「すぐ帰ってくるから。ね、ルイス」

目を真っ赤にさせ、ぐすぐすと鼻を啜るルイスが、レティの裾を引っ張っている。彼女が彼の目線までしゃがみ、優しく何度も語りかけている様を数メートル先でラビは眺めていた。さあ、戻ろう。と彼のサイドに待機している見張りの男の手を、彼は振り切り彼女に縋る。

「あ、そうだ。お土産買ってきてあげる!何がいい?」

「行かないで…」

「チョコレートがいい?それともルイスが好きな飛行機のおもちゃ?」

「、いらない…レティ、行かないで…」

行かないで。壊れた人形のように同じ言葉を繰り返すルイスに、困ったように笑うレティが助けを求めるようにこちらに視線を送る。その要請にラビは応えることができなかった。というかむしろこっちを助けてくれ!と内心冷や汗をかいていたのは彼の方だった。

隣で苛立ちを隠せない神田を横目で確認しては、ひえぇとラビの心が悲鳴をあげる。古参の探索部隊に聞いた時は、まさかなと疑心暗鬼だったが、これが初見のパートナーの心も折れる緊迫感と、一言でも口出せば噛み殺されそうな三白眼か、とラビは身を震わした。目では確認できないが、神田からドス黒いオーラが放たれているようにも見えなくはない。この数分間で神田の舌打ちは5回に及んだ。早く助けてくれ、とレティを見遣る。彼女も焦っているのか、ルイス越しに見える時計をちらちらと気にしている。今日から数日間、ラビ、神田、レティの3人でチェコのプラハに任務に赴くこととなったのだが、出発しようと地下水路へ向かう途中、運悪く噂を聞きつけたルイスがレティを追いかけてきたのだ。彼女はこうなる事を見据えて、彼には任務の事を言わなかったらしい。

説得に成功したのか、押し通したのか、やっとレティがこちらに駆けてくる。彼女の後ろでリナリーが小さく手を振っているのが見えた。騒ぎを聞きつけたリナリーが彼女が留守の間、ルイスの面倒を買って出たらしい。リナリーに任せておけば安心だろうと、彼女も心なしかほっとした表情をしている。

「お待たせ。ごめんね」

「遅せェ」

神田が仏教面のままレティを一喝すると、2人を気にせず踵を返す。その背を一見してからラビがレティに視線を戻すと、彼女はバツが悪そうに小さく手を合わせて苦笑していた。



求め奪う





予想外のルイスの登場により、汽車の出発時刻には結局間に合わなかった。次の便を待つしかないか、とラビが落胆する中、神田が走るぞ、と耳を疑う発言をしたのだ。更に驚愕したのは、レティと探索部隊のトマも当たり前かのように走りだしたことだ。
普段から鍛えているだけあってか、何事もなく汽車へと飛び乗り、天窓から可憐に乗車を決めた。

「と、飛び乗り乗車さ…」

ラビが乱れる呼吸もそのままにどかっと尻餅をつくように座席に座る。彼に続いて向側の座席にレティ、その隣に神田が腰を掛け、探索部隊のトマが境目の通路に立つ。

「なんとか間に合いましたね」

「レティがモタモタしすぎなんだよ」

「だからごめんってば」

腕を組み、出発前と変わらず不機嫌そうな神田に、この調子で無事に生還できるだろうか、と苦笑する。そんなラビの思考とは裏腹に、不服そうに頬を膨らますレティ。神田の横柄な態度にも怯えることなく、言い返す彼女に彼との付き合いは長そうだ、となんとなしに考えた。

「早速ですが、任務の話をしてもいいでしょうか?」

トマの一言にピリリと空気が引き締まる。それぞれが了承の合図を送り、彼の言葉を待った。



ーーー七千年前のノアの大洪水によって、世界中に散らばったイノセンスは、様々な姿形に変化し、現在までに存在してきた。
奇怪のある場所にイノセンスがあるーーー不思議な力を秘めた神の結晶は、そこに存在するだけで奇怪現象を起こすという。



「礼拝堂で若い女性が忽然と姿を消す、か」

トマが1人ずつ配ってくれた資料の一文をラビが読み上げる。それにトマが小さく頷き、彼の言葉に付け足すように続けた。

「それも男性と礼拝しに来る女性のみが姿を消し、7日後に老婆のような容貌で遺体となって発見されるそうです」

「1週間で老婆ねぇ…」

聞くからに人の所業とは思えない。教団の調べによると被害者は今月で11人に及ぶという。さらなる情報を得ようとページをめくるが、有益な情報はなく、それどころか真っ白な背景が続くばかりだった。

「あの…トマさん」

ラビが首を傾げていると、案の定、正面のレティが遠慮がちに声をかけている。

「はい。レティ殿の言いたいことはよくわかっております。大変申し上げにくいのですが、現地の探索部隊が入手した情報はここまでなのです」

トマの話によると、この3ヶ月間張り込んだものの、奇怪の姿形は捉えることができず、男性と同伴していた女性が消えた、という事実しか確認できないのだという。痺れを切らした探索部隊が本部へその主旨を伝えると、性別の差異が関係あると踏んだ室長がレティを指名したというのだ。

(それって…つまり、)

レティにちらりと視線を向ける。彼女は感情の読めない表情で資料を見つめていた。少しの沈黙の中、彼女がゆっくりと瞬きをすると、真っ直ぐにトマを見つめていた。

「わかりました。私が囮になります」


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