07
艶やかな黒髪の一房が、夜風にさらわれるように靡いている。「それ、いつまで続ける気なの?」
オレより少し先を歩いていた彼女の歩みが止まる。その手には真っ白なハンカチ、そしてその上には今にもこぼれ落ちそうなほどの角砂糖。夜の運河沿いの、煌々としたあかりを灯す街路灯の下で、その構図はどことなく、シュールだ。
「いつまでって、もちろん落ちているのがなくなるまで」
「美術館まで?」
「まぁそうなるわね」
至極当然のように言ってのけた彼女の表情は、やはり真顔のままである。べつに不機嫌なわけでも、喧嘩を売っているわけでもない。これが彼女の常であると理解したのは、出会ってから二回目のことだ。まだ記憶に新しい。この街へ来てまだ数日しか経ってないが、なかなかにいいバケーションがおくれているではないかとオレは思う。
そもそも、オレが特に行ったこともない国の、これまた辺鄙な街に来たのは、もちろんヴァケーションなどどいったものではない。となれば、仕事ということになるのだが、しかしそうでもない。
今回オレがこの街へ来たのには、特に理由はなかったり、する。
ただ単に、気が向いて、とか、暇を持て余した末の思いつき、とか、そういった類いから発生した突発的な事故、とでも言えばいいのか。ここ数年で(おそらく)一番の大捕り物だった蜘蛛の仕事が一段落し、暇を持て余していたのは事実だ。いつもなら副業なり、ゲームなりとインドアな趣味にでも走ろうかと考えを巡らせていたが、仕事をした国が初めて訪れた国であり、そしてたまたまこの国の通貨が安くなっていたこともあり――それなら、すこし国を見て回ろうか、と、気軽に思いついたのだ。
まったくもって意図も計画性もない、オレらしくない行動だ。疲れていたのだろうか。だからこんな、都市から離れた、運河だけが取り柄のこの小さな街にバケーションへやって来た青年に変貌したのか……オレは思わず笑みを洩らす。
「どうしたの」
意識を戻せば、彼女はもはや何度目かわからないその角砂糖を拾いながらこちらを見ていた。
「いや、ちょっとおかしくて」
「何が?」
「うーん、自分の今の状況について?」
「はぁ」
「なかなかいいバケーションをおくれているなって」
「それはよかった」
冗談のつもりで言ったのに、真面目に返されてしまった。つまらなくもあり、けれど面白くもあり。そもそもオレをバケーションへやって来た青年にせしめたのは、他ならぬ彼女なのだ。
この街へ向かう電車のなか、コンパートメントである車内で相席になった初老の女性は偶然にもその街に住んでおり、旅人である年若い青年に意気揚々として自分の住む街のことを喋り始めたのだ。そしてその話のなかに、美術館の話題が出た。そう、オレはこの街へ来る前から、その噂を耳にしていたのだ。街へ着いて数時間、早々に観光に飽きたオレは暇つぶしがてら、話題に上がった美術館へ足を向けた。まぁ予想していた通り、美術館にはなんの価値もなく、ただ、受付をした職員が、あまりにも愛想のない女だな、と言う印象だけが残った。そう、だから、たまたま入ったカフェでその女を見かけたとき、つい声をかけてしまった。くだらない美術館の怪異もどきについて、何か知っているのではないかと。今思えば、暇を持て余した末の愚行である。けれどまぁ、結果はこうなったのだから、それほど悪くない選択だったのかもしれない。
「ホテル、どうしようかな」
「というと?」
「予想外に長く滞在する感じになっちゃったから。もっと安くて気軽なとこ探そうかな」
「それなら、いつものカフェの近くにいい所があるわ」
「ほんと?」
「アパートメントだけれど」
「あぁ、そのほうが助かる。ホテルって掃除に入られるのが嫌なんだよね」
「そんなにかかりそうなの」
「ん?」
「おばけ退治」
「あぁ、うん、おばけ退治ね」
オレから発した言葉だが、どうにもとんちんかんな響きに思わず笑ってしまう。真面目な顔をした彼女の口からこぼれればそれは倍増だ。おばけ退治、オバケタイジ。
まぁ、もちろん、あの美術館の怪異の正体はおばけなどではなく、ただの”念”だけれど。
おそらく操作系か具現化系、それか特質系か。念での攻撃であれの片腕を損傷させることが出来たのがその証拠だ。けれど、いくつかの疑問も残る。最初に美術館を訪れた際、すべての絵画を見て回ったが、念だと気付かなかったこと。彼女に襲いかかろうとしていたときは、遠くからでもはっきりとその存在を感じられたのに。けれど、念能力者の存在は察知できなかった。よほど長けた念能力者なのか。それとも、別の何か、制約か。けれど、何故こんな小さな街の、価値もない美術館に?なんの目的で?
そこまで考え、けれど意味のないことだと思いすぐに思考を止めた。今の段階で確信できることは少ない。とりあえず、今日は噂の怪異に遭遇できただけ、万々歳だ。なんせ暇つぶしが見つかったのだから。
「鞄を取りに行くついでに退治できないの」抑揚のない声で問うてくる声。彼女は相変わらず、角砂糖の山を積み上げている。
カフェで声をかけたとき、彼女はまったくオレのことを覚えてはいなかった。毎日受付をする、数ある客のうちの一人なのだから、当たり前といえば当たり前か。彼女はオレのことを霊媒師の類いだと思っているだろうが、まぁ、どうだっていい。というか、表情が変わらない女だとは思っていたが、あんな場面に出くわしても動じた様子がほとんど見受けられない。しかも自分の鞄を盗られたくないからとまさかの美術館に戻る始末だ。これはなかなかに肝が据わった女なのかもしれない、と呆れ半分、愉快さ半分。
「鞄を取りにいくついでに退治できないの」
「まぁまぁ、こういうのはじっくり取りかからないと」
「じっくり」
「そう、一瞬で終わったらつまんないじゃん」
この街を訪れたのも、彼女に声をかけたのも、そしてこんな事件に巡り会ったのも、そのすべてが偶然の産物で。この世に偶然はないとは有名な言葉だが、ならばこの必然の出来事はオレに何をもたらしてくれるのだろうか?
自然、口笛を吹く。高揚が少し、気持ちは軽い。オレはすっかり、バケーションの気分になっていた。
「私としては、早く解決したいのだけれど」
「まぁいいじゃん。旅は道連れって言うし」
「つまり?」
「せっかく仲良くなったんだからって意味」
「そういえば」
「ん?」
「あなたの名前、訊いてなかったわ」
はたと、今気付いたかのような彼女の反応に、しかしオレも同じような表情を浮かべる。確かに、彼女の言う通り、四日も昼食を共にして、オバケもどきにも遭遇した仲だというのに、お互いの名前すら知らなかったとは。興味がないことにはとことん気が利かないオレの性質が思う存分発揮されていた。けれどおそらく、彼女もそうなのかもしれない。
「シャルナーク。シャルでいいよ」
オレの簡易な自己紹介に、彼女は「シャル、シャル」と何度もオレの名前を口元で反芻している。まるで忘れないよう必死で覚える子どものようなその様に、オレもおかしくなって真似をしてみる。
フィオナ、フィオナ。それが、この街で必然ともいうべき偶然によって出会った、彼女の名前だった。