はしっこで触れるだけなら許してくれるかい
夢主=マスター



 最初はちょっと指先を握るだけだったのに、どうしてこんなことになっているのだろう、と頭上で両の目を爛々とさせる少年の顔をした男を見て考えた。


「ちょっとだけ触れてもいい?」
 始まりはビリーのそんな言葉だった。「嫌ならそう言ってくれて構わないんだけど」と言うその顔が、何やらひどく寂しそうで、切なげに歪められていて、今までに見たことのない表情に、私はつい絆されて「いいよ」と返してしまったのだ。ビリーは謝礼を述べた後、まずは私の指先をそっと掬い取って軽く握った。何の下心も感じない触れ方。そればかりか、ただただ彼の寂寥が伝わってくるような――まるで縋り付くようなその手に、ことんと心が揺らいでしまって。
「寂しいの、ビリーくん」
 ついそんな風に尋ねてしまった私に、彼はきょとんとした顔を向けて、そうしてややあった後に一際弱々しく微笑んで、「そうかも」なんて頷いたのだ。彼が寂しがりをするだなんて少し意外だった。当時の私には、ビリーは一人でいてもちっとも気にしない、少なくとも寂しいと強くは感じないタイプに見えていた。彼が単独行動をしている場面はよく見かけていたから、彼は案外、誰かがそばにいないと落ち着かないということはない人なのだと思っていたのだ。しかし一人と独りというのは違う、と彼は言って、「独りだって思う時の方がずっと孤独なんだ」と小さくつぶやいていた。その二つが似て非なるものであることを、私はビリーに手を握られながら初めて知ったのである。

 ビリーの寂しがりとぬくもりへの欲求は、回数を重ねるごとにじわじわとエスカレートしていった。最初は指先、次は手、その次は肩だった。ビリーは私の肩に自分の頭を預けて、しばらくこのままでも構わないかと許可を申請し、私が「大丈夫」だと返すと、やはり「ありがと」と言ってそのまま十秒か数十秒の間目を閉じていた。

「ビリーくん、意外と寂しがりなんだね」
「うん。……たまにどうしても人恋しくなる時があるんだ。一人の夜とかね。僕は独りぼっちなんだって急に寂しくなる。眠れないくらいひどい時もあったんだよ」
「昔も?」
「もちろん。なかなか簡単には変わらないよ」
「昔はどうしてたの、そういう時」
「聞きたいの?」
「ビリーくんが良ければ」

 ビリーはそう言った私にからからと笑って「今とおんなじさ」といくらか軽い調子で返答した。今とおんなじ。つまり誰か、女の子のところに行っていたということであろう。
ふぅん、と返した相槌に「妬いたの?」と彼が軽口を叩く。妬いてないよと即座に返しながら、肩にもたれる彼の頭を優しく撫ぜた。いかにも柔らかそうな金髪は、想像と寸分違わぬ滑らかさと柔さで以って私の指を受け入れてくれる。ふわふわした髪を緩くすいてやる私に、彼はするりと頬擦りをして、「なんだ、残念」とさして思ってもいなさそうな素振りで口にした。

「……僕が寂しいって女の子のところに行くと、みんな優しく出迎えてくれたんだ。好きなだけいていいよ、ってね」
「モテモテじゃん」
「まあ、それなりにはね。でもだからって孤独が薄れる訳じゃなかったけど」

 結局これは僕の問題なんだ。
 ビリーは言って私の手を取り、何を言うでもなく指先に口をつけた。しっとりとした唇が爪の先に触れて、最初に彼が部屋を訪ねてきた時とは違う揺らぎが心に生まれる。そわそわと騒めくような胸の鼓動に、いやいやと彼に気付かれぬよう首を横に振って、寂しがり屋の彼の孤独が少しでも薄まればいいと願いながら、
「ねえ、キスしてもいい?」
 と問うた彼にこくんと頷いていた。
 彼とキスするのはそれが初めてだった。彼は私の存在を確かめるようにして頬や鼻先に優しく唇を落とした後、ゆっくりと私の口を啄んで、穏やかなキスをした。舌先の一ミリさえ触れることのない、軽く可愛らしいキスに驚く私の顔を、ビリーはきらきらと光を散りばめた瞳で真っ直ぐ見つめて「何か期待してた?」と悪戯っぽく笑った。
「もうしない」
 と言うと、
「そんな寂しいこと言わないで」
 ともう二、三回可愛いキスをお見舞いされてしまった。

 ビリーは私とキスをするようになってから少しだけ大胆に触れるようになった。もちろん手を握るだけだったり、ちょっと肩を借りるだけだったりすることもあったけれど、それ以上に私を抱きしめてみたり、あるいはそのまま眠ってしまって一晩共にしたりすることが増えたのである。ある夜ビリーは、私を腕の中に閉じ込めたまま横になって、肩まで布団を被った後、
「不思議なんだけど、」
 とおもむろに切り出した。
「君といると寂しさが薄らぐ気がする。居心地が良くてあったかくて、すごく落ち着くんだ」
 すり、とビリーの頬が私の髪に寄せられる。彼はほんの少しだけ私を抱きしめる力を強くして、ほとんど息だけで呟く。

「最近はそんなに寂しくならない。君のおかげだよ」
「ほんとに?……でもビリーくんの寂しさが少しでも軽くなってるなら、良かった。私も嬉しいよ」
「……ありがと。ね、もうちょっとだけそばに寄ってもいいかい?」

 もちろん、と答えると同時にビリーがそうっと二人の間の距離を詰めてぎゅぅ、と私を抱きしめた。私も彼の背中に腕を回してそうっと抱き寄せる。薄手のTシャツ越しに感じるビリーの身体は、一見して感じる華奢さの割にずっとしっかりしていて、そして私よりも少し熱かった。



 指先に始まり、やがて添い寝に至った、寂しがりを埋めるための関係はこんな終幕を用意していたのか、と私をベッドに縫いとめるビリーの顔をまじまじと見つめてしまう。
「ビリーくん、……」
 こんなことはやめよう、離して、急にどうしたの、――色々な言葉が脳裏を過り、瞬く間に駆け抜けていく。そのどれもが口に出されることなく思考の彼方へ掻き消え、次いでじんわりと嵩を増す羞恥が脳を染め、それとは裏腹な期待に似た何かが、心中にゆるりと腰を下ろした。期待するって何を、と咄嗟に理性が問いかけるも、彼に押し倒されることを良しとした本能がそれに答える気配はない。
「マスターってすごく優しいよね」
 私に跨ったままのビリーがぽつりと口にした。
「僕が寂しいって言ったら、触れるのを許してくれた。僕みたいな男相手にそんなことOKしちゃいけないのに」
 だってそれは、本当に寂しそうだったからだ。私がNOを返したらそのままどこかへ消えてしまいそうなほど、あの日のビリーは儚げで、どこか悲壮な空気を纏っていた。否応なしに同情を誘われる、何とかしなければと思わせられる、そんな雰囲気だった。だから、いいよ、と言ったのだ。私の中に、彼を恋するような気持ち――要するに下心とかだ――が、少しもなかったと言うと、それは少し嘘になってしまうかもしれないけれど。
 身動きを封じられた私に、彼はいつもの通り優しくキスを贈って、「初めは本当に寂しかっただけなんだよ」とまるで自分に言い聞かせるような音で囁いた。

「でも君があんまり優しいから、だんだん欲が出て、抱きしめたりキスするようになった。……マスターは気付いてなかったみたいだけど、僕は君とキスがしたいから、してもいいかいって聞いたんだよ」

 寂しかったからじゃない、とはっきり言い切られて、数度目を瞬かせてしまった。寂しさなら肩を借りるくらいで充分薄れている、それから先のことは全部自分がしたいからしただけなのだとビリーは言って、「どういう意味だか分かる?」と私の頬をそっと撫でた。
 彼の言葉の意味が分かるような、けれど分かりたくないような気分だった。ここで分かると答えてしまったら、何か超えてはいけない一線――あるいは壁――を超えてしまうような予感があった。もしかするとそんなものは、最初にキスをした時やそのずっと以前に超えてしまっていて、今はすっかり無くなっているのかもしれないけれど、それでも大事な境目の線だ。
 私がビリーと、マスターとサーヴァントの関係であるためには重要なラインが確かにある。少なくとも、あるはずだった。
 分からないと言ったら離してくれるだろうか。どういう意味なのか分からないと言えば許してはもらえないだろうか。そんな考えのままに首を横へ振った私に、ビリーは一際甘く微笑んで、分からないなんていうのは嘘だと言う。

「僕は君を好きになったんだよ。……嘘をつくなんていけないマスターだね」

 ビリーの言葉は、私に大きな驚愕とともに降りかかってきた。恋人に向けるような甘く蕩けた灰青の双眸に、うまい言葉が出てこなくなる。YESと答えるのもNOと答えるのも少し違う。かと言って冗談にしようとするには無理があった。
 彼の指がそうっと顎を掬って、軽く持ち上げる。
「ねえ、キスしてもいい?」
 私はYESともNOとも口にしなかった。ただ微かに頷いて、薄く開いた彼の口が自分のそれを柔らかく覆うのを、茫然としたまま受け入れていた。




title:icca
→afterward
top