天国みたいに甘い
 マスターとサーヴァント。そこから一歩も二歩も踏み込んだ関係になったばかりの恋人は、今までの少しそっけないぶっきらぼうな態度が嘘のように甘い顔を見せるようになった。柔和な光を宿す目にありありと情愛を滲ませて、その口元には優しげな思慕を、私に触れる指先は繊細ながらもじゃれつき甘えているような感情を覗かせる。それは無論、常ではない。平時の彼の態度は、これまでのそれと何ら変わりなかった。ちょっとつっけんどんに感じられるくらいのドライな反応と口元を少し緩めて目を細めるだけの笑い方。みんなといる時はそれよりずっと愛想が良くなって、笑顔ももっと朗らかになる。私はどっちのビリーも好きだったし、前者なんかは特に、心を許してもらえたのだと――自惚れにも――感じられて嬉しかった。だが二人きりになった時のビリーは、そのどちらとも違っている、ように思う。

「名前、」

 考え事?とビリーの端整な顔が視界いっぱいに広がったのに驚いて一瞬腰を引いてしまう。「そんなに驚かなくたって」とつんと唇を尖らせる彼に「ごめん、いきなりだったからつい」と謝りながら、なんだその可愛い顔は、と理不尽な憤り――陳腐な表現だが、ときめき付きの憤りである――を覚えた。
 彼はたまにこういう「わかりやすく可愛い顔」をするようになった。甘えたり拗ねたりいじけてみたり、悪戯をして謝ったりする時に、頬を膨らませたり唇を突き出したりして、「可愛いビリー・ザ・キッド」を演出するのだ。絆されてなるものかと気持ちをしっかり作っていても、そういう顔をされると、私はあっさり懐柔されて仕方ないなと甘やかしてしまう。ビリーもそれをわかっていて、今みたいにちょっと拗ねたふりをする。絆される。その繰り返しだった。恋というのは、先に惚れた方が負けなのだ。

「いいよ。……それで、何を考えてたの?僕が部屋に入ったのにも気づかなかったみたいだけど」
「ノックした?」
「したと思う?」
「……してないと思う。流石に気づけないよ。……そんな拗ねた顔しないで。ビリーくんのこと考えてて気づけなかったの」

 だから許して、と苦し紛れに口にすると、彼は私のすぐ隣に腰を下ろしながら「ふぅん」と意味ありげに相槌を打って、「それなら許そう」と短く続けた。
 ジャケットに包まれた彼の腕が、私の二の腕にぴったりとくっついている。誰も見咎めやしない、と先日丸め込まれたばかりだけれど、普段適度な距離を保っている彼が一分の隙間もなく寄り添っているというのはやはり少し心臓に悪い。「もうちょっとだけ離れて」と慣れない距離に移動を試みると「やだ」と単語ひとつで拒否されてしまった。逃げるなど許さないとでも言わんばかりに腰に回された腕にどくどくと心臓が高鳴る。少しうるさいくらいの鼓動は、きっとサーヴァントである彼の耳にも届いているのだろう。
「ちょっと近づいただけなのにそんなにドキドキしちゃうんだ」
 言いながら悪戯っぽく笑うビリーにそれを確信する。

「そ、それは、だってビリーくんが近いから」
「へぇ、僕が近いとマスターはこうなるの?」

 こくりと頷いて熱くなった頬を髪で隠す。うなじがじっとりと汗ばんで、全身が心臓になったかのようにどくどくと脈打っていた。ちょっと――否、だいぶ――彼との距離が狭まっただけでこんな風になってしまう。彼とはまだ手を繋ぐとか抱きしめ合うとかしかしていないけれど、こんな調子でキスなんてした日にはどうなってしまうのだろうと、これは私の密かな心配事であった。
 ビリーは私が馬鹿みたいに恥ずかしがって顔を赤らめているのを、蜜に浸したように蕩けた甘い瞳で見つめて、そして可愛らしい好奇心にそのブルーグレーをきらめかせながら、
「どうして?」
 と尋ねてきた。
 どうしてだなんて、聞かずともわかっているだろうにと彼を睨むと、「わからないから聞いてるのに」と苦笑が返ってきた。
「ね、教えて、名前」
 弱々しく潤んだ双眸にぐっと息を呑む。こちらの庇護欲とも言うべき感情を否応なしに刺激する甘えた表情は、私が最も敵わないと感じるそれだった。そうしてビリーもそれを承知尽くなのである。普段は決してそんな顔を見せないくせに、こういう時――二人きりで、近くに私の味方のいない時に限って縋るような顔をするなんていうのは、卑怯なのじゃなかろうか。
「そんな顔するなんてずるいよ」とごちると、「僕にずるいが通じると思うのかい?」と余裕綽々の微笑みが返ってきて。通じないと思う、と首を振って「どうしても言わなきゃだめなの」と呟くように言うのが精一杯だった。

「だめじゃないけど、そうやって言うと君は話してくれなさそうだから、だめ。言ってよ、マスター」
「本当にわからない?」
「わからない」

 でも予想は立ててる、とビリー。
「きっと予想通りだと思うけど……」
「それでも。合ってるとは限らないだろ?聞かせて名前。そうしたら離れるから」
 約束する、と打って変わって真摯な顔つきで口にした彼に小さく唸って「ビリーくんが」と切り出した。離れるという約束がどのくらい信じられるものなのか定かではなかったが、これほど真剣な眼差しで語られたものを信じないというのは、恋人としてもマスターとしてもどうなのだろう、と思う。けれどこれは私にとって事実五分五分の賭けであった。彼は私の言葉の続きを今か今かと瞳を輝かせながら待っている。
「僕が?」
 と至って穏やかな声音で続きを急かされて、
「す、……好き、だから、」
 我ながらどうかと思うほど小さく震えた声だった。ビリーは聞こえなかったからもう一回言ってほしいと眉尻を下げてそっと口元に耳を寄せてくる。先程よりもさらに縮まった距離に、どっと心臓が大きく跳ねた。

「……ビリーくんが好きだからに決まってるじゃん。好きな人が近かったら、ドキドキするでしょ……?」
「うーん、なるほどね。それには同意だな」
「予想通りだったんじゃない?」
「うん、正解だった。でもさ、ちょっと近いくらいでこんなになってたら、――」

 なぁに、と言いかけた言葉は声になることなく霧散した。私の返事を封じ込めた彼の、柔らかく跳ねたクリームブロンドと伏せられた長い睫毛とが視界を占領している。そっと優しく唇に触れるそれは、どう思考を巡らせても彼の唇と思しい。
 キスされている、と気づくのと、ちう、と可愛らしい音を立てて彼が離れるのとはほとんど同時だった。
「キスされたら、どうなっちゃうんだろうね、マスター」




title:ユリ柩
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