「足でまといになるくらいなら付いてこないで」

初めて名前さんに会った時、感じの悪い人だと思った。開口一番に冷たく言い捨てられ呆気に取られる。俺の返事を聞く前に顔を背けて任務を続行しようとする姿に、キッと目をつり上げた。彼女の言葉の意味を理解すると一気に頭へと血が上り、ピキピキとこめかみに青筋が浮かぶ。

「いくら先輩だからって偉そうにしてんじゃねぇよ!」

俺の怒号を気にもとめていない様子で、彼女は歩を進める。

「おい!無視すんな!」

勢いのまま、ぐいっと名前さんの肩を掴んだ。思ったよりも力を入れすぎたらしい。華奢な体がぐらりと傾き、彼女の顔が流れるようにこちらへと向けられる。揺蕩う髪の隙間から、大きく見開かれた瞳が垣間見えた。その一束が肩に辿り着く頃、彼女の両目が硝子玉のようにくるりと光を反射して俺を映す。
少し眉間に皺を寄せて唇をきゅっと結び、思い詰めた表情の名前さんに、俺は文句を言うことさえ忘れてしまった。



俺はふと、彼女のその顔を思い出す時がある。まるで当時の光景を切り取ったように鮮明に。例えば、眠りに落ちる前の天井の暗がりを見つめた時。瞼を閉じた時。
必ず暗闇の中に彼女はいる。



自我を見失いかけている瞬間でさえそうだった。

気づくと、俺は冷たい暗闇の淵にいた。
それは塒を巻いた蛇の鱗のようにぬるりと蠢いて、じっと獲物が弱っていくのを待っているようだ。
ずっと感じていた孤独も恐怖もその闇は知らずのうちに優しく食んでいく。正しく爬虫類がゆっくりと時間を掛けて捕食するように。
もうここで終わりだ、と薄れゆく意識の中で瞳を閉じた、その時だった。

「っ…玄弥!!」

ぐいっと強い力で腕を引かれる。同時に聞こえる女の切羽詰まった声。数回瞬きをすると、暗闇の中に青白い月が遠くに見えた。その淡い光を背に、見覚えのある女が俺の顔を覗き込んでいる。その顔は、いつも冷静で表情を崩さない彼女からは考えられないほど鬼気迫るものがあった。

「…俺、」

徐々に覚醒していく意識の中、周りを見渡すと首を落とされた鬼が砂のように崩れていくのが見えた。消えゆく最中であれ、恨めしくこちらを睨む眼光にぞわりと背筋が凍る。
それらに気を取られていると、彼女の親指が俺の下唇をなぞった。急なことにびくりと肩を強ばらせる。口端に粘着質のある液体が伸び、今更ながら口内が血なまぐさいことに不快感を覚えた。離れていく彼女の親指に赤黒い血が月光で鈍く光り、漸く事の発端を思い出す。

「どうしてあんなこと」

彼女のいう " あんなこと " とはきっと、俺が鬼を食べるという行為に他ならない。でもそうしなければ、俺も彼女も今ごろ冷たく地面を転がっていたに違いなかった。
彼女の瞳が不安や恐怖で揺れている。
俺の行いへの困惑と憂慮を織り交ぜたような表情だった。今思えば、彼女の双眸が " 俺 " を映したのはこの時が最初で最後だったのかもしれない。皮肉にも、彼女への想いを自覚したのも、今まで自分を通して兄貴を見ていたと気づいたのもこの一件の後だった。

「…まるで、鬼、みたいだった」

がくり、と名前さんが張り詰めていた糸が切れたように座り込む。ぽつり、ぽつりと紡がれる言葉は震えていた。彼女は地面をじっと見つめたまま浅い息を吐き出す。
軽蔑、されただろうか。いつも慣れているのに、どうしてか彼女に異端者扱いされることは避けたかった。視線を下へと落とすと、だらんと彼女の右腕が力なく項垂れている。先の戦いで鬼の血鬼術により彼女の利き手は神経を絶たれてしまった。
彼女の右腕のすぐ横でもう使われることはないであろう、藍色の刀身が寂しそうに転がっている。俺は鈍い光を放つ刀を見つめ、ぎゅっと拳を強く握り締めた。

「もう、玄弥が戻ってこないかと思った…!」

名前さんの言葉に、はっと顔を上げる。目の前の彼女は左手で顔を覆っていた。指の隙間から押し殺すような嗚咽が聞こえ、やっと彼女が泣いていることに気づく。

「名前、さん」

「…よ、かった、よかった」

よかった、と同じ言葉しか知らないみたいに繰り返す彼女に、おろおろと両手を宙に彷徨わせた。

こんな時、どう声をかければいいのかわからなくなる。兄貴なら、どうするのだろうか。
そんな不毛な考えをしながら、結局彼女が泣き止むまで傍にいることしかできなかった。




ーーーー………



名前さんが兄貴と同期だと知ったのは、あの任務から三ヶ月後のことだった。

「帰りますよ名前さん」

座卓にうつ伏せになり、頬を赤くする名前さんの肩を揺する。与えられた衝撃に眉間に皺を寄せ、小さく唸りはするが起きる様子はない。左手に握られたお猪口を取り上げ、彼女を背負うと困り顔の亭主に一礼をして飲み屋を後にする。

あの任務の一件から、彼女は刀を握ることができなくなっていた。隊士たちの補助に回り、弱音も愚痴も吐かずに励んでいた彼女だったが、月に一回だけ、こうして酒に潰れる日があった。彼女の性格上、ずっと溜め込んでいた澱を吐き出せる唯一の方法だったのかもしれない。

彼女の高い体温のせいで背中が熱い。力の抜けた体は重力に従って、だんだんと滑り落ちていく。少し歩いたところで背負い直すと、その振動で微睡む彼女から小さく声が漏れた。

「あれ…」

「あ、起こしちゃいました?」

だらんと垂れていた名前さんの左腕に力が入る。俺の肩に伏せられていた顔がゆっくり上がり、彼女の息が首筋を掠めた。それにびくりと肩を強ばらせ、彼女へと傾けていた頭を勢いよく正面へと戻す。

「力持ちだねぇ」

「、毎日鍛えてますから」

「偉い偉い」

子どもをあやす様に頭を撫でられる。いつも平然としていて冷静沈着な名前さんからは想像できないほど、甘くゆったりとした話口調に、もどかしさからか口を固く結んだ。

「そうやって、子ども扱いしないでくださいよ」

「そうだねぇ、もう立派な男の人なんだもんねぇ」

「ま、まぁ」

ふふっと笑う名前さんに恥ずかしさで自分の心臓の音が煩い。誰が見ているという訳では無いのに、気まづさで視線が泳いだ。彼女に異性として見られている、という事実だけでも飛び上がるほど嬉しかった。
だが、この些細な喜びは唐突に終わりを迎える。

「風柱なんだもんねぇ」

ぱたり、と歩んでいた足を止める。風柱という言葉に、緩みきっていた顔が真顔に戻っていく。夜の空気を吸い込むと、胸の中に鉛となって沈んでいくように感じた。

「たくさん鬼を倒して偉いねぇ」

先ほどまで浮ついていた気持ちがだんだんと落ち着いていく。細く長く口から息を吐き出すと、意を決して口を開いた。

「…そうでもねぇよ」

俺の一言に名前さんが小さく笑う。
静かな夜だった。兄貴の前ならば、彼女はこんな風に笑うのだろうか。

「でも、あんまり無茶しないで、」

「お前もなァ。溜め込みすぎんじゃねぇぞ」

彼女の語尾がだんだん小さくなる。

「私も、もっとがんばって、そうしたら…」

そうしたら、の続きは聞けなかった。少しして控えめな寝息が聞こえてくる。
俺と名前さんしかいない、この暗夜がずっと続けばいいとも、早く終わればいいとも思っていた。どうせ、叶わない恋だった。出会ったあの日から彼女は兄貴しか見ていないとわかっていた。

瞳をゆっくりと閉じる。すると、瞼の裏でゆったりと髪を靡かせて彼女が振り返る。少し驚いたように目を見開いて、くるりと涙の膜をはった硝子玉がふたつ、俺を睨んでいる。
どうして、あの人じゃないの、と声にせずともその瞳は語っているようだった。

俺は兄貴じゃないですよ、なんて言えもしない言葉を飲み込んで、今の関係にずっと甘んじている。




どうしていつもそうやって




200221




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