い近くにいた数人にお礼を告げる。


「理名さん、データまとまりましたか?」
「何とかねー。1ヶ月前と半月前のデータとの比較も作ってたから時間かかっちゃった」
「なんや、そんな事もやっとったんか」


まあね、とへらりと笑って忍足の横を歩いていく。
大した時間は掛かっていないと思っていたが、日が沈むのが早くなったものだ。部室棟の内廊下を九人分の影が伸びる。今日は月が随分と明るい。前で腹が減っただのと騒ぐ姿を見て、夕飯はなんだろうかと思案してから不意に視線を感じて振り返る。


「どうした?理名」
「……いや、何でもない」


宍戸が首を傾げるのに軽く返して前へ向き直る。きっと気の所為だろう、そう思うのに一度意識してしまうと背後が気になって仕方ない。前を歩く皆に意識を向けて会話に交ざって笑っても、視線が、気になるのだ。
もう一度、今度はそっと振り返る。けれども其所に誰も居らず、奥の暗闇から何かの気配を感じるだけで、思わず唾を飲み込む。肩を叩かれて、咄嗟の事に思わず肩を揺らして其方を見れば、驚いた顔の滝と目が合う。


「さっきからどうかしたの?」
「あー……誰か居そうだよね、後ろって」


誤魔化すように笑えば、渡瀬と同じように後ろを振り返った滝が眉を下げた。


「やめてよ、そんな事言われたら気になるじゃん」
「やーい滝くん道連れー」
「はいはい、ほら行くよ」


頭を軽く叩いて歩き出す彼に、生返事で答えながら後を追う。
────矢張り、視線を感じる。
これで振り返ったとしても恐らく暗闇が広がっているだけなんだろう。誰かに居てほしい訳では無いが、こうも気配を感じるのに誰も居ないというこの状況は純粋に只怖かった。深く息を吐き出せば、隣を歩いていた滝が小さく、理名、と呼んだ。ちらりと彼の顔を見れば、目を僅かに伏せて苦虫を噛み潰したように顔を歪めていた。


「変な事言うから、誰かに見られてる気がするだろ」


見られてる。
渡瀬は「誰か居そうだ」としか言っていないのに、視線を感じているという事は。


「────ねぇ、せーので振り返らない?」
「何だってそんな事」
「だって……気になるし」
「……そうだね」


目を見合わせて頷き合うと、せーの、と同時に振り返る。が、其所には深い闇が広がるだけで姿は無い。ほぅ、と息を吐いて二人で再び見つめ合えば、滝も渡瀬の顔を見て安堵の息を漏らす。


「やっぱ居ないね」
「気の所為だったんだよやっぱり」


そう笑い合って前へ向き直った瞬間、目を見開く。
誰も、居ないのだ。さっきまで直ぐ傍で話していたチームメイトが、忽然と姿を消していた。部室棟は本館に比べればそこまで広くはない。そんな中、たった数分で【声も聞こえなくなるほど】離れる事があるだろうか。背筋がゾクリとした。
静かな内廊下に、二人分の影が伸びていた。