報われない女の子がいる。
 父子家庭の彼女は、幼い弟のためにろくでもない父親と戦いながら、平日深夜のコンビニバイトと休日の運搬バイトで日銭を稼いでいた。
 教科書を買うのさえギリギリの経済状況で、それでも成績はずっと学年で十番以内だったし、体育の授業だっていつも全力で、いつでも空腹だったけれど体調を崩して学校を休んだりはしなかった。
 くすんで皺になった制服から痩せ細った手足が見えていても、伸ばされた背筋はいつも美しくて、穏やかなその笑顔は誰の心でも融かしてしまえるように思った。
 でも、彼女は別に誰からも認められなかったし、許されなかったし、特別褒められることもなかった。むしろ、その逆だった。
 世界のすべては彼女に冷たかった。
 だから、私だけは、彼女に優しくありたかったのだ。

「ねえ、帰り道、ちょっとだけ寄り道しない?」
 六限目の眠い英語の授業が終わったあと、窓際の席で帰り支度をしている彼女に声を掛けた。
「うん? なに?」
 振り返った彼女が微笑む。
「あ、英語用のさ。罫線の……ノートを使いきっちゃって、文房具屋さんに行こうと思ってるんだけど、一緒にどう?」
「文房具屋さん……」
「そう、みゆき通りのところの。あそこ、新しいドーナツ屋さんできたでしょ? それで……、ほら、もうすぐ誕生日だったよね? 大したものじゃないけど、ドーナツご馳走したいなって」
 彼女の前では、つい変に緊張してしまう。憧れのような、畏怖のような、気恥ずかしさの混ざった落ち着かない気持ちになってしまう。
「……ありがとう。気持ちだけですごく嬉しいよ。今日はこの後、バイトがあるから」
 椅子から立ち上がった彼女の、ぱさついた髪が陽に透けた。細いその繊維が茶色に光る。
「そっ……か。少しだけでも時間ない? あ、それか、明日ドーナツ買って持ってこようか」
「校則違反で怒られちゃうよ」
 彼女が眉尻を下げて笑った。
「上手く包んでおけばバレないバレない」
「そうかな……。ありがとう。でも、本当に気持ちだけで充分だから」
 にこり。色艶の悪い彼女の顔が綻んで、ひらりと手を振り彼女は帰ってしまった。
 その背を追う、クラスメイトの陰口と嘲笑。

 翌日、私は本当にドーナツを鞄に忍ばせていた。ところどころ破れてしまっていたデパートの包み紙でドーナツの箱をぐるぐるに包み込んで、これなら開けるまで絶対にバレないという様相に仕上げた。
「あ、あの! ドーナツ……」
 休み時間、彼女の横顔にこっそり声を掛ける。鞄に手を突っ込んで包みを出そうとすると、彼女の穏やかでしかしはっきりとした声が私を制止した。
「だめだよ」
「えっ……」
 彼女は横目で私を見やって、小さく首を振った。
「ほら、見られてる。告げ口されちゃうよ」
 教室を見回すと、にやにやと私たちを窺い見るクラスメイトたちの視線があった。
 嫌われものの彼女に近付いていく私もまた、好ましくないものとして認定されているらしかった。正直、そんなことはどうでもよかったのだけれど。私は、目の前の彼女にさえ存在を認めてもらえていれば、それで。
 けれど、私が持ち込んだ『校則違反』のせいで彼女までもが叱られてしまうのは本意ではなかった。
「放課後、いい?」
 包みを再び鞄の奥へ押し込み、彼女に声を掛ける。
 返ってきたのは、彼女のいつもの静かな瞳。穏やかな眼差しだった。
「……どうして、そんなふうに私に良くしてくれるの?」
 凪いだその問いに、私は心が波立った。そんなこと。
「だって……、好きだから。尊敬、してるし、……応援、してる。みんなひどいでしょ。ひどいと思うよ。だから、私だけはあなたの味方でいたいと思って」
 彼女の凪いだ瞳は、色を持たない。風も波も持たない。
「必要ないよ」
「……えっ? どういうこと……? 私は、家にも学校にも居場所がなさそうなあなたの、居場所になりたいと、思って、それで」
 そこまで言って、ようやく気付く。
 陽だまりのような穏やかな笑顔。優しい声色。けれどその瞳はしんと、冷えきっている。
 いつから? いつだって?
「私の居場所は私だから、必要ないよ」
 彼女が微笑む。暖かなその笑顔に、私は凍りついたように固まった。
「私は私がいればいいの。私が、うつくしくいればそれで満足なの。誰の、同情も施しも、いらないの」
 そんなつもりじゃ。反論しようとして、言葉が出ない。
 どうして? 私はいつだってあなたの味方だった。あなたに優しくしていた。あなたにとって、必要な存在だったはずでしょう?
 彼女の恐ろしく静かな眼差しが、そう、美しく、私の心を砕く。
 授業の始まりのチャイムが鳴っても、私は身がすくんでそこから動けないのだった。



無形のミューズ




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