だって今更だよ
学パロ(教師×生徒)




 僕はあんまりいいひとじゃないんだ、と薄く笑ったかつての「先生」に、ゆるゆると首を振る。「よく知ってます」
「私もいい子じゃないのでお相子ですね」
 本当は、これから起こることが恐ろしくて泣きだしてしまいそうだった。涙を堪えて必死に口角を釣り上げて、強気を装った私に「先生」は、ふ、と息を吐く。
「減らず口は相変わらずだね」
 先生こそ、と発した声はそのまま彼のくちびるに覆われて、飲み込まれてしまった。





 彼――ビリーを「先生」と呼んでいたのは、ほんの数か月か、半年か、そのくらい前までのことである。彼は私が通っていた高等学校で音楽を教えていて、可愛らしいベビーフェイスと楽天的で朗らかなふるまいで生徒にも人気の高い教師の一人だった。年齢の割に小柄な体躯をしていて、大抵の男子生徒より背丈が低いか、あるいはとんとんだったように記憶している。ときおりそれを一部の生徒にいじられて、「流石に怒るよ」なんて笑っていたこともあった。あの言葉がどれくらい本気だったのか、今の私が聞いたら教えてくれるかもしれないけれど、学生時代の私には、ウィリアム先生が本気で怒るイメージが沸かず、ただ何となく「怒ったら怖そうだな」と思ったのを覚えている。

 私も初めは彼をひとりの教師として慕う生徒のひとりに過ぎなかった。音楽の授業で、彼の奏でるピアノを聞いて、歌って、あるいは楽器を奏でて。それだけだ。彼との付き合いは、ほかの生徒より薄いくらいだったと思う。それが今に至ったのは、部活の片づけが長引いたある日、太陽もいよいよ地平線に顔を隠しつつある頃合いに、たまたま聞こえたジャズの音色がきっかけである。
 どこからか、心地よい音楽が聞こえてくる、とふらふら音楽室へ足を運んで、一体だれが演奏しているのだろうとこっそりガラス窓を覗き込んだら、そこにビリーがいて、ひとり静かにジャズを奏でていた。
 何となく入りづらい。けれど立ち去るのも惜しい。
 そんな風に思ってしばらくそこで立ち聞きをしていると、彼が不意に立ち上がって此方へ向かってきて。がらりと引き戸を開けて、ばれてるよ、と声を落として。
「……他の先生たちには内緒にしておいてくれよ?」
 だなんて言いながら、中へ入れてくれたのである。

 そこからだった。
 聞いてみると彼はときおり気晴らしにこっそり此処でピアノを弾いていて、ウエストコーストジャズ――これは後になって教えてもらった――とたまにクラシックも奏でているらしかった。
「ブルーベックって聞いたことはない?」
「……すみません、分からないです」
 うちに帰ったら聴いてみます、と答えた私に彼はお勧めだと言って、さらさらと手帳に曲名をいくつか綴ってその場で渡してくれた。ウィリアム先生の好きなものは一体どんなものなのだろう、と家に帰るや否や検索エンジンに曲名を打ち込んで、――多分、その時にはもう好きになっていたのだ、と思う。
 彼のお気に入りのナンバーは、普段目にする陽気で少し軽いくらいのノリの姿からは想像つかないような、しっとりと落ち着いた曲調ばかりだった。
 ……私はそれから折に触れて音楽室を訪ねるようになった。先生がいるときもあれば、いないときもある。行ったら「もう今日はおしまいだよ」と言われて門前払いを喰らう時もあった。そういう時、私の顔がそんなにわかりやすく曇ったのだろうか、彼は薄手のジャケットのポケットをごそごそとあさって、
「はいこれ」
 と小さなキャンディや笛ラムネをくれた。校内でも上から数えた方が早いくらいにおしゃれな彼のポケットから、笛ラムネだなんていう懐かしい駄菓子が出てくるのは、ちょっとだけおかしかった。
「私のこと、小さな子供だと思ってます?」
 ぺりぺりと包装を破って飴玉を口に放り込みながら問いかけると、「思ってないよ!」などと快活な笑顔が返ってくる。好きだと教えた覚えはないけれど、ビリーが私にくれるのは大体あまいイチゴミルクのキャンディだった。「好きなんですか?」と投げた質問に「好きだよ」とあっさりした返答があって。
「普通のミルク飴とか、林檎の飴の方が好きだけど」
「……の、割にはイチゴミルクばっかりですね」
「この前多めに買ったのがなかなかなくならないからさ」
「在庫処理……」
「失礼だなぁ。やっぱり返してもらおうかな」
 もう食べちゃいましたよ、と舌を出すと「じゃあ今度何か返してもらうよ」とめちゃくちゃな答えが返ってきた。

 人気者のウィリアム先生、と、ただの生徒の私、が親しくなるのにそれからさほど時間はかからなかった。彼は秘密の演奏会のことを誰にも話しはしなかったし、私も彼の秘密の演奏会のことをほかの誰かに話したりはしなかった。これは、ただの独占欲からくる秘密保持だった。
 ビリーがひとり気ままに鍵をたたく時の横顔は、その全身を包む空気は、授業中や休憩時間に生徒と会話する彼のそれとは打って変わっている。
 先生の陽気さは私も好きだった。変に形式ばってまじめすぎる教師より、多少ゆるくても朗らかで気さくな方がいい。未来の私が見たら「その人は一番ろくでもない先生だ」と思うだろうが、少なくともその頃、ウィリアム・H・マッカーティJr.に恋をしたばかりの私には彼くらいフレンドリーな方が良かったのだ。けれど、放課後の彼はそうではなかった。無論、フレンドリーではある。気さくだし、親しみやすいし、授業も何もないからか、先生、というよりは友人のような態度で接してくる。ある意味、距離の近さに拍車がかかっているのだけれど、でも、演奏中は別だった。

「先生、」と声をかけられるのも憚られるような静謐。彼の指先が最後の一音をたたき終えるまで、……否、その一音の余韻がそっと鳴りを潜めて、室内が再び静けさに包まれるまで、彼に呼びかけてはいけないような気がした。いつもよりぐんと大人びて見える横顔や、繊細な指先、差し込む夕日に赤く照るクリームブロンド、彼がまとう、しっとりとした空気。私はそれを、音楽室の隅に持ってきた椅子の上で膝を抱えながら眺めるのがとても好きだったのだ。

 ――これはたぶん、私しか知らない。

 クラスメイトは、ウィリアム先生に親しげに話しかける彼らは、この顔を知らないのだ。と、そう思ったら誰かに話して「自分も一緒に聞きたい」と言われるのがたまらなく嫌だった。
 だから一番親しい友人にも秘密にしておいて、放課後の小さなコンサートは、小さなコンサートのまま、ひとりの演奏者とひとりの観客のままで催されていた。
 先生はそれを見て、私が誰にも話していないのを理解したようである。「名前さんはいい子だね」とある日そんなことを言って――この時、私たちは二人きりの時に限って名前で呼び合うようになっていた――、やはり例のイチゴミルクの飴をぽんと寄越した。
「やっぱり子供だと思ってませんか」と憎まれ口をたたくと、先生は「やだなぁ、そんな風に思ってないのに」と苦笑して、その日はそこで終いにしてしまった。



 ビリーに初めて気持ちを伝えたのは、ちょうど学園祭準備で校内がにわかに騒がしくなりだした頃だったように記憶している。「駅前でウィリアム先生が女の人と歩いていた、とてもきれいな人だった」とまことしやかな噂が、学園祭の喧騒の裏で流れ出して、それを何となく気にしてしまって。
 私と彼とが、単なる生徒と教師以上の関係にはなれないこと、私がどうあれ彼にはその気がないことを重々わかっていながら、恋人なんだろうか、先生が選ぶのならきっととても大人びた本当にきれいな女性なんだろう、とひとりで考え込んでしまって、それが苦しくて堪らず、何となく、彼の演奏会に顔を出すのを控えるようになってしばらくしたくらいだったと思う。
 学園祭の準備に大忙しの教室に、突然ビリー先生が姿を現したかと思うと、「苗字さんを呼んでほしいんだけど、……ちょっと手伝ってほしいことがあって」と呼び出されてしまったのである。クラスメイトの誰かが、どうして苗字が、と声をひそめた。「どうして」ってそれは私の台詞なのに、――そんな考えはおくびにも出さず、わかりましたと先生と一緒に音楽準備室まで向かう。渡り廊下を使って校舎を移って、階段を上って最上階へ。途中、ビリーは何度も生徒に声をかけられた。
「ウィリアム先生も手伝ってよ」と少し高い女声が飛んでくるたびに、彼はからりと笑いながら「いま忙しいんだ。また今度ね」と断って、少し後ろをついていく私を振り返っては「ちゃんとついてきてるね」とでも言いたげに微笑んだ。その微笑みがまた、音楽室で見せてくれる小さな笑みとよく似ていて、そんな顔をこんな人だらけの廊下でしないでほしいのにと歯噛みした。

 音楽準備室は階下とは打って変わって静けさに満ちていた。遠鳴りのような生徒たちの声が、木製ドアの隙間からうっすら滑り込んでくる。それ以外は無音そのものだった。先生は私を振り返るや否や、ぽつりと「最近は全然来てくれないんだね」と少しだけ……ほんの少しだけ、寂しそうな口ぶりで零した。
「君が来てくれるの、ちょっと楽しみにしてたんだけど」
「……だってそれは、学園祭の準備も始まりましたし、」
「それを抜きにしたってさ。大体、君は体育祭の準備期間中だってこっそりやってきてたじゃないか」
 それは、そうだ。その時はまだウィリアム先生を好きだ、という感情は薄かった。運動が苦手な私には、体育祭の準備だって憂鬱に感じられて、それでも疲れた体を押して音楽室に来ると彼のジャズが自分を癒してくれるような気がして、「こんな時にまで来なくたっていいのに」と肩をすくめる先生を無視して毎日のように入り浸っていた。
 それを持ち出すのは、何となく卑怯だ、とそっと目をそらす。
「聞いていいものかどうか分からないけど、何かあったの、名前さん」
 言いにくいことなら言わなくていいよ、と言外に滲ませていた。
 何でも相談してね、とか、そんなことを軽々と口にしたりしない所も、今思えば好きだった、ような気がする。
 何かあった、と言えばそれはもちろんあったと答えるほか無いのだけれど、果たしてこんなことを本人に言っていいものかどうかという逡巡がないわけでもない。迷いや不安は当然にある。もしこれで本当に「恋人だ」と言われでもしたら、と思うとぞっとする。諦めるきっかけになりはするだろうが、こんな形で恋を失いたくはない。せめてこの口から、好きだと伝えて正々堂々振られたかった。そうでないなら、諦めるのも、失うのも御免だとさえ思っていた。
 黙り込んだ私に、先生はわずかに表情を曇らせて「名前さん、」とまた名前を呼んだ。相手がいるかもしれない、そんな予感がしていても馬鹿正直に跳ねる心臓が憎かった。
「大丈夫?」と問う彼の声を遮るようにして、「噂が」と口を開く。

「噂が流れてたから。ビリー先生が駅できれいな女の人と歩いてたって」
「なぁに、それ?」
 面白いなぁ、と彼はかすかに肩を揺らす。
「面白くないですよ。……その人が恋人だったらって考えたら、なんだか後ろめたくて」

 放課後の音楽室で、二人きり。しばらく時間を共にする、というのは如何なものだろう、とそんな風に考えたりもしたのだ。ビリーはどうあれ、私は彼をひとりの異性として好いている。もしかしたらとっくに気付かれていて、敢えて知らないふりをしてくれているのかもしれないけれど、……それがどうにも、後ろめたい。
 なんだか浮気をしているような気分だったのだ。
 もしかするとその人しか知らなかった一面を覗き見てしまったのじゃないか、人のものを少しずつ盗んでおいて「私だけが知っていればいい」などと不遜なことを考えているのではないか。そう考えると、途端に気後れしてしまった。ついで、その恋人かもしれない誰かに、休日の昼間に隣を歩けるだなんて羨ましいという羨望を抱いた。……そこでもう駄目だった。
 目の前の音楽科の教員が望んでいるのは、教師と生徒という関係であって、それ以上ではない。「隣を歩ける彼女が羨ましい」なんていうのは、明らかに「それ以上」である。よこしまだと思った。だからこっそり、行事ごとで忙しくなるからという理由を使って距離を置いていたのだけれど。

 私の言葉を聞いてもなお、ウィリアム先生はからからと笑っていた。
「恋人だなんて!やだなぁそんなんじゃないのに」
 それはきっと従姉妹だよ、と彼は笑う。
「久しぶりに帰ってくるって言うから迎えに行ってたんだ。それが誰かに見られて、そんな風に噂されるなんて思ってもみなかったけど」
「そう、ですか」
 そうだよと先生が頷いて、
「君はまじめな生徒だけど、不思議だね、そんなことを気にするなんて。名前さんが気にするようなことでもないだろ?」
「そうでもないですよ、気にします、普通に」
「……へえ、何でだい?」
 本当に解っていないんだろうか、と私はそこでようやく先生の顔をまじまじと見つめた。演奏中、ドアの外に立っている生徒の気配に気付くような人物だ。人から向けられる感情にだって敏いものとばかり思っていたのだが、実は案外、鈍感なのだろうか。
 恋人の有無に関する噂を気にする理由だなんて、よほどのゴシップ好きを除けばひとつしかないように思われる。本気で言ってます?と視線で語ると、こくり、と首肯が返ってきた。目線だけで意思疎通ができるほど敏いくせに、理由が解らない、だなんてのは少々たちの悪い冗談である。
 と、同時に、ここで一区切りつけましょうという合図なのかしらとも思った。二人きりの時にだけ名前で呼び合うとか、音楽室でこっそり肩を並べ、校則違反のお菓子を食べて共犯者になるとか、そういう可愛い犯罪的行為で結ばれた「秘密の関係」にある種の終止符を打とうということなのか、と。別にここで休符を打たなくたってと思う心がなかった訳ではない。けれども、彼の首肯には「今ここで言え」という確かな意思が含まれているように感ぜられた。
 からからと喉が渇いている。言葉ないし声が渇き切った喉の奥に絡みつくのを、ひとつ、小さな咳払いで引っぺがして。
「……先生が好きだから」



 彼はあの後、ほんの少しだけ……本当に、ほんの少しだけ当惑したような眼をして、静かに首を振った。数回の押し問答の後、ビリーはたった一言「君は大事な、僕の教え子だから」と言葉を落とした。いっそとことん困らせてやろうと意気込んだ矢先のそれである。頭ではとっくに解っていたことだったが、実際に言われると理解するより先に心がこたえるらしい。「困らせてすみません」と短く謝罪して、私と先生とはそれっきりだった。
 音楽室からはそれ以降も、時折ジャズの音色が漏れ聞こえていたけれども私は立ち寄らなくなったし、先生も折に触れて私を呼びつけたりまして名前で呼んだりはしなくなった。二人きりのこじんまりしたジャズコンサートは長いこと開かれなくなり、閉演のお詫びに、とキャンディを貰うこともなかった。
 何となく、このまま忘れていけるのかな、という考えがあった。いずれ笑いながら「そういえば私、ウィリアム先生が好きだったなあ」と友達に話して、「そんなそぶり全然なかったのに!」とか「言ってくれたらよかったのに」とかそんなようなことを言いながらからから笑いあえるようになるんじゃないかしら、という、予感じみた考えだった。ただの笑い話になるならそれでいいか、となるべく忘れる方向に舵を切りだしたのと、彼の悪辣極まりない策略が始動したのはほとんど同時だった。

 廊下ですれ違った時に、とん、と指先が触れる。ぶつかった、とも言えないくらいの衝撃で肩が触れたり、何かの拍子に「ちょっと手を借りたいんだけど」などと言って呼び出される。
 準備室で二人になった時の先生は、以前と変わらず「名前さん」と私を呼んだ。「そんな仲じゃないですよ」とひねたことを言うと、「つい癖で。ごめん」と軽い謝罪が返ってきて、それ以上どうも文句を言えなくなってしまう。謝ったからそれでいい、というよりかは、ただ単に彼があまりにも切なそうな顔をするから、やむにやまれず、と言った方が的確である。

 ――この人は、私とどうなりたいんだろう。

 指先が触れ合う頻度は、偶然触れてしまったと言うにはかなり厳しい高さだった。気にしないでおこうと思えば思うほど、過剰に気にしてしまう。廊下でどうにかすれ違うのを避けたとて呼び出されてしまえば逃げることもできない――職権乱用じゃないかと後で問い詰めたら、僕は悪い先生だからと返ってきた――。彼が常勤の教員である以上、まったくかかわらないというのもどだい無理な話である。
 致し方ない、自意識過剰の誹りも覚悟の上だと
「指に触るのやめてもらっていいですか」
 と問い詰めた私に、先生はわずかに眉尻を下げて、
「ごめんね、触るつもりじゃなかったんだけど、ぶつかってたのかな。次から気を付けるよ」
 といささか真に迫った謝罪を述べた。これでもう、すれ違いざまに触れられてどきりとして、その度に恋心を思い出すなんてこともなくなる、――わけもなく。ただ触れるだけであったのが、時折するりと、指先が絡むようになった。悪化である。後々になってビリー自身が白状したことだからはっきり言ってしまうけれど、やっぱりそれとなく、わざと触れさせていたらしい。
 二人きりの時に「名前さん」と呼ぶのも変わらずだった。私もつられて何度か「ビリー先生」と呼んだように記憶している。



 私は約半年ほど、とにかくこのウィリアムとかいう名前の、幼顔の教師に翻弄されていた。普通、教師は生徒を翻弄するものではないと思うのだけれども、何故こんなことをするのか、知りたいようなやはり知りたくないような思いがあってあまりはっきりとしたことは尋ねられなかった。
 数か月ぶりに偶然か必然か、演奏会が催されたときには「もう暗いし駅まで送っていくよ」と言って譲らなかった。初夏のころは「僕は君を送ってやれないんだからね」と口を酸っぱくしていたくせに、と思いつつ、優柔不断な私は彼の善意――だと信じている――を無下にすることもできず、かすかにムスクの香りがする彼の隣を歩いて駅までの道を行った。
「誰かに見られたらどうするんですか」
 5月の彼が私に投げた言葉を、そっくりそのまま投げかけると、先生は「うーん」と少し考えるふりをして、
「たまたま同じになったって言えばいいじゃないか」
 それがどのくらい言い訳として通用するのか、結局誰にも見られず別れた私たちには定かではない。しかし、その時の彼の、どことなく悪戯げな薄い笑みに、当時の私がほだされたことは事実である。「それもそうですね」とか何とか頷いて、駅のホームの階段前まで連れ立って歩いていた記憶はまだ新しい。そこで名前を呼ばれて「また明日ね」とまるで親しい友人か、恋人にでもするかのように手を振られて、「はぁ、また明日、おやすみなさい」とこれまた親しい友人か恋人に対するような挨拶をして階段を駆け上ったのである。「どうして名前で呼ばれたんだろう」と考えている間に、降りる駅を乗り過ごして、引き返す羽目になったことを私は今でも許していない。

 ウィリアム先生があまりにもそういう、思わせぶりな、というか「あまりよろしくない行動」をするものだから、私はバレンタインが近づくころになっても、相変わらず彼を好きなままだった。
 これにはおそらく、冬休みに入る前、忘れられなくなるからもうこういうことはやめてくれと直談判した際に、やはり切なそうなブルーグレーの瞳を向けられて、
「忘れられると困るなぁ」
 と一番思わせぶりなことを言われたのも関わっている。
 困るって、何でですか。当たり前にそう問うた私に、彼はにこりと笑って一言「ないしょ」とだけ返した。
 彼のそういう思わせぶりでわざとらしい行動のあれこれについて思い巡らせている間に冬休みは終わってしまっていたし、周りがなんだか騒がしい、と気付いた頃にはチョコレートの祭典が目の前に迫っていた。どうしようかな、と友人たちが広げるチョコレートのカタログや、雑誌をぼんやり眺めて考える。
 どうしようも何も、私はとっくに振られているのだから、この期に及んで彼にチョコレートを贈ろうという気には到底なれなかったのだけれど、何しろその彼が、「君は誰かに渡したりはしないのかい」などとのたまうものだからいけなかった。
 渡しますよと答えるだけ答えて、結局誰にも作らないというのも、まあ、手のひとつではあったな、と今更になって考える。
「名前はどうすんの?」
 不意に友人が問いを投げかけてくる。
「どうしようかな」
「好きな人とか気になってる人とか」
「今はあんまり。……友チョコ作るよ」
 そっかあ、と彼女は頷いて「名前のチョコ楽しみにしてるね」とにこやかに笑った。うん、と私も頷きを返して、何となくチョコレート菓子のレシピを検索する。これは別に、友達に配るためのチョコレートのレシピなのだ、と言い訳しながら本命に向けて贈るような少し凝ったレシピを眺める自分がいて、それが恥ずかしいというより、一周回って悔しかった。

 私は結局、ガトーショコラを作って、いくつか切り分けて親しい友人に配るついで、といってはいささか無理があるやもしれないが、最後の一切れと、そういえばうんと甘いのが好きだって言っていたような気がする、とうんと甘いブラウニーを一緒にいれた小さなプレゼントボックスを音楽準備室の古い机の上に置き去りにした。翌日行ったときに残っていたら、先生に見つかる前に回収してしまおうと思ったのである。甘すぎるブラウニーはあまり好みではないものの、紅茶やコーヒーと合わせて食べたら案外いけるかもしれない。
 ……どちらかと言うと、発見されていないことを願っていた。
 義理だか本命だか、ウィリアム先生は私以外の誰かからすでにいくつかチョコレートを貰っているようだったし――これは風の噂であるがおおよそ真実だろう――、もう今日はおなかいっぱいだな、とかそんな風に思ってさっさと帰っていてはくれないか。だって、音楽準備室に置いておくだなんて、特にメッセージも何もつけてはいないけれど、私がやりましたと言っているような気がする。ばれやしないと思いたいが、実際どうなるかは分からない。
 見つかっていないのを期待して向かった朝方の準備室の鍵は、開いていた。不用心すぎやしないだろうか、ここには高い楽器だってしまいこまれているはずなのにと訝しみつつ机の上を見ると、私の贈り物はその姿を消していた。代わりに一枚、小さなメッセージカードが置かれていて「ありがとう。美味しかった」とだけ書かれている。
 どうやら見つかったらしい、と彼の筆跡で書かれたお礼のメッセージを読んで溜息をつく。美味しかった、という感想で少し浮かれたのは内緒だ。
 先生はこの後ホワイトデーにしっかりクッキーをお返ししてきた。「君の口に合うといいけど」と簡素なメッセージを添えた、手作りらしい、少しいびつな形のクッキーである。まさかというべきかやはりというべきか、私が置いたことは気付かれていたのだな、と考えながら、先生からのお返しはゆっくり時間をかけて食べた。私の口には、少し甘すぎるくらいの、甘いクッキーであった。


 卒業式を控える頃になると、私たちはもうほとんど会話を交わさなくなっていた。メッセージカードに添えられた言葉が、ウィリアム先生からの餞別になるのかな、などと真面目に考えてしまうくらいには縁が薄くなっていて、だから卒業式終わりにすれ違いざま、手の中へメモを滑り込ませられた時には心底驚いたのである。
「落ち着いたら準備室に来て。大事な話があるから」と必要最低限の内容が綴られたメモに、どうしようかしらと悩んだのは一瞬だった。そもそも私が、ビリーの呼び出しをまともに拒めたためしなど一度もないのだ。最初のうちは喜んで、最近では不承不承ながらも彼の呼びつけに応じて音楽準備室に足を運んでいたのだから、卒業式終了直後の唐突な招待にだけ応じない、などという器用な真似ができるはずもなかった。それにきっと、今日が本当に最後なのだ。
 大事な話というのが果たしてどういった内容なのか――その予想ができないことだけが不安材料だったけれど。

 最後のホームルームを終えて、友人たちとひとしきり別れを惜しみあった後、私は――念のため――誰もいなくなってしまうまで教室に残って待っていた。少し日の傾いだ校舎内を、なるたけ人に見つからないよう、と言っても教師陣を除いてほとんどの生徒は帰宅していたけれど、とにかく人目に気を付けて、人の気配のない特別教室に向けて階段を上った。ぱたん、ぱたん、といやに大きく響く足音がどうにも落ち着かず、上履きは途中で脱いでしまった。

 随分遅くなったがまだ居るのだろうかと恐る恐る準備室の小窓を覗き込んでみると、先生は手持無沙汰だったのだろうか。どこから持ち込んだものやら電気ケトルにお湯を沸かして、コーヒーブレイクと洒落込んでいた。なんて自由な人なんだ、と半ばあきれつつ軽くノックして入室許可を待たずにドアを開くと、「あ、」と先生が小さく声をあげる。
「来てくれたんだ」良かった、と安堵した彼の表情は今もはっきり覚えている。この人も人並みに緊張したりするんだろうか、と私はその時になって初めて考えた。
 よく見てみれば、黒々としたコーヒーはカップになみなみ注がれたままになっている。一口飲んだか、飲んでいないかくらいだろうか。ウィリアム先生は確か、熱いコーヒーが好きだったはずだ。カップからは一筋の湯気も立っていない。冷め切ったコーヒーを前にして、ひとり来る確証もない人物を待つというのはどんな気持ちだったのだろう。私ならたぶん、途中であきらめて帰ってしまうかもしれないな、とすっかり平常通りの柔らかい顔に戻った彼を見ながら考えた。

 彼との、教師と生徒としての最後の会話は、「卒業おめでとう」というありきたりな挨拶と、「ありがとうございます」というありきたりな返事で始まった。「話って何ですか」短く質問した私に、先生は、うん、と浅く頷いて――これはたぶん癖なのかなと思う――「君は前に、僕を好きだって言ってくれたけど、」と切り出した。
「今になってその話掘り返しますか?」
「うん。苗字さんにはきつい話題かもしれないけど、どうしても聞いておきたくて」
 きついなんてものじゃないですよ、と当時の私には言えなかった。ことを荒立てるような事をしたくないというのもあったけれども、彼の質問内容を早く聞きたかったのが大きかった。
先生は少し言いにくそうに眉を寄せて、1、2回瞬きした後にまっすぐ此方を見つめて、
「苗字さんはもう、僕のことはどうも思ってないのかな、って。好きとか、嫌いとか、それ以外でも良いんだけどさ」
 酷なことを聞いている、変なことを聞いている、と彼自身が思っているらしいことが雰囲気で伝わった。ウィリアム・H・マッカーティJr.と言えば、いつもにこにこと笑顔を絶やさず、その真意の読みづらさにおいては校内でもトップクラスである。少なくとも緊張や不安みたいなものを表に出したことは、それまで一度もなかったはずだ。私の知る限りの話だから、ここ2年か3年、下手をすれば1年ぽっちの話ではあるけれど。

 彼がそんな風になるのなら、これはよほど大事な話なのだと私にも読めた。もとよりそれなりに高かった緊張がなおのこと酷くなって、スクールバックのハンドルを握る手にぎゅう、と力がこもった。
 指先が痛くなるほどこぶしを握りこんだまま、彼の問い掛けに
「私はまだ、……でもそれは、ウィリアム先生の方じゃないんですか。私のことはどうとも思ってないでしょ」
 語尾がわずかに震える。気付いてくれるなと祈りながら、気まずさに耐えかねてなるべく自然に顔を下に向けた。
 先生は浅く息を吐いて、「どうも思ってるよ」と先ほどのどこか不安そうな声色はどこへやら、堂々とした口ぶりで言葉を吐いた。
 思ってるって。
 それはどうせ、教え子だとかそういう意味合いなんでしょう、と言いかけた口をつぐんだ。その台詞は、この状況下ではナンセンスだ、と思う。今や愛読書に少女漫画や恋愛小説は少なくなって久しいし、恋愛の実体験も皆無に等しいが、それでも、それを口にするのは、可愛くない、と本能が警告していた。きゅっと黙って、彼の言葉の続きを待つ。ビリーが二人だけになった時、存外寡黙で静かだということはとっくに知っていたけれど、にしたって今日は口数が少なすぎるように思われる。……というよりも、言葉が出るまでの間が長いのだ。たぶん、言葉を探しているのだろうなと勝手に推測した。
 永遠にも感じられるほど長い沈黙の後に、ビリーが意を決したように口を開いた。
「ねえ、もし苗字さんがまだ僕を好きでいてくれるなら、僕の恋人になってくれたりはしない?」
「へ、」ひどく間の抜けた声を漏らす私に、ビリーは小さく自嘲するようにして「今更こんなの、ずるいかなって思うんだけど、」と一言前置きして、どうかな、と問いを重ねる。

 答えを出すのは今でないといけないのだろうか、……いや、たぶん、おそらく、きっと、今でないといけないのだ。答えが出ていない、訳ではない。私はまだウィリアム先生に対する愚かなまでの恋心というやつを捨てきれていなかったし、当然、想いを忘れるということもできていなかった。恋人になってほしい、と言われて――無理だというのが立場的には正しいのやもしれないが――NOと返す理由が存在しない。むしろYESと答えたい、けれど。
 人気者にはどこへ行っても噂が付きまとうものなのだろうか。彼にはちょうどバレンタインの前後辺りから「好きな相手がいる」という話が出回っていた。ソースはほかならぬビリー自身である。それを聞いた上で、YESと答える勇気は、正直に言って私にはない。
 彼が浮気な人であるなどとは思いたくないが、はっきり言って「二番目」も「都合のいい女」も私は御免だ。
 だからこそこれも可愛くないのを承知の上で、問いただした。
「……でも、先生には好きな人がいるんじゃないんですか」
「いるよ。でも何も問題ないんだ」
 先ほど言葉に詰まっていたのは何だったのかと疑わしくなるほどの即答だった。あまりにもばっさり言い切られて、何やら拍子抜けするような、彼は私をどんな扱いをしていい人間だと思っているのだろう、と怒りたいような感情が胸中に沸き起こる。
「問題ないって何が、私は二番目の恋人なんか絶対に――」
「まだわからない?その、好きな人ってのが苗字さんなんだから、何も問題ないだろ?」
 本気ですか、と疑う声が飛び出てしまったのも仕方のないことだ、と思う。だって、
「大事な教え子だから応えられないって言ったの、ウィリアム先生ですよね」
「そうだね、僕がそう言った。ちゃんと覚えてるよ」
「問題しかないと思いますけど」
「……どうかな。だって君はもう卒業しちゃったじゃないか。苗字さんはもうこの学校の学生じゃないし、僕も君の先生じゃないんだから、何の問題もないと思わない?」
 理にかなっているようでめちゃくちゃなことを言っている。こんなのは屁理屈だと冷静に受け止めながらも、彼の言葉を享受する自分の存在を否定することはできなかった。

「僕が君を好きだって信じられないっていうなら、今はそれでもいいけど、……ダメならダメだって言ってくれて構わないから」
 ふ、と視界が陰って、うつむいた視線の先に彼のつま先が映った。気付かないうちにすぐ目の前まで近付かれていたらしい。距離を取らねばと頭では分かっているというのに、足が床に張り付いたように動かなかった。
 拒絶してくれていいと言う彼の声は今まで聞いた中でもいっとう優しく、穏やかな音だった。本当に「無理です」と断っても、それを咎めはしないし、まして激昂したりすることもないだろうことが簡単に予想できるような、柔らかな声色である。
 縫いつけられたようにこの場から動けない私の、ほんの少し頭上から「苗字さん」と何だか縋るような呼び声が降ってきて。
 降参だ、と思った。
 大体にして初めから全くダメではないのだから、降参も勝利もあったものではないのだけれど、私はやはり情けなく震えた声で、
「だめじゃないです」
 と短く返答をした。
「本当に?」と先生が少し驚いたような声を発する。
「本当です。こんなところで嘘ついて何になるんですか」
 対する私の声は、先生のまろいそれと比べて随分と刺々しい。可愛くない、と顔を顰めた直後、それもそうかと苦笑する声が聞こえて、そっと手を握られて。
 急に一体何事なんだと顔をあげた瞬間、ちゅう、と可愛らしい音を立ててキスをされたのである。


 記念すべきファーストキスを終えた後、私はこの半年の彼の振る舞いが全部故意のものであったことも、私が告白してすぐに想いに気付いたのだということも聞かされた。
「振った後すぐにやっぱり好きだって言うのもどうかなって思ったんだ。それにほら、名前さんと僕は生徒と先生だからさ。卒業まで待ってみようかなって」
「……だったら大人しく待っててほしかったです」
「大人しく待ってる間に忘れてほしくなかったんだよ」
 ふにゃりと弱ったような笑みを浮かべて、彼は「ちょっと女々しいかな」とつぶやいた。女々しい、女々しくない、は私にはさして大きな問題ではないように思われる。動機がどうあれ、私はまんまと策中にはまってしまって卒業するまで片時も忘れられなかったのだから。
「女々しいっていうか、ずるいですね」
「僕は悪い大人なんだ」とビリーは私の手の甲をそっと撫でた。そうしてそのままやわく指先を握って、ぽつり、と問いかける。
「それとも、ずるいのは君のお気に召さなかったかい」





 何考えてるの?と隣から溶けたような声がした。
 するりと頬を撫でる指が少しくすぐったい。優しすぎるくらいの甘ったるい刺激に眉を寄せて、「ずるい人のことを考えてました」と素直に返してやる。
「昔の話ですけど」
「君が思うほど昔の話でもないよ」
「……それもそうかもしれないです、先生」
 と、ビリーが途端にすねたような顔をして「名前はいつまで僕を先生って呼ぶつもり?」と尋ねてくる。恋人になった後の彼は、時たまこうして分かりやすく不満を表明するようになった。小さな子供がぶすくれているようなあどけない表情ですねる彼は、どうしても私と同年代か少し年下くらいに見える。ちょっと可愛いかもしれない。
「ビリー、さん、……くん?慣れないんですよ、まだ」
「早く慣れて」
 何だか悪いことしてる気分になるから、とかすかに眉根を寄せた彼に可愛らしいキスを落とされながら、不思議なことを言うんだなぁと考えた。
「悪い大人だって言ったのはそっちじゃないですか」





title:ユリ柩
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