甘露を汲む
 今年のバレンタインは特別だから、もう一個あるの。
 マスターはそう言って頬を赤く染め、後ろ手に持っていた小さな紙袋を僕に差し出した。サーヴァントになって以降鋭さを増した嗅覚が、その紙袋の中から甘いチョコレート菓子の香りを探り当てる。「もう一個?」とそれを受け取ると、彼女は緊張した面持ちでこくりと頷き、「こっちはあんまり日持ちしないと思うから、早めに食べてね」とささやかな注意を添えた。手にした紙袋は軽く、中を覗き込んでみるとラッピングされた小さな箱が入っている。先ほど渡されたクッキーの包装と比べても明らかに華やかで豪奢な飾り付けだった。

「それはね、ビリーくんにしか用意してないやつなの」
「僕だけ?」
「そう」

 すごく特別なチョコだよ、と彼女は少し拗ねたように呟く。彼女はよほど恥ずかしいのだろう、僕に対する特別なチョコだと言いながら、僕のことを視界に入れようとはしていない様子だった。うつむきがちになって視線を逸らす彼女に、「ありがとう」と囁いて、そっと箱を取り出す。手のひらに収まるくらいの小さな箱からは、芳しいカカオの香りがふわりと立ち上って、僕の食欲を否応なしに掻き立てていた。

「ね、今開けてもいい?」
「……ん」
「ありがと、マスター。……――わ、すごい」

 不器用な彼女が何十分も格闘して作り上げたのであろう美しい包装をといて、そっと蓋を開けると、中には六粒の一口大のチョコレートが綺麗に収まっていた。立派な店のチョコレートよろしく、丁寧な説明書も入っていることに驚きつつ、全部君が作ったのと尋ねると、マスターはこくこくと素直に頷いて、
「ブーディカさんとか、メディアさんとかと一緒に」
と答えを返した。
「ちゃんと味見したから食べられるものにはなってるはず。お口に合えばいいけど」
 そう早口で付け足した彼女に小さく笑って「嬉しいよ」と説明書に目を落とす。トリュフにジャンドゥーヤ、チョコレートボンボン、プラリネと丁寧な手書きの文字列からは、この六粒がどれも違った種類のチョコレートであることが容易に察せられた。僕にはチョコレート菓子の詳しい知識はないから、それを見てパッとどんなものなのか想像することは出来なかったけれど――その点は少し彼女に申し訳ない――、それでも彼女が、僕にだけ特別に用意したというこのチョコに並々ならぬ情熱を注いでくれたことだけははっきりと分かった。ほんの少しだけ不安そうな表情を覗かせるマスターに「すごく嬉しいよ」と正直な感想を口にすると、彼女の顔がわずかに綻んで「ありがと」と小さな言葉が返ってきた。

「ちょっとだけ食べてもいいかい?」
「もちろん。……目の前で食べられるのって緊張するけど」

 普段は私のいないところで食べるから、と言う彼女に、かすかに笑って「だって特別なチョコだもの」と返し、図説の「プラリネ」に該当する半球型のチョコを摘まんで口に放り込む。とても特別なチョコだから早く食べたいし、できればすぐに感想を言いたい。例年は彼女のクッキーやフィナンシェを、夜営の時や小腹のすいた時、ソロキャンプをする時なんかに少しずつ大事に食べて、ゆっくり感想を言うのが定番だった。けれど、「ビリーくんにだけ」ともじもじしながら言われて、あとでゆっくり食べてゆっくり感想を言おうという気にはどうしてもなれなかった。
 口の中に放り込んだプラリネは、瞬く間に舌の上でとろけて柔らかくなり、内側から甘酸っぱいソースを溢れさせた。確かこのソースにも、もっと別な正しい名称があったはずだが、菓子作りの素養など持ち合わせていない僕にはさっぱり思い当たらなかった。
「ブルーベリー?」
 まろやかな甘みと酸味を併せ持つその味にぽつりと呟くと、マスターはぱっと顔を明るくして「正解!」と小さく叫んだ。

「美味しそうなのがあったからフィリングにして入れてみたんだよ」
「うん、美味い。けど大変じゃなかった?」
「やった!大変じゃなかったって言ったら嘘になるけど、それはまあ、ビリーくんのための特別なチョコだし」

 気にすることじゃないよ、と言い切られて「そっか」と大人しく頷くほかなかった。ほかのチョコも頑張って作ったのだと朗らかに言う彼女に、再度礼を述べて「大切に食べるよ」と口にすると、マスターはほんの少しだけひねたような顔をして、「早めに食べてってば」と言葉を返した。
「大切に早めに食べる。……ね、マスター」
「なあに、ビリーくん」
 きょとんとした顔で――それでもやはり頬は赤いままだったけれど――僕を見上げる彼女に、軽く口づけを贈って、ぽそりと呟くように囁いた。
「お返し、楽しみにしててね」




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