05
今日の入館者数を日誌に記録しながら、レジにある売上額を計算していく。差異がないかどうかを4のボタンがすこし壊れた電卓で計算し、合っていたらそれをまた日誌に手書きで記入していく。ここでは電子機器、というものはなく、すべてが人の手で記録され、保存されていく。ミランダはとんだ時代錯誤だといつも不満をこぼしていたが、最初からこの術しか知らない私にとってはなんら不便に思うことはなかった。カタカタ、と電卓を叩く音だけが響く。ミランダはすでに退社し、館内は静けさに包まれている。いつもなら私もミランダと同じ時刻に退社するのだが、週に一度、この金曜日だけ私は館長の仕事を請け負っている。請け負っている、と言っても、諸々の事務の作業はいつも通りで、ただ閉館後に館内を見回って、それから最後に入り口の戸締まりをするだけである。なんとも簡単な仕事である。
「……今日も、差異はなし」
すべての記録を終えたわたしはひとつ、息を吐き、カウンター広がる館内をぼんやりと見渡す。本当に、毎日のことだけれど、静かだ。展示物である美術品たちは黙してその場に鎮座するだけであり、それを眺める客すらいないとなれば、もう、ここは人間のための場所ではない。
私は日誌をいつもの棚に入れ、売上金を入れた袋を鞄に、両替金を事務室の金庫に入れた後、鞄を置いたまま受付を出た。
ひとつずつ、なぞらえるように壁にかけられた絵画をぼうっと見つめ歩く。いつもならミランダがそばにいるし、館長が最後まで残っているので、こんなのんびりと美術鑑賞なんてできない。一週間の、この曜日だけに許された、少し贅沢な時間。
……そういえば、彼、来なかったわ。
ぼんやりと、絵画を観る頭とは別のところで、思い出す。今日の昼食で一緒になったときにぽろりと、その旨をこぼしていたのだが。まぁ、けれど、仕方ない。彼は本を読まないと言っていたし、こういった方面にもあまり興味がないのかもしれない。彼が興味を持ったのは美術館ではなく、それにまつわる噂話――。
そこまで考えて、はたと、足を止める。
「遭遇したくない、といったら嘘になるけれど……」
その噂話を聞いたのは、確かミランダからだ。あらゆる方面の話に機敏な彼女から話を聞いたときは、あまり驚かなかった。それが本当か、はたまた脚色が加えられた怪談の類いか、それとも完璧な作り話かは置いといて、そんな話が浮上するくらいには、この美術館は歴史が長い、つまりおあつらえ向きの古びた館だったからだ。
石造りの建物の外観は黒く煤け、雨に濡れれば一層重厚な、あるいは陰気臭さが増す。庭にいくつか咲き誇る、館長が毎日手入れをしている花々が華やかさをもたらしてくれてはいるが……やはり、歴史の重みには勝てないようだ。
もし噂の正体が恐ろしく、いつかの警備員のように早々にこの街を去ってしまうほどだったなら…あまり遭遇したくはないが、けれど、数年勤めている馴染みの場所だからか、少し興味をそそられるのも事実だった。ミランダにはありえないと罵られたが、けれどもし、この目の前にある絵画が動くのなら、それを見てみたいと思う。数十年沈黙を守っている、そう、例えば目の前の女性の肖像画が動いてみたり、そう、こうやって膝に落ち着かせていた白い腕が動いてみたり――
「――え、」
それは、無意識にこぼれでた声だった。
そして、その自身の声にはっと意識を覚醒し、仰け反る。
すぅっと、自然にこちたへ伸びてきた手に触れられる、一歩手前で。
鈍い衝撃がお尻に響く。尻餅をついたのだと頭では認識しているのに、意識はそちらへ向かない。ずるりと、引き摺るような、這うような鈍い音を響かせる目の前の絵画に、視線がそらせない。女性の肖像画だったものから這い出る、病的なまでの白い腕が、見事なまでの美しいブロンドの髪が……。
――脳がなにかを発する前に、身体は動いていた。ただ無心になって、走る。今日がヒールの靴でなくてよかった、なんて頭のどこかで冷静に思いながら。ずるり、と這う音がすぐ後ろ、それかもっと遠くのほうで聞こえた気がする。どっちだろう、どっちでもいいことだ、と(おそらくコンマ一秒の間で)結論づけ、息を切らしながら一番最初に目をつけた場所へひたすら走って、飛び込んだ。
「………、はぁ」
鍵を閉めた、目の前の扉を凝視する。数歩後ずさって、沈黙。あの鈍い音も、ましてや扉をこじ開けようとする音もしない。沈黙を守る扉を見据えること――どれくらい経っただろうか、数分か、あるいは数秒かもしれない。ようやく耳の裏から鳴り響く半鐘のような鼓動を自覚して、胸に手を当てた。
一体、これはどういうことだろうか。これは夢?まさかあんなことを考えていたから、錯覚でも見てしまったのかもしれない。願望が錯覚を?えぇ、確かに遭遇してみたいとは言ったけれど、まさかこんなすぐに……いや、そういう問題ではない。わたしは、確かに見たのだ。この目で。この耳で、聞いたのだ。絵画から這い出る、肖像画だったものが。
「……動いていたのは絵画じゃなくて、絵画のなかの絵、そのものだったわね」
どうやら先ほどよりかは頭が冴えてきたようだ。ひとつ、深呼吸をして今一度自分の状況を確認してみる。無意識で飛び込んだこの場所は、受付のすぐ後ろにある職員の休憩所、兼事務室。作りは本当に狭く、窓すらない。ちなみに鞄は受付に置いたままだ。
どうしよう、このままここに朝まで篭ろうか。けれど売上金を鞄の中に置いてきたのだ。この館の鍵と一緒に、明日館長に渡さなければならないのだ。もし鞄を取られたら…まぁ、売上金とはいっても、こんな小さな美術館、額は雀の涙のようなものだが……けれど、やはりお金はお金である。盗られたら困る。
そもそも、あれは害を加えるようなものなのだろうか。けれど確かに、本能的な恐怖は感じた。やはり怪異の類いなのか。そうだ、確かある国では幽霊などには塩をまくと昔読んだ本に書いてあった。塩、塩がどこかにあれば……砂糖、そう、角砂糖ならあるはずだ。ミランダがいつも飲んでいるコーヒーにきっかり2つ入れていた筈だ。砂糖でも効くのだろうか、でも白色だし、同じ様なものかもしれない。角砂糖ならそこのガラス瓶にいっぱいある。………。
「……一旦、落ち着こう」
ふぅ、と小さく息を吐いて、深呼吸。両手に溢れんばかりの角砂糖をひとまず机の上にばらまいて、もう一呼吸。
砂糖はとりあえず置いとくとして、今はここから出ることに焦点を当てなければ。今の状況に甘んじては駄目だ。ここを出て、そしてすぐ近くのレストランに駆け込もう。あの絵画だったものも大勢の人間が集まる場所では現れないはずだ。怪異は人気のいない場所で起こると相場が決まっているからだ。
今後の方向性が決まり、わたしは唯一の出入り口を見据える。先ほどからしばらくは経っているが、扉がこじ開けられるどころか物音ひとつしない。わたしがここに逃げ込んだことをあれは見ていた筈だけれど……もしかしたら待ち伏せしているのかもしれない。というか、待ち伏せなんて概念がアレにあるのかすらわからないが。
とりあえず近場にあった箒(いつも館長が庭掃除で使っているものだ)を手にとり、扉へ近づく。開けた瞬間に、あれがいたら、これで殴ろう。もしいなければ、箒を捨て、入り口まで全速力で走る。この美術館は何故か受付から入り口までが遠いが、それはもう仕方がない。とりあえず走るしかない。余裕があれば、受付にある鞄もひったくろう。
深呼吸。片手は箒を握りしめ、もう片方の手を伸ばす。
カチャン、と鍵を開ける音。
勢いよく扉を開けた。誰もいない。そう判断した瞬間に箒を捨て、そしてその手で鞄をひったくるように掴み、走る。いつもの慣れた道を、けれどいつもとは違い全速力で。走って、走って、ひたすら走って……。
「い、ない……」
入り口まで全速力で走る、と明言していたにも関わらず、後ろを振り返ってしまうのは追われる者の心理として仕方のないことだろう。けれど幸運なことに、振り返ったさきには誰もいなかった。わたしの足音だけを響かせ、少し薄暗い道が続いているだけだ。
……やっぱり、あれは錯覚だったのかもしれない。そう思って、けれど足をゆるめることはなく、前へ向こうとして――。
短い悲鳴を上げる暇すらなかった。
眼前に迫った白い手のひら。
踏み出していた右足に力を入れ、仰け反る。二度目。もちろん、尻餅も。自然、見上げる格好になる。こちらを見下ろすような、宙に浮いた一枚の絵画。そこから這い出た、病的なまでの白さに塗られた、腕。薄暗い室内でも映えるブロンドの髪で覆われた、顔。
どうやら、入り口で待ち伏せされていたようだ。当たり前だ、それが一番確実な、袋の鼠になる。そこまで頭が回らないくらいには、どうやら自分は冷静ではなかったようだ。
なんて、そんなことを考えている瞬間にも、ゆっくりと、スローモーションのように、腕が伸びてくる。そうだ、確か死ぬ間際って、すべてがスローモーションのように見えるって、本に書いてあったような……。
「――オレって、運がいいや」
聞き覚えのある、声。気付けば、眼前まで迫っていた腕が、なくなっている。否、手首から先が、だ。「とりあえず走るよ」事態を把握する前に、腕を引かれる。その力に引っ張られるかのように、足が動く。先ほどよりも数倍速く。走って、走って、前を走るのは、
「やっぱり本当だったね」
こちらを振り返って笑うその飄々とした笑みは、いつもと変わらない、あの相席の青年だった。
「なん、で、ここに」「行くって言ったじゃん。今日」途絶え途絶えに言葉を発するわたしとは対照的に、彼は尋常ではない速さで走りながら、軽やかに言ってみせる。
確かに、昼食のときに言っていたけれど、まさか、こんなタイミングとは……。
「もう、閉館、しちゃったわ」
「ははっ、それ今言う?」
階段を駆け上がりながら、彼は笑う。まったく、器用な人だ。こちらは今まで体感したことのない速さに足がもつれ、今にも倒れそうなのに。「ねぇ、もっと早く走れない?」だというのに、彼はそうのたまう。本当に、軽い調子で。
「そん、なに、走らなくても」
「そう?でも近づいてきてるよ、後ろ」
まさか。信じられなかったが、けれど振り返るのは憚られた。今はそんな余裕はなかったし、それは確かに背後から聞こえてきたからだ。わたしが休憩室に駆け込んだときよりも明らかに速く、鈍い、形容し難い足音が。
「さすがに直に触れるのはなー」
「直、に?」
「いやこっちの話」
「どうする、の」
「ここって、屋根裏部屋とかないの?」
「さぁ、」
「外から見えたあのベランダは?」
「三階の、広間に」
「よし、決まりだ」
何が、と問う余裕は、もちろんなかった。薄暗い館内のなかを、腕を引かれるままに走る。二人分の足音と、もはや足音と言っていいかわからない音が、天井に反響し、飛散する。もはや足の感覚がない。自分で動かしている感覚すら。そう、現実味がなくなって、ただ浮遊感が足下を支配する。
「見えたね」息も絶え絶えな所為か、彼の言葉の意図に遅れて反応する。前方には先ほど問われたあのベランダが見える。開館中は一般人も出ることができ、街の景色を見回せることが出来るひそかなスポットでもある所だが……それが一体、どうしたというのだろう。
と、そこまで考え、けれど思考が止まる。
本当にそれは一瞬だった。
彼が急にこちらを振り返ったことも、地に足がつかなくなったことも、視界が反転し、いつの間にか彼に担ぎ上げられていたことも。
「目立ちたくないから声、出さないでね」
意味を咀嚼する前に、奇妙な浮遊感。舞い上がる髪。そして、落下。
一瞬のうちに遠ざかっていく美術館の景色は、しかしスローモーションではなかったので、きっと死にはしないだろうと、頭の片隅で呟いてみる。