04

 中心街の真ん中を流れる運河は、この小さな街にしてはなかなかの規模を誇っている。おかげでこの運河を目的に観光にやってくる人も多く、これまた小さな街にしては様々な人種が行き交っていたりもする。
 とは言っても、運河を目的にやってくる人たちは大抵が長期滞在者である。運河から流れ込む清涼な風は過ごしやすく、旧市街にはひっそりと店を構える老舗のレストランやカフェがある。都会の喧騒から離れたい人にとっては、ここはちょうど良いロングヴァケーション地なのだ。
 だから、彼と四回目の昼食を共にしても、なんら疑問に思うことはなかった。

「うん、ここ、何食べても美味しいね」

 お昼間だというのに、ラムとソーセージのグリルという、見ているだけで胃もたれするような濃いメニューを彼は涼やかな調子で食べている。本心でそう言っているのか、相変わらず読めない笑みである。わたしはそれらを口には出さず、スモークサーモンをレタスと巻き込んで咀嚼する。

「他には行かないの」
「何が?」
「お店」
「ここ以外のお勧めは?」
「……」
「そうでしょ?」

 咄嗟に思い浮かばなかっただけだが、それで彼は答えと判断したらしい。バケーションに来ているというのに、忙しない人だ。昨日彼に抱いた身軽という印象には、行動が速いということにも繋がってるのかもしれない。
「今日、きみの美術館にでも行ってみようかな」ふいに発した彼の言葉に、考え込んでいた思考から浮上する。

「わたしの、ではないけれど」
「つっこむとこそこなんだ」
「小さなところよ」
「でも他にすることないし」
「本屋があるわ。運河沿いの、旧市街のほう」
「オレ、本読まないんだよね」

 なるほど、それなら暇になりそうだ。「閉館は18時よ」そう言って、わたしは冷たい銀のフォークを置いて、湯気が立ち上るコーヒーカップを手にとる。指先から伝わるじんわりとした熱さが、心地よい。
 じっと、視線を感じた。エメラルドグリーンの瞳が、こちらを覗き込むように見据えてくる。

「来るなって言わないんだ」
「……どうして?」

 わたしの率直な疑問は、しかし返されることはなかった。「そういえばさ、」何事もなかったかのように話を戻す彼に、わたしも数秒後には気にもとめなくなった。

「夜はやってないんだ」
「えぇ、普通はそうじゃないかしら」
「そうだね。でもその美術館は違うと思った」
「何故?」
「聞いたんだ」

 地元の人たちの間では、有名みたいだね――?浮かぶ笑みはそのまま、けれど挑発の影をひそませた彼の口元に、わたしはすぐにそれに思い至った。案外、彼は暇を持て余していないらしい。

「することはないって言ってたけれど」
「することないと余計なものにまで手を出しちゃうんだよ」
「なるほど」
「で、本当なの?」
「何が?」
「夜になると、ある絵画が動き出すって噂」

 どうやら、何もかも知っているようだ。だったら隠すことでもないだろう――わたしは昼食の手を止めずに、聞いた噂通りになぞらえていく。
 ――それを最初に見たのは、館の警備員だった。警備員、と言ってもそこは地方の街の、小さな美術館。厳重に警備をするほどの大層な絵画が置いているわけでもなし、一応侵入者用の警備システムが数年放置されたままのくらいだ。閉館後に館内を見回って、お客の落とし物がないか、一応美術品の点呼もする、それだけの役割だった。
 その日も警備員はいつも通りの業務をこなし、早々と帰路につこうとしたときだった。――ひたひたと、なにかが這うような音が二階から聞こえる。悪戯好きの子どもがまだ隠れていたのかもしれない、そう思った警備員がまだ比較的明るい館内の階段を上がっていく。二階を見て回ったが、誰もいない。音も聞こえなくなった。何かの聞き間違いかと警備員は嘆息し、元の階へ戻ろうと振り返った瞬間――

「女の肖像画が目の前にあった」
「そう」
「ベタだなぁ」

 少し呆れを含ませながら、彼はけらけらと笑う。確かに、怪談としては展開が陳腐すぎる。うららかな昼下がりのカフェで話すとそれは倍増である。

「それで、その男は気絶?」
「いえ、あまりの衝撃に近くのレストランまで死に物狂いで走ったそうよ」
「へぇ、そこはおもしろそう」
「ちなみにその人は早々に職を辞めて実家に帰ったみたいだけれど」
「なんだ。つまんないなぁ」

 噂を聞いた通りに話してみたつもりだったが、どうやら彼の今日の楽しみを失くさせてしまったようだ。けれど事実なのだから、しょうがない。レストランで半ば狂乱気味に館での出来事を話した警備員は、その場にいた客のディナーの肴にされ、次の日には早々に街を出た。事実か作り話かわからない体験談だけがこの街に残り……それはやがて地元民の懐かしい笑い話となっている。

「事実は小説よりも奇なり、とはいかないか」
「残念だけれど」

 話は収束、腕時計を見ればちょうど良い時間。「それじゃあ」一言、別れの挨拶を告げ立ち上がる。休憩時間が終わるわたしが先に席を立ち、彼が涼しい顔をして見送るのは、いつものことだった。
「もしその話が本当なら、」けれど、今日は少しだけ勝手が違った。

「え?」
「もしその話が本当なら、どうする?」

 会ってみたい?軽い調子で問うてくる彼の微笑みに、わたしはしばし沈黙する。
 彼の真意を探ってみたところで、その完璧な笑みが崩れるわけでもない。この四日間で学んだ彼の一つの事実。だから考えることは無意味なのだ。

「…えぇ、そうね。会ってみたいかも」

 思いついた感想をそのまま口に出すことが正解だったのか、そうでないのか。ふぅん、とやはり崩れることのない彼の微笑みを前に、わたしは判断を下すことなく石畳の道を歩いていく。