辞書にのらないふわふわのこと
ビリぐだ前提
失恋したい人向け



 出涸らしのロマンチシズムみたいな恋だな、と思う。ほかの誰がなんと言おうと、私にとって私の恋は煮凝りの詰め合わせのような、ほとんど色のない紅茶のような、味気ない、苦々しい恋だった。

 私の恋の相手について、簡単に書き記しておこうと思う。名前はビリー・ザ・キッド。西部劇のヒーロー、早撃ちの名手、あのビリー・ザ・キッドで合っている。彼は英霊の影とも言えるサーヴァントのうちの一人で、私にとっては仕事上のパートナーの一人だ。と言っても、契約しているのは私ではなく藤丸立香という少女で、彼がマスターと呼んで慕うのも、パートナー――あるいは相棒と思うのも、彼女ただ一人だと私は考えている。本人からそう聞いた訳ではないけれど、私のさして鋭くもない勘がそう告げている。彼は、藤丸立香その人以外をパートナーに選び取ることはない。あの二人が、単なるマスターとサーヴァントの関係には留まらない、特別な縁を結んでいることはカルデア周知の事実だ。
 私は初めてそれに気付いた時、誰を憎めばいいのか分からなくなって娯楽室に設置されたバーラウンジに駆け込み、ショットのバーボンを二杯ほど引っ掛けた。誰も悪くないのだということは、分かっていた。我らが希望の立香は、当然悪くない。どちらが最初に想いを告げてそういうことになったのかは不明だが、彼女を選んだビリー・ザ・キッドも全く悪くない。強いて言うのならば、公私混同するのはどうとか、彼はサーヴァントだからどうのとか、そういうことを気にして何も行動することのなかった私が悪いのだ。せめて告白してきちんと振られておけば、バーラウンジに駆け込むこともなかったかもしれない、と思う。
 バーボンは辛かった。かっと喉が焼けて、腹の奥から発酵したトウモロコシの風味がぐわんと込み上げて、私は激しく咳き込んだ。西部劇では、皆容易くバーボンやテキーラをショットで飲み干しているのに、私にはそれができない。私の好きな彼は、きっと簡単にやってのけるだろう。そうして「君にはまだ早いんじゃないかな」と炭酸水やサイダーで割ったハイボールを差し出してくるのだ。これは昔一度やったことがあるから分かる。

 恋というのは、カクテルみたいなものだと思っていた、と空になったショットグラスを眺めながら考えた。甘くてきらきらしていて、軽やかな酩酊を与えてくれる。少し正気を失って馬鹿になるような酒。それが世に聞く恋なのだとばかり思っていた。それがどうだろう。確かに彼を恋するのは楽しかった。一挙手一投足にとくりと胸が震えたし、少し優しくされただけで嘘のように心が舞い上がった。それでも失恋したと分かった瞬間、柔らかく甘ったるい思い出が毒になって押し寄せ、身体の内側からじくじくと突き刺してくる。楽しくない、と口の端から垂れた唾液を乱暴に拭った時のことだった。

「やけ酒かい?」

 後ろから柔らかく掠れた、ボーイソプラノが聞こえてくる。振り向くまでもなかった。これはビリーの声だ。私は半分涙をこぼしていた目元を拭って、彼の方を努めてゆっくりと振り返り、「まあ、」と曖昧に頷いた。無意識に彼の隣に誰か――例えば立香とか――いないかと窺ったが、彼は一人でラウンジに来ているようだった。当然と言えば当然である。立香はまだ成人を迎えていないのだから。

「またショットで飲んだの?君には早いってば」
「今日はそういう気分だったの」
「ふぅん。でも何か嫌なことがあったんだろ。前は仕事でミスしたって言ってたっけ。今回は?」

 そんな前のことなど、私はもう覚えていなかった。私は何となく良いなと思って気になっていた彼から声をかけられたことに舞い上がっていて、その時自分が何を言ったか、どんなことを語っていたかなど忘れてしまっていたのだ。それを彼はまだ覚えている、らしい。思えばビリーは、たった数回顔を合わせただけの私の名前もしっかり覚えてくれていた。そういうところが好きだ、と心音が微かに高鳴り、その不毛な反応にずっしりと気分が沈む。出来れば今は会いたくなかった、と思いながら「知りたいの?」と尋ねると、彼は少し悩んで、「話すと楽になるって言うだろ」と微かな笑みを浮かべた。
「僕でよければ聞くよ」
 勿論嫌なら話さなくて良いけど、と笑いながら彼は自然に私の隣の椅子に腰を下ろし、オンザロックを頼んで頬杖をついた。柔和なブルーグレーの瞳――深く冴え渡る理知を覗かせる双眸が、ダウンライトの暖かな光にきらめいて私を見つめていた。大切な恋人がいるのに、そんな顔で他の女を見つめていいのだろうかと疑ってしまうほど甘やかな表情だった。
「もう座ってるじゃない」
「まあね。……それで?何があったのさ」
 無理には聞かない、と言ったのに聞く気満々じゃないかと言いたくなったのをぐっと堪えて、空になったショットグラスを指先で弄ぶ。かたん、ことん、と軽い音を立てて底面がテーブルにぶつかる度、脳内に浮かび上がった天秤が、「話す」「話さない」と交互に振れた。
 何が悲しくて失恋した相手に「失恋しました」と言わなければならないのだろう、と思いながら、しかし気付くと「失恋した」と彼に告げていた。おそらく乱暴に飲んだアルコールが頭に回って、まともな思考判断が出来なくなっていたのだろう、と今なら分かる。彼は私の言葉に目を丸くして、ばつが悪そうな顔をしながら「ごめん」と謝った。まるで彼に告白して振られたような気分になって、心がちくりと痛む。

「気にしないでいいよ。私もあんまり……気にしないようにするから」
「……でも好きだったんだろ」
「うん」
「今も?」

 今も、と頷いてちらりと彼を見やる。彼はロックグラスに浮かぶ丸い氷を指先で弄んで、わずかばかり気まずそうにしながら「どんな奴だったか聞いてもいい?」と言葉を発した。まさか自分がその相手だとは思ってもいないのだろうな、とそんな考えが脳裏を過り、話せばあるいは気付いてくれるのだろうか、と仄暗い期待が胸中に降って湧いた。気付いてもらったとして、どうするつもりだったのだろう、と思うけれど、私はとにかく口を開いて「優しい人」と一言告げた。
 誰とでもうまく付き合っていける、穏やかで、少し悪戯っぽい人だ、時たますっと凛々しくなるのが堪らなくずるい人なのだと言うと、彼はまた「ふぅん」と相槌を打って、「素敵な人だね」と口にする。素敵な人も何も、貴方のことなのだと言いたくなって、けれどその言葉が何も生まないことに気付いて、ぐっと口を噤み、代わりにこくりと頷いた。

「そいつは惜しいことをしたね。君みたいな子に想われてたのに」
「褒めてる?」
「褒めてるさ。君は可愛くて素敵な女の子だよ」
「……ありがと」

 ビリーだったらどうする、と言いかけて慌てて言葉を飲み込んだ。どうするも何も、彼には別な恋人がいる。私に想われていたとしたら、というたとえ話はあまりにも不毛だった。
 彼の言葉は柔らかなヴェールのようでありながら、鋭利な刃物としても私の心に作用した。可愛らしいと思われていたことが嬉しいようで、そんな風に思っていたのに違う人を選んだじゃないかと責めたくなってしまうような、ちりちりとした怒り。彼への恋慕が、憎しみに転ずることはないようだけれど、それでも、今となっては彼の言葉を手放しでは喜べなかった。
彼はしばらくの間、からんころんと氷をいじりながら沈黙を守っていた。私も何か下手なことを言ってしまうのが恐ろしくて、空のグラスを指先で弾いて黙していた。最初に沈黙を破ったのはビリーの方で、彼は恐る恐るといった風に口を開き、「今はそいつが一番かもしれないけどさ、」
「君ならきっと、もっと素敵な男を見つけて、幸せになれるんじゃないかな」
「……そうだと良いけど」
「きっとそうだよ」
 貴方のことを話しているのだ、とは、最後まで言えなかった。
 私は今でも、出涸らしのような恋を続けている。




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