火花を纏って生まれた恋の話
現パロ
花吐き病/独白/ビリーくんが出てこない



 一目惚れだった。私は彼の名前や連絡先はおろか、声さえ知らないけれど、一目見た瞬間「この人だ」と直感した。動物的な勘、あるいは本能に根差した勘とでも表せば的確だろうか、柔らかな金髪を揺らして歩くその人とすれ違った瞬間に、この人が運命に違いないと感じたのだ。それでありながら、私は声をかけることができなかった。私はこの恋が人生で初めての恋だ、人並みに遊ぶということもせず、ひたすら貞淑を守って――というよりも守らざるを得なかった――今日この日まで生きてきた。自分から見ず知らずの異性に声をかけて連絡先を聞くだとか、今から遊びに行かないかと口説をするだとか、そんな経験は一度もなかったのだ。私は雷に打たれるような衝撃の後、数歩足を進めて立ち止まり、そして恐る恐る振り返った。話しかける度胸もないのに、――今考えると、あれは一種の賭けであったのかもしれない、と思う。もしまだ姿が目に入るなら話しかける、そうでなければ話しかけない、という賭けだ。そして私は、その賭けに大敗した。つい先刻すれ違ったばかりのその人は、私が振り返った時には雑踏の中に紛れて姿を消していたのである。

 たとえばあの時、すれ違った瞬間にでも呼び止めていれば、また違った今日があっただろうか、と床に吐き散らされた花弁を睥睨して思う。
 床の上にぼたりと落ちたアンスリウムの赤い花をじっと見下ろしながら、喉の奥に何かがつっかえたような違和感にそっと指先を喉元へ持っていく。げほげほと数度咳き込んで身を屈めるとシロツメクサがもつれ合いながら飛び出してきた。喉につっかえた異物の正体はこれか、と恐る恐る手に取ると、それは唾液でしっとりと濡れ、薄暗い部屋の窓から差し込む光に照らされて鈍く輝いている。口内に漂う鉄の香りに花を注視してみると、白い花弁にはわずかに赤いものが混じっていた。深く考えるまでもない、粘膜が傷ついて出血したのだろう。

 お世辞にもいい気分とは言えなかった。何しろ私は嘔吐している。まき散らされる吐瀉物は崩れかけた食べ物でも酸っぱい胃液でもなく、美しくあでやかな花々だけれども、身体を折り、喉を傷めながら激しく咳き込んで吐いているという状況には変わりない。口の端からこぼれる花びらに眉を顰めながら、花吐き病、とあまりにも直截的な俗称を脳裏に浮かべた。
 積もり積もった恋慕の情が形となって口から溢れ出てくるというこの病は、何でも好きな相手と結ばれることで完治するらしい。特効薬だの、効果的な治療法だのはまだ見つかっていないとインターネットには書かれていた。初めて花を吐いた時にかかった医者にも、まだ薬は見つかっていないのだと申し訳なさそうに話されたのをよく覚えている。片想いをこじらせるとかかる病。そんな風に話には聞いていたが、まさか自分がかかるとは微塵も思っていなかった。というのも、私が片想いをこじらせているという自覚がなかったからだ。自分で思っていたよりもずっと面倒な女だったのだな、と思いを寄せる彼の薄い顔立ちを脳裏に描いて、再び軽く咳き込む。
 胃の奥から酸っぱいものが込み上げてくる。ごぽりと吐いたミモザの花に、その花言葉を思い出して小さく嘆息した。「秘密の恋」。例えば誰かに話していたら花吐き病にかかるほどこじらせはしなかったのだろうか。何となく、通りすがりの人に一目惚れをしたとは言い出せなくて、友人たちには黙っていたのだけれど。

「だって言えなかったんだもん」

 一瞬すれ違っただけの人に恋をしてしまったことも、結局声もかけられずにそのまま終わってしまったことも、日に日に想いが増していくことも、とてもとても言えなかったのだ。
 思い出したように吐き出されたチューリップをぐしゃりと握り潰して繰り返したその言葉は、誰の耳に届くこともなく、芳香で淀んだ部屋の空気に霧消していった。




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