嘘だと言ってほしかった。
 叔父が失踪した。
 親戚間での噂話のタネを四六時中ばらまいていたような人だから、失踪の理由は嫌でも耳に入ってきていた。それも、たくさん。
 医大を中退してしまったから。バイトもクビになったから。それが原因で長年付き合っていた彼女に振られてしまったから。親(つまりは私の祖父母)に見放され、姉夫婦(つまりは私の両親)に呆れられ、親戚一同に白い目を向けられていたから。
 元々肩身は狭かったはずだ。姉との年齢が離れすぎていたことから、あらぬ疑いをかけられたこともある。そして実際叔父は、妾の子だった。そのことを一生黙っていられなかった、彼の親を責めることはできないけれど。
 それでも私の記憶の中の叔父はいつだって笑っていた。暖房の効きすぎた古い喫茶店、アイスコーヒーの氷をストローでつつきながら、俺ぁ医者になってひとを助けてすげー功績を残すんだってへらへらしていた時も、本当は毎日毎日受験勉強に追われてしんどかったはずだ。医大しんどくってやめちった、でも知識は無駄にはならんからってピースサインを作っておどけていた時も、本当はどれだけ苦しかったのだろう。それでも、叔父は笑っていた。いつだって。どんなときだって。
 叔父が失踪した。
 誰とも連絡がつかない。家族とも、友達とも、元彼女とも、私とも。
 一人暮らしの家の合鍵なんて誰も持っていなかったし、大家さんに事情を話して開けてもらったその部屋には、いつから帰っていないのかもわからないくらい生活感がなかった。郵便受けに刺さっていた二通の封筒の、古い方の消印が三か月前。年が明けてすぐに、叔父は失踪していた。誰にも知らせずに。誰にも知られずに。
 おばあちゃんの妹が言った。自殺でもしてんじゃないの。
 アプリでメッセージを何通も送ったけれど、既読にすらならなかった。
 お正月の親戚の集まりに叔父が来ないのはいつものことだけれど、それでもまだ新年の挨拶には返信が来ていたのに。四月になったら高校の入学祝いしてやるよ、ケーキ食べ放題行こうぜって。言ってたのに。嘘つき。
 嘘つきな叔父で構わない。構わないから、嘘だと言ってほしい。失踪なんて嘘だよ。ほんとはすぐ近くにいたんだよ。エイプリルフールだよ。びっくりしただろ? まだまだ子供だなあ。
 いつもみたいに笑って、私を安心させてほしい。それとも叔父は、笑えなくなってしまったのだろうか。
 そんなの嘘だ。エイプリルフール。
 ふと、窓の外を見る。
 分厚い雲のせいで、お昼前なのに薄暗い。とたとたと、雨が屋根を叩く音が続いている。
 エイプリルフールに雨が降るとな。
 いつの記憶だろう。叔父の声が、靄のかかった記憶の奥から聞こえてくる。
 エイプリルフールに雨が降るとな、世界は全部嘘になっちゃうんだぜ。
 数年前、まだ私が小学生だった頃、学校でいじわるをされて泣いていた私に叔父が言った嘘。エイプリルフールに雨が降ると全部嘘になるんだ。だから泣かなくていいんだぜ。全部嘘だったんだよ。悪い嘘。大丈夫、現実は、世界は、ほんとうは、もっと優しいものなんだ。だから、泣かなくていいんだよ。
 叔父は私を慰めるためにそう言ったのだろうけど、私は『世界が嘘になる』という言葉を酷く怖がった。私も? おかあさんもおとうさんも? みんな嘘になっちゃうの?
 怖がる私に、困ったように微笑んだ叔父の顔を覚えている。嘘にしたくないの? つらくて悲しいことでも? そっか、じゃあ、嘘を暴く方法を教えてやるよ。本当のことを忘れないためにはな。
 その言葉の先を思い出して、私はすうっと立ち上がった。抱えていたクッションが転がり落ちて床に臥せった。
「お母さん! ちょっとコンビニ行ってくる!」
 嘘だった。嘘だったけど、構わなかった。
 財布と、携帯と、ビニール傘を持って家から飛び出る。走って、走って、走っても駅までが遠い。
 嘘でもなんでもいいよ。天国でも地獄でもいいよ。つらくても、つらくなくてもどうだっていい。
 私にとっては。
 あなたのいる世界だけが、ほんとうだったのに。

 風が強かった。家を出たときよりもずっと雨足が強まっていて、傘がぐらぐらと揺れる。波だって高かった。雨の音と波の音が混ざりあって、意味もなく不安になるような音をたてていた。
 叔父は、傘も差さずに、靴も服もそのままで、太ももから下を海に突っ込んだままぼうっと立っていた。
 駅まで走ったその速さよりももっと速く、その背中に駆け寄った。走るのは学年で一番速かった。上手な走り方を教えてくれたのは叔父だった。
 靴を脱ぐ余裕なんてなく、じゃぶじゃぶと波を蹴り飛ばして、ほとんどぶつかるようにして叔父の腕を掴んだ。手から離れた傘が風に煽られて、沖の方へ飛んでいった。
 叔父が振り返る。驚いた顔。いつもの叔父のように見えた。
「びっくりしたー、なにやってんのー?」
 雨風にかき消されないように大きな声を出したのは叔父だった。ふわふわとへらへらと、間抜けな声。いつもの声。
「ばっ、かじゃないの!!」
 叫んで、その腕を引く。叔父はほとんど無抵抗に、私に引っ張られる。浜の方へ。陸の方へ。
「なあ知ってるかー? エイプリルフールに雨が降ると、世界は全部嘘になるんだぜー!」
 昔読んだ本に書いてあったんだーと叔父が笑う。
 知ってる。知ってるよ。教えてもらった。
「でも、海に来たら嘘にならない! 嘘が全部嘘になる!」
 そう言ったのはあなただよ、と振り返った。私はほとんど泣いていた。
 べとべとの靴に砂がこびりついて、すぐに雨で流れていった。足が重かった。腕を強く握りしめすぎた手が痛かった。叔父も多分、痛かった。
「これは嘘!? それとも本当!?」
 叔父が答えるより先に、力の限り叫ぶ。
「そんなのどっちだっていいよ!!」
 私はここにいるでしょう、あなたもここにいるでしょう、痛いし、寒いし、ずぶ濡れで馬鹿みたいで、ここにいるでしょう! あなたの笑顔が嘘でも、つらい世界が本当でも、関係ない! そんなの、全然、関係ない!
「どこにも行かないでよ……!」
 見上げた叔父も、泣いているように見えた。雨のせいで、よくわからなかったけれど。
「入水自殺でもしてるように見えたんか?」
 泣いていると思った叔父が笑った。
「世界が全部嘘になればいいって、確かに思ったけど。それじゃあ、あんまりだからな。でも、何が嘘で何が本当かわかんなくなって、海に来たら、ほんとうがわかるかなって思って」
 そしたらお前が走ってきたなあ。
 叔父の手が私の頭をわしわしと撫でた。節ばって細い指だった。そのまま叔父が、私の頭をぐっと抱え込んだ。私も手を伸ばして、叔父の背中をかき寄せた。
 薄い体だ。皮のすぐ下は骨だった。体温がほとんどなかった。
 嘘と本当を抱え込んで、どこへも行けなくて、迷子になって、それでも何も捨てられずに、叔父はここにいた。全部背負うには、あまりに細い体だった。けれど、ここにいた。ここにいる。
 叔父のすすり泣く声が聞こえた。でも、それは私が考えた嘘だったかもしれない。
 雨足が弱まる頃、叔父はようやく少し身体を離して、いつものように情けなく笑った。
「帰るかあ。嘘ついていいの、午前中だけだもんな」
「エイプリルフールじゃなくても嘘ばっかりついてるじゃん」
 ふはは、と叔父が声をあげて笑う。
 その笑顔がほんとうだといいな、と私は思った。



エイプリルフールフール




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