初夏といっても夜は冷える。
湿気を帯びた空気に混じって、濃い血と鉄の錆びた匂いが、今戦闘が終わったことを告げていた。

辺りは何事もなかったように静寂に包まれ、消えかけた電灯の灯りだけが仄かに彼の居場所を彼女に伝えようとしている。

「アレン…」

彼女は聞こえるか聞こえないかの声量で呟いた。彼は動かなくなってガラクタに成り下がったモノをただ一点に見つめている。今回の敵は、親の死を嘆いた少年のAKUMAだった。その事実が彼と出会ったあの夜を彷彿とさせ、小さい背中が過去の彼を思い起こさせる。

彼の頬に一筋の光が流れた。滴り落ち、地面に染みを作る。彼女は居たたまれなくなって、やってはいけないと解っていても視線を逸らさずにはいられなかった。

また、あの目をしている。
責めるような、失望するような、自分の行いが正しいのか間違っているのかわからないといった目だ。

「アレン」

もう一度、今度は聞こえるように名前を呼ぶ。なるべく落ち着いた声で、静かに、優しく。

「…レティ」

こちらに視線を移した彼は、はっとして乱暴に涙を拭う。衝動で彼が握っていたであろうネジやボルトがカラカラと渇いた音を立て、落ちた。

「…どうして」

彼は一言紡んで視線を逸らす。眉を寄せ、唇を噛む姿が痛々しい。それから彼が口を開くことはなく静寂が二人を包んだ。ああ、おかしいなと彼女は時々思うことがある。強大な神の力を手にいれたとしても、一番守ってあげたいと思う子さえ、救ってやれない。彼の苦しみを全て解ってはやれない。彼の痛みを全て癒してはやれない。彼女は伏いて濡れた地面を見つめた。ロンドンは湿気を帯びていつも冷たい。この街の空気は二人を分つように拒絶している。そんな妄想がひどく彼女を傷心させた。

「帰ろう」

彼の手を引く。彼女の手に収まるくらいの小さな手。これから恐ろしい何かが起こることを悟るように小刻みに震える手。それでも助けを求め縋るように、遠慮がちに握り返す弱い力が、彼の声にならない声を伝えようとしている気がした。

この子は、私が守ろう。守る、絶対に。守る。まるでその言葉しか知らないみたいに、彼女は何回も頭の中で繰り返した。
このこは、わたしが、まもる。




幕開け




窓を開ければ清々しい空気が部屋を駆け抜け、ここの主であったレティは今更ながら部屋が埃臭かったことに気付く。振り返れば、簡易ベッドと備え付けのタンスが寂しげに佇んでいるように見えた。思い入れがあるほど長く滞在していなかったが、過ごした面影が消えた部屋には少し哀愁を覚える。さてと、とキャリーケースを引っ張るとレティはこの部屋を後にした。今日、彼女は長年付き添ってきた師匠と可愛い弟弟子を置いて、教団本部へと帰る。

自室の扉をパタリと閉め、玄関へと向かう彼女の足取りは重い。彼女は師匠の自室を横目で見ながら、部屋の主が不在であろうことにため息を吐いた。ここを離れ、教団に戻ることは彼女の意思ではない。出かける、と行先も告げず数日間も仮宿を空けていた師匠がやっと帰ってきたと思えば、口にした一言が事の発端だった。

「お前、教団に帰れ」

まるで、お遣いを頼むような軽い物言いに、ぱちぱちと瞬きを数回繰り返し、数秒かけて師匠へと視線を向ける。

「………はい?」

「もう手紙は送ってある。数日後に就いてほしい任務もあるんだと」

…教団に帰れ?任務?彼女は彼の言動を頭の中で復唱する。いつも無茶苦茶な要求を平気でする師匠のことだ、今さら何を言われても動揺しないつもりだったが、こればかりはそうはいかなかった。
彼女は反論しようと口を開いて、何かを思い出したように噤んだ。彼が私をお払い箱にしたい理由には心当たりがある。

ーーー14番目。
アレンを拾ってから何ヶ月間か経った頃の話だ。薬草を採りに行っていたレティは、家の中で声を顰め、いつになく真剣な声音のマザーと師匠に扉に伸ばしかけていた手を止めた。
直感というものだろうか。内容は理解できなかったが、騒つく胸を先ほどまで行き場のなく宙を彷徨っていた手で抑える。

" アレンは、いつか14番目に飲み込まれるだろう "

確かに師匠はそう言った。

「明日には出発しないと間に合わんぞ」

師匠の発言に、はっとして顔を上げる。彼は話は終わりだと言わんばかりに踵を返し、レティに背を向けた。どうやら反論は受け入れてくれないらしい。


next