愛も心臓もまがい物
※夢主=娼婦
※軽度の性描写



 街を牛耳るマフィアの経営傘下に置かれているこの娼館の客には、やはりその手合いの者が多かった。彼らの中には娼婦をまるで人形か何かのようにして扱う者も少なくなく、初めて彼が店を訪れた時も、穏やかな風貌をしたこの男も、そういう乱暴な男の一人なのだろうかと疑り、買ってもらったことへの感謝を述べながら、果たして私はこの後どんな無体な扱いを受けるのだろうと恐れおののいていた。
 けれど彼は、私の想像していたような無体を一つも働かず、ことの始まる前に一杯の酒を頼み、「君も飲んでみなよ、美味しいから」と自らグラスに注いでそっとこちらへ寄越して、いい夜に、と軽くグラスをぶつけずに乾杯したあと、ともにシャワーを浴びて、軽い口づけから行為を始めた。彼は始終、優しかった。後ろ暗い闇を背負ったマフィアの男にも、こういう穏やかな──いわば、紳士的な──人間がいるものか、と驚いたまま、私は翌朝彼を見送ったのだ。
「君と過ごせてよかったよ。……またね」
 そう言って店を後にした彼は、以来、時折顔を見せるようになり、今ではすっかり上客になっていた。



 彼──ビリーは、月に二、三回ほど私を買いに店を訪れる。彼の指名が私でなかったことも今までに一度か二度ほどあったが、「やっぱり君といる時のほうが落ち着くよ」とそんな風に言って、最終的に私の固定客のような立ち位置に収まった。
 彼のオーダーは様々だった。ただセックスをするだけということは滅多になく、大抵は酒を一、二杯ほど頼み、シャワーも一緒に浴びようということもあれば、今日は別々にしようということもあり、時にはただ添い寝をするだけということさえあった。そんな時にも彼は一定以上の金銭をチップだと言って私に払ってくれた。
「こんなにもらえない」
 と、ある共寝しただけの朝、娼婦の務めを果たしていないのではと恐れをなして告げた私に、
「君が何を不安に思ってるのか、何となく分かるよ。……でも僕は君と過ごせるだけで充分楽しいんだ。貰っておいて。それであとは君が自由にしてくれ」
 とこう言って微笑んだのも記憶に新しい。抱かれてさえいないのにチップを貰ったなどということは、仲間にも店主にも相談しづらくて、私はその時貰ったぶんを黙って全部寄付に回してしまっていた。彼に聞かれてその話をしたら、ビリーは愉快そうに笑って「君らしいね」と特に咎めることもなく、また行為の手が荒れることもなく、いつもの通り、優しく私を抱きしめて柔らかくキスをして、それでその話はしまいになった。

 ……ビリーとの優しく甘やかな時間を過ごすうちに、自分がどうしようもなく彼に惹かれていることは分かっていた。無論これは、娼婦には不似合いな感情だ。客を──しかも裏社会の人間を恋い慕うなどと、そんな馬鹿げた話はない。私はそういう、惚れた腫れたという厄介な感情を利用する立場の人間なのだ。私のほうから客に愛を囁くなど、演技ではあり得ても本心からではあり得ない。むしろ向こうから本気の愛を囁かれるくらいの──あるいはこちらも演技だ──心づもりでなくてはいけない、そんな世界に身を置いているのではなかったか。それだというのに彼に恋心を向けてしまうだなんて。今更まともな恋をして許されるほど綺麗な身でもないのに。

 ここ数週間にわたって私を苛む煩悶は、どうやら彼にも伝わるほど大きく、そして隠せないものであったらしい、と久方ぶりに姿を現したビリーの「何か悩み事でもあるのかい」という問いかけで気付かされた。
「いいえ、何も……大したことじゃないんです」
「そう?なら深くは聞かないんだけど。……何だか少しやつれて見えたから」
 彼は言いながらいつものバーボンをグラスに注いで一口、二口と胃に流し込む。一見すると目立たない薄い喉の凹凸が上下に動いたのに、とくりと胸を鳴らしながら、そんなに分かりやすかっただろうかと問いかけると、
「僕にとっては」
 と端的な答えが返ってきた。
「……そう、ですか、……よく見てらっしゃるんですね、そんなに出てるなんて、思ってなかった」
 でもご心配には及びませんよ、と薄く笑う。「ありがとうございます」と微笑んでみせたが、果たしてうまく笑えていただろうか。
 ビリーは私の顔を見て曖昧に笑い、「そりゃあだって、大事な君のことだもの」とさらりと口にして、またバーボンを飲んだ。
「君にとって僕は客の一人にすぎないかもしれないけど、……僕は君を大切に思ってるんだ。愛してるって言ってもいいかもね」
 愛してる。
 その言葉に一つ浮かれた鼓動を心臓が刻んだ。馬鹿だな、と我ながら考える。チップスを食べながら放たれた言葉にさえ、容易く胸を高鳴らせてしまう自分を、ひどく愚かだと思った。
 彼はおそらく、割り切れない男ではない。これはこれ、それはそれ、ときっちり区別のつけられる人間だ。少なくとも、金で買える娼婦に対して本気で恋をしたり、真に愛を注いだりするようには思われなかった。だからたぶん、これは言葉のあやなのだ。愛しているというのも、大切にしているというのも、おそらく一介の娼婦として──気に入った店の、いわば、商品としてという意味であろう。それでもどうにか、嬉しく思っているということを口にすると、
「あんまり信じてないだろ」
 と軽い調子で笑みが返ってくる。
「でも、うん、それでいいんだ。そういう世界だもの、君のそれは正しいよ。少しだけ悲しいけど、……僕だって君を困らせるのは本意じゃないしね」
 聞き流してくれとチップスの皿をそっと寄越した彼に頷いて、私も料理を摘まむ。にわかに甘さを帯びた彼の瞳に戸惑いながら口にする肴の味は、よく分からなかった。
 彼はそのあとさらりと話題を変えて、何事もなかったかのように振る舞った。私も彼に合わせて、聞き流したふりをしながら彼の話に相槌を打ち、シャワーにしようと言って立ち上がった彼について部屋に備えられたガラス張りのシャワールームに入った。

 彼は珍しくシャワールームで私を抱いた。もくもくと立ち上る湯気の中、肌の上にボディーソープの泡を滑らせながら肌を重ねるのは、ビリーとは初めてだった。小さな部屋の中に嬌声が反響するのを恥ずかしがって声を堪えた私に、彼は幾度も可愛いと囁いて首筋にくちびるを押し付けたり、少し骨ばった細い指で腰をなぞったりしながら、私の身体をほぐしていき、今日は何だか、一度では足りないと言って、これもやはり珍しくベッドで二回も三回も情熱的に私を求めた。
 汗にしっとりと濡れた肌を寄せ合って倦怠感を分かち合いながら、彼とごく他愛もない話をする。そんな最中ですら、酒を飲みながらさらりと流れるように言われた彼の言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。
 愛しているというのは、どういうことだろう。──……いや、それは無論、娼婦としてだ、たまに買って夜を共にする相手として、愛している。それ以上でも、それ以下でもないような気がする。それがよもや、一端の女として──普通の、恋愛として、というような意味合いであるはずがない。以前の自分であればさらりと流してそれきり気にすることもないような言葉だった。それがただ、彼に言われたというだけでこのざまだ。私はきっと、娼婦としては半人前に違いない。

「気になる?さっきのこと」
「えッ、……あ、いえ、全然そんなことは」
「嘘。ずっと気にかかってるって顔だぜ、僕がいま話してたことも聞いてなかっただろ?」
「すみません、その、どういう意味だろうって考えてしまって。……なんて、そんな深く考えることでもないのかもですけど。ごめんなさい、ビリーさんのお話も聞かずに」
「いいよ、僕も変なこと言っちゃって悪かったなって思うし。ああいうのってたぶんタブーだろ、分かってて言った僕もいけなかったんだ」

 あなたは何も悪いことはしていないのだ、と言いかけた口をビリーが柔らかく塞ぐ。「僕も悪かったんだよ」と彼は繰り返してするりと指先で頬を撫ぜた。キスの前にされるのと同じ感触にまた小さく胸が鳴って、ビリーの顔をまじまじと見つめてしまう。彼は私の熱視線を受け止めて二、三、くちびるを落としたあと、こういうところで愛だの恋だのって言葉を言うべきではなかったのだとほんの少し悔しそうな、物悲しそうな色を瞳に浮かべ、ごめんね、ともう一度キスをした。
 彼はそのまま私の腰を抱き寄せて、シーツからはみ出たデコルテに額を預けながらそっと目を伏せた。最後、彼の青い目が心底切なげに歪んでいるのが一瞬だけ垣間見えた。愛とか恋とか、大切に思っているだとか、……そういうものは、いわゆる方便に過ぎなかったのではなかろうか。この世界では何もかもうつつの夢、まがい物に過ぎないのじゃなかったのかと疑い、驚いてしまうほど、心苦しげなまなこだった。




不夜城様に提出
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