すべて忘れてからおやすみ
現パロ
奇妙な夢にうなされるヒロインとビリーくん



 たまにおかしな夢を見ることがある。登場人物は様々だ。この世のものとは思えない異形の怪物や、設定だけがはっきりした得体の知れない人物――中には人物と言っていいのかわからないものもある――、善良を装った非善良な人間、可愛らしい動物。夢というのは何でもそうだけれど、私が見るものも例外なく脈絡のないストーリーを描くことが多い。私は大抵何かの拍子に、そういうある意味愉快な、奇特なキャラクターに襲われるストーリーを夢見ることが多々あった。私は彼らのような人々に前世かどこかで何か悪さをしたのだろうかと思ってしまうほど、私の見るおかしな夢というのは陰惨な結末が訪れると決まっていたのだ。夢の中でなら私は何度も死んでいる。



 今日もそういう夢を見た。命こそ狙われていないが、それでも獣に引っ掻かれて負傷している。無論夢は夢だ。現実世界の肉体には何の影響も及ぼしていないけれど、鋭い爪で手のひらを引っ掻かれた感触の生々しさは消えてくれない。
 隣で眠るビリーを見ると、彼は依然すぅすぅと穏やかな寝息を立てて寝入っていた。外から差し込む薄ぼんやりとした月明かりに見えるその寝顔は、元々幼さの残る彼の顔立ちをさらにあどけないものにしている。普段はあまり思わないけれど、こうして寝顔を見ると、ビリーは何だか天使のようだった。恋人が天使。ちょっと贔屓目に見過ぎなのかもしれないが、誰だってこの顔を見たら「ウィリアム・ヘンリー・マッカーティ・ジュニアは天使だ」と言うに決まっている。言わない人間は、まぁ、他に天使のあてがあるのだろう。
 寝ぼけた頭でそんなことを考えながら彼を起こさないよう慎重に布団を出る。頭が痛い。喉も渇いていた。水分補給のついでに、一応熱を測っておいた方がいいだろうと思ったのだ。ビリーは私が布団を出た拍子に一瞬身震いしたが、その瞼を押し上げることはしなかった。


 コップ一杯分の水を飲み、熱がないことを確認して寝室に戻るとビリーが上体を起こして眠たそうに目を瞬かせていた。寝ぼけ眼をこするビリーに「ごめん、起こしちゃった?」と尋ねると「ん、急に電気がついたから……」と掠れた声が返ってくる。

「ごめん」
「気にしないで。君がいなくなったならどのみち起きてたと思うし……熱があるの、名前?」
「そ、そう……?ううん一応測っただけだよ、37℃もなかった」
「じゃ、平熱?」
「うん」

 デジタル体温計の示した体温は36℃と少しだった。微熱とも呼べない、あくまでも平熱の域を出ない結果に、じゃあ何だってこんなに頭がずきずきと鈍く痛むのだろうと考えながらビリーの隣に腰を下ろして、下半身だけ布団の中に仕舞い込む。秋の夜は底冷えするような寒さがあった。
 ビリーは自然に私の肩を抱き寄せて、こめかみと頬にキスを贈ったあと、
「ね、また変な夢を見たのかい」
 と静かに問うた。私にはよくあることで特に隠すようなことでもないから、彼の質問には素直に頷いてそれを肯定する。「どんな夢だったか聞いてもいい?」そう尋ねた彼の声には、揶揄や嘲弄の色はなく、ただ自分の恋人を苛む奇妙な夢が一体どんなものだか心配で気になっているという表情が浮かんでいた。私はうんと頷いて、先程見たばかりの――それでいて半分以上失われつつある夢の内容について、訥々と語って聞かせた。

「たぶん、どこかの田舎とか、そうじゃなくても森の中だった気がする。CMに出てくるモデルルームみたいな感じって言えば伝わるかな、新築っぽい家で、私以外にも二、三人いた。私の実家のリビングって覚えてる?間取り自体はよく似てて、掃き出し窓がずらっと並んでたの」
「うん、何となく想像できた。あの窓から見た景色と似てる?」
「ちょっと似てたかも。でもずっと緑が鮮やかで、本当の森みたいだった。……ちょっと傾斜があった気がする、坂の上みたいな。私はなんか、外の写真を撮ってて、小鳥とかそういうのをレンズ越しに追ってた。ここまでは普通なんだけど、ふと気づいたら部屋の中に狐が入ってきてて」
「狐?」

 ビリーはくいと片眉だけ上げて不思議そうな表情を作った。「狐」と繰り返して肯定する。
 夢の中に出てきた狐はおそらく夏毛だったように思う。窓の外に広がる緑の青さからして、多分季節は夏だったろうから特に違和感を覚える点はない。白狐というほどでもないけれど白っぽい毛並みをしていて、その身体は細く引き締まっていた。いつの間にか侵入していた彼は、誰に止められるでもなく部屋の中をまっすぐに進み、私の方へやってきた。夢の中の私にとっては、間近で本物の狐を見られるチャンスだったらしい。窓の外の小鳥からカメラをずらして、白んだ毛並みの狐にレンズを向け、夢中でシャッターを切った。最初一眼レフだと思っていたカメラは、気づかぬうちにスマートフォンになっていた。

「可愛いっていうかちょっと凛々しい顔つきのカッコいい狐で、こっちに寄ってきたからつい触っちゃったんだけど、よく考えたら狐って触っちゃいけなかったよねって。でもやっぱりすごく寄ってくるし、むしろそっちの方から触れてくるというか……」

 だから離れるに離れられなくて、と話すと、ビリーは「狐に絆されちゃった?」とほんの少しだけ意地の悪い声を作って問うてきた。「絆されちゃった」正直に感想を答えると、彼はぽすんと自分の頭を私の肩に預けてぐりぐりと押し付けてくる。夢の中に出てきた狐に嫉妬しているのだろうか。やきもちを妬く必要なんてどこにもないのに、と何やら妙に拗ねた様子の彼のつむじにキスをして、「それでね、」と言葉を切る。

「しばらく撮ってたら大人しかった狐が急に攻撃してきて。触ったのがまずかったのかもって思うんだけど……こう、手のひらとか引っ掻かれちゃって、噛むまではいかなかったけど腕とか傷だらけになっちゃって」
「血が出るくらい?」「どうだったかな、……」
「ちょっと滲んでたかも。痛かったけど大したことじゃないってくらいだった。で、ひたすら引っ掻かれて、そこで終了。いつもの……っていうかたまに見る追いかけられる夢とかとは違って怖くはなかったんだけど、なんか変な夢だなって」

 ビリーは最後まで聞いて、私の手のひらにするりと手を這わせた。労わるような、慰めるような、優しい彼の手が絡む手のひらには、狐の爪に引っ掻かれた痕など一つも残っていない。結局あれが少し奇妙な夢というだけで、決して現実のものではないということの、まごうことなき証左だった。
「君が怖い思いをしなかったなら良かったけど……痛かったね」
 彼は私が夢の中で受けた負傷を心配してくれているようだった。ふわふわと癖のついた柔らかな金髪に頬を寄せて、痛かったけど何とか平気、と返す。

「ビリーくん優しいね」
「だって君だもの。名前はたまに怖い夢を見て眠れないって泣きそうになるじゃないか。心配もするさ」
「ありがと。……でもこれは怖い夢じゃないから、多分寝れるよ」
「本当?」
「本当。ビリーくんが撫でてくれたら一瞬だと思う」
「撫でてほしいだけだろ」
「嫌だった?」

 静かに尋ねると頬の下で彼が一つかぶりを振ってそれを否定した。「全然。――……」
「可愛いなって思っただけ」
 ぽそりと落とされた睦言にことんと心臓を震わせながら、「撫でてあげるから、寝転がって」とかすかに身じろいだ彼に言われるがまま、冬布団の下に潜り込む。「いい子」と、たったそれだけのことなのに彼は短く私を褒めて、もぞもぞと隣に寝そべった。布団をしっかり肩までかぶったビリーは、そのまま私を優しく抱き寄せてそっと額にくちびるを寄せ、ゆったりとした速度で後頭部から背中までを柔らかく撫でてくれる。
 緩やかな優しい手つきに、自分より少し高い彼の体温。とくん、とくん、とかすかに聞こえるビリーの心音がひどく落ち着いて、あっという間に瞼が重くなってくる。彼にベッドの中で撫でられると決まっていつもこうだった。うとうとと睡魔に身を任せて目を閉じた私に、ビリーが小さく、「本当に一瞬だ」と呟いて、もう一度だけ額に口づけた。それがおやすみのキスだと思う頃には、私はもうすっかり意識を手放していた。




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