聞こえるはずのない声
声が聞こえない。
芥川が目覚めたのは僅かな違和感からだった。その身を預けていた背から少し顔を上げて、寝惚け眼で遠くを見つめる彼に気付いたのは幼馴染の向日だった。


「やっと起きたかよジロー」
「ん……」
「樺地、下ろしてやれ」
「ウス」


跡部の一言でおんぶされていた芥川はゆっくりと地面に下ろされ、サンキュー樺ちゃん!と礼を告げてから来た道を振り返りぽつりと零す。


「理名と滝がいない」
「あ?」
「……ホントだ、どこ行ったんでしょう?」


鳳が首を傾げるのに宍戸がさあなと軽く返し、跡部は深い溜息を吐いた。流石渡瀬の事に関しては良く気付くものだと芥川に感心する。彼が見つめる深い暗闇を同じように見つめてから感じた違和感に目を細める。渡瀬が、ましてや滝が何も言わずに部室に戻るだろうか。それも【音もなく誰にも気付かれずに】だ。
嫌な予感がする。そう、舌打ちを一つすると踵を返す。


「戻るぞ」
「なんや、先行って待っとったらええやんか」
「つーか全員で行く必要無くね?」
「あ、だったら俺行きますよ!」
「いや、全員で行く」


その言葉に一瞬の静寂が訪れる。そして同時に怪訝な顔をしたのが向日と忍足、そして鳳だった。何でだよ、と小さく零した声に答える事無く戻ろうとしたところで不意にその腕を掴まれる。恐らく忍足か宍戸だろうと視線を向けて跡部は目を見開いた。自身の腕を掴んでいたのは意外にも芥川だったのだ。しかし視線は跡部ではなく暗闇に向けられており、あまり見せた事のない無表情ともいえる真剣な表情に息を飲む。


「あっちはダメだC」
「……理由を言えジロー」
「嫌な声がする」


骨が軋みそうなほどの強い力に顔を歪めるが芥川が力を緩める気配は無い。あの暗闇の先に何があるというのだろうか。意識を芥川から背後に向けるが、嫌な汗が背を伝うだけだった。


「なら、どうするんだよジロー」


この状況を打破したのは宍戸で、全員が視線を向けると気だるそうに芥川と跡部を見つめていた。少しして芥川が、こっち、と跡部の腕を引っ張り部室とは逆方向に歩き始めた。驚きはしていたが引かれるがまま跡部は着いていき、宍戸達の目の前を二人が通り過ぎた所で宍戸が残されたメンバーを一瞥して、だとよ、と二人の方へと顎をしゃくる。全員訝しげに顔を見合わせてから渋々といった様子で二人の後を追うように歩き始める。全員が行くのを眺めてから宍戸も足を進めた。暗闇のその先を、一度視てから。
宍戸には所謂霊感と云ったものがある。母方の血筋が関係しているが、視る、聴く、祓うと能力も高い方でありそれ故に関わらないようにしていた。それは芥川も同じだった。芥川の場合、元来本能的に避けていたものがとあるきっかけから【聴く事】に特化していった。其れは恐らく宍戸の能力を上回るのだろう。現に今の宍戸にはあの暗闇の先に【ナニがいるのか分からない】のだ。

(一体、どんな声聴いてんだよジロー)

奥歯を噛み締め前を行く仲間に聞かれぬように宍戸は小さく舌打ちをした。そんな宍戸の思いなど考えず、先頭を行く芥川は真剣な表情で部室練の出入口へと早足で進み続けていく。


『アソ、ぼ』
『おいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいで』
「────しょ」
『あ゙どナンに゙ん゙?』


やっと聞こえた。
背後から止まない【黒い声】の中かで微かに聞こえたのは大切な人の声。唇をキツく結んで、それでも尚芥川は歩む足を止めない。その瞬間、掴まれた腕に僅かに力が入るのを跡部だけが気付きながらも口にはしなかった。
七人分の影が内廊下の暗闇へと溶けていった。