06
街灯の灯りがゆらゆらと、真っ暗な運河を染めあげている。夜はまだ浅く、運河沿いのレストランやカフェはまだ煌々とその賑やかさを照らしている。すれ違う人々はみな友人や恋人と、思い思いの夜を楽しんでいるように見えた。「やっぱり、本当だったね」
そう言ってこちらを振り返る彼もまた、この夜を楽しんでいるように見える。レストランから漏れ出る煌々とした光が、彼の微笑みを照らしていた。
「……そう、ね」
そんな彼を前に、けれどわたしは、自分の呼吸を整えることに意識を集中させていた。彼が振り返るのと同時に解かれた手に、ようやく、自分の意志で足を動かすことを許される。わたしは数歩足を動かし、そして立ち止まった。
「どうしたの?」そんなわたしを、彼は本当に不思議そうな顔をして尋ねてくる。
「どうしたのって、」
「うん」
「疲れたの」
「疲れた?」
「こんなに全力疾走したのは、初めて」
「大げさだなぁ」
「三階の高さから飛び降りたことも」
すべて真実だった。自分を支える両足は今にも崩れ落ちそうだ。けれど、通り過ぎる人々だったり、レストランから流れる渋いジャズだったり、そのいつもと変わらない日常の喧騒が、なんとか自身をこの現実へと縫い止めてくれていた。
「よかったじゃん。初めてのことだらけだ」
「…どうでもよさそうね」
爽やかな笑みを浮かべる彼に、嘆息を一つ。助けてくれたのは有り難いが、結果だけではなく過程も重要なのだ。けれど控えめに言って少々荒々しい脱出劇をこうまで悪気なく開けっ広げにされると、もう……何も言えないのである。
私は観念したかのように深く、息を吐き、足の感覚を取り戻すかのようにゆっくりと歩き出した。
「そういえばあなた、どうやって入ったの?」
「何が?」
「美術館。閉館時間を過ぎてたのに」
「入り口から」
「…看板を立ててたはずなんだけれど」
「そう?見えなかった」
いけしゃあしゃあと彼はのたまう。
「どうだった?」
「え?」
「初めての怪異の遭遇は」
「あぁ、そうね…」
「怖かった?」
「あなたの言う通りだった」
「え?」
「事実は小説よりも奇なり」
動いていたのは絵画じゃなくて、絵画の絵、そのものだったわ。
率直な感想の述べれば、隣りから笑い声。「そこかぁ」彼の表情を確かめる為に、見上げる。今まで気付かなかったが、彼は一般と比べて背が高い。毎回こうでは首が痛くなりそうだ。昼間に会っていたときはそんなこと露程も思わなかった。そう、つまり、あの場所以外でこうやって彼と話をするのは、初めてのことだった。
「確かに、初めてのことだらけ」
「何?」
「いえ、こっちの話」
「そう?」
「あなたは、どう思ったの」
「オレ?」
「あなたの願った通りになった」
「うーん、そうだな、まぁちょっとは面白かったかな」
ちょっとは。彼の言葉を反芻する。なるほど、彼にとっては今夜の脱出劇は、ちょっとの部類に入るらしい。いやはや、爽やかな好青年だと思っていた旅人は、どうやらなかなかの修羅場をくぐってきたらしい。
「それなら、付いてきてほしいのだけれど」
「え?」
「美術館」
「は?」
「鞄を置き忘れてきたから」
「鞄って、それ本気?」
「鍵も閉めないといけないし」
「逃げてきたのに、また戻るわけ」
「自分でもそう思うけど」
「思うんだ」
「でも、鞄に売上金とか、それに家の鍵も入っているし」
「絵画に盗まれるかもって?」
「えぇ、まぁ」
彼は心底驚いたような、というか呆れ返ったような表情を浮かべ、けれどすぐに、くつくつと肩を震わせた。本当によく笑うひとだ。わたしはもはや見慣れた心持ちで見上げる。何がそんなに面白いのか、わたしには皆目検討もつかない。そんな風に笑うことも、あまりしない。だからなのか、どことなく面食らった気持ちで、彼を眺めていた。
「いいよ、協力してあげる」
ようやく収まったのか、まだ少し余韻を残しながら彼は言う。前半の言葉にわたしはほっと胸を撫で下ろし――しかし、後半の違和感に、はてと、瞬き。
「協力?」
「うん」
「えっと、何を?」
「何って、おばけ退治」
「おばけ退治」
思わず彼の言葉を反芻してしまった。おばけたいじ、オバケタイジ。言葉の響きはなんとも可愛らしいが、目の前で綺麗に口角をあげる彼は、どことなく妖しい雰囲気を醸し出している。
「付いてきてくれるだけでいいのだけど」
「本当に?」
「本当にって?」
「また襲われるかもしれないよ?きみ、けっこう危ない状況だったじゃん」
「……」
「それに、もし町の人があれに会ったら、今度こそ笑い話じゃ済まなくなるよ。なんたって本物だ。色々脚色もつけられて、あの美術館は本物のお化け屋敷になる。そんなとこに客が来ると思う?ただでさえ小さい街だ、経営は難しくなるんじゃないかな?」
次々と捲し立てる彼の勢いに、沈黙。
確かに、またあれに遭遇するのはちょっと御免こうむりたい。それに彼の言う通りに事が運べば、美術館は一年ももたずに閉館するだろう。そう、つまり、わたしは職なしになるのだ。
「それは本気で困るわ」
「だろ?」
「でも、あなた、オバケなんて退治できるの」
「うーん、まぁね」
「……聖職者の方?」
「まさか。でもああいうものには慣れてるんだ」
飄々と言ってのける彼に、不思議と疑念が湧くことはなかった。美術館であれから逃げている際、彼はまったく動じていない様子だったし、何より三階から他人を担いで飛び降りるなんて超人的な身体能力を見せたのだ。おそらくわたしには到底計り知れないような、そんな職についているのだろうと勝手に納得してみる。
自分には願ってもない好条件だ、と考えて、そこでふと思いつく。
「あなたのメリットは?」
単純な疑問に、彼はそこで初めて、間を置いた。うーん、と考え込む仕草は、わざとらしくもあり、そして単純に理由を探しているようにも見える。
「メリットか。まぁ、そうだね、長いバケーションの、ちょっとしたアクティビティみたいなもんかな」
なんとまぁ、軽いものである。こちらは危うく命を落としかけたのかもしれないというのに。
けれど、その軽快さが、不思議と安心感を誘った。
「そう、じゃあ、お願いしたい、かも」
「契約成立だね」
にっと、ゆるやかに上がる口角。本当に、綺麗に微笑みをつくる人だ。この顔を前にするとなんだかしてやられた感じがするが、けれど、まぁいいか、と思ってしまう。金銭の類が発生する訳でもなし、職の心配も、少しは遠のいたのだ。むしろ感謝をしなければ、と思って、気付く。
「そういえば、助けてくれてありがとう」
「唐突だね」
「ごめんなさい、今気づいて」
「別に礼なんていらないけど」
「こういうのは大事だから」
「そういうもんか」
彼はどうでも良さそうに相槌をうつ。謝礼の類など、一切興味がないといった感じだ。「それじゃあ、鞄を取りに戻ろうか」現に彼はもう次の行動に移ろうとしている。忙しないというか、身軽というか。淡白とも言えるのかもしれない。
そんな分析をぼんやりと頭の中で繰り広げていたからか。前を歩く彼が立ち止まっていたことに、寸でのところで気づき、足を止める。
「どうしたの?」
「…これって、なに」
じっと、地面のある一点を見つめる彼に、わたしも同じように視線をやる。石畳の道の、街灯の明かりでてらてらと光るその石の上にころりと転がる、白い塊。それはぽつりぽつりと、私たちが歩いてきた道を辿るように落ちている。
「これは、」思い出して、無意識にスカートのポケットに手を当てる。と、その衝撃でか、ぽろりと、それは重力に従って落ちて行く。
沈黙。その一瞬の間を、いつのまに曲調が変わったのか、レストランから甘やかなボサノヴァが流れてくる。
「これは、おばけ退治の一環で」
「おばけ退治」
「塩が効くらしいって、本で読んだことがあるから」
沈黙の空間が、事の次第を促しているようだった。
道に落ちていた角砂糖の説明が終わる頃には、甘いボサノヴァの雰囲気を壊すような笑い声が、夜の喧騒のなかに響いた。