欲は天使の顔をしている
 「本当にダメなの?」そう言って私の顔を覗き込む彼は、普段と何も変わらない、可愛らしい、いじらしい顔をしていた。何をされても憎めないと思わせられてしまうような愛嬌のある顔つき、希望に溢れてきらめく無邪気な青い目。それは普段と変わらないはずなのに、どこか成熟した大人の色香を放っている。
「ダメだよ」
 そう言って彼の細い肩を押し戻すと、彼はわかりやすく不満げにくちびるを曲げて「どうして」と拗ねたような声を漏らした。
「どうしてって」
 理由は色々ある。まずここが職場であること――住居スペースもあるが基本的には職場だ――、次に私は彼よりも三つほど年上であること、私と彼の関係性が恋人ではなく仕事上のパートナーであること。少なくとも、肌を重ねて互いの熱をやりとりするような関係ではないはずだ。私をからかって遊んでいるのだろうか、とも思ったが、その可能性は最初に放たれた「冗談なんかじゃないよ」という言葉で封殺されている。

「私たちは付き合ってないし……」
「そうだっけ?」
「そうだよ」

 私は彼に好きだと言った覚えはないし、彼も私に想いを告げるような言葉を言ったことはない。「君のことは相棒だと思ってるよ」と言われたことはあるけれど、恋人だと思っているとは言われた覚えがなかった。
「んー……あ、そうか。君の国では告白なんて文化があるんだったね」
忘れてた。好きだよ、マスター。
 取ってつけたようなその言葉に、ちり、とこめかみのあたりが熱くなる。「冗談言わないでよ」と放った声は、自分でも驚くほど冷たく温度のないものだった。ビリーは私の台詞を聞いて少し悲しそうな顔をしたのちに、「冗談なんかじゃないよ。ちゃんと好きだってば」とやはり拗ねたような声で告げた。

「嘘。こんな状況で言われても信じられない。セックスしたいからそう言ってるだけじゃないの?」
「心外だな、本当に好きなのに」

 そう言ってビリーは私の頬にくちびるを寄せ、軽く口付けてから「触ってみる?」と私の手を自分の胸元に導いた。シャツと革のベスト越しに、彼の心臓が大きく脈打っているのがまざまざと伝わってくる。それが興奮によるものなのか、恋愛的な緊張によるものなのか――定かではないにも関わらず、こんなふうにどきどきしているのなら嘘ではないのかも、と思ってしまう自分が少し憎かった。

「ね、笑っちゃうくらいどきどきしてるだろ」
「そうだね。……演技にしては上等だね」
「演技でこんなことできるほど芸達者じゃないよ」
「……でも私は、」

 好きじゃない、と言いかけて声が喉に絡んだ。糸が絡まったように硬く凝固した言葉を、どうにか口から吐き出すと、彼は一瞬呆然として「君は僕を好きだと思ってた」と小さくこぼす。
「自信過剰だよ」
 自分に自信があるのはいいことだけれど。私も彼のそういうところを買っていたのだけれど、好きだと思っていただなんてそれはやりすぎだと言うと、ビリーは「だって」と口を開く。

「僕が近づくといつも可愛く笑ってたし、ちょっと頬も赤くなってたし。いつもにこにこしながら迎えてくれるから、気があるのかなって思ってたんだ」
「赤くなってない」
「なってるよ。今もちょっと赤いしね。……でも、そっか、勘違いだったなら謝るよ」

 「どいてはくれないの?」と言いつつ思わず頬に手を当てる。赤くなっている、と言われたけれど、どうだろうか、少し熱いような気もするけれどはっきりとはわからなかった。ビリーがこんなくだらない嘘をつくような人だとは思いたくないけれど、と見上げた先で、彼は嫣然と微笑み、「それはちょっと無理な頼みだなあ」などと口にしている。

「私は仕事相手とするほど馬鹿じゃないよ、ビリー。他に誰か探しなよ」
「え、それは嫌だよ。僕だって誰でもいいってわけじゃない。さっきも言っただろ?君が好きなんだよ。仕事相手とはしたくないって言うなら、僕のことは恋人だと思ってほしいな。もちろん無理にとは言わないけど」
「でも拒否権はないんでしょ」
「そんなゲスじゃないんだけど……」

 そう言いながら頬や額に口付けを繰り返すビリーの真意は一向に読めなかった。少なくとも拒否権があるようには思われないが、くちびるに触れようとしないのは彼なりの配慮だろうか。壁際に追い詰めて迫っておきながら、今更何を配慮することがあるのかと思わなくもないけれど。
「ね、どうしてもしたくない?」
 ふ、と耳朶に熱い吐息がかかる。甘く掠れたウィスパーボイスが鼓膜から脳髄に至り、じんわりと思考を麻痺させていくのが分かって、私は思わず身体から力を抜いてしまった。背筋を這い上がるのは悪寒ではなく興奮だ。私は彼に迫られて喜んでいるのだろうか――口先では拒むようなことを言っておきながら。
「……マスター?」
 する、と頬を撫でられて小さく鼓動が跳ねた気配があった。ちょっと好きだと言われただけで喜ぶような安い女ではないと思っていたのに、と自らの変化に愕然とする私を差し置いて、ビリーは「君が決めて」と選択を迫ってくる。蕩けるような欲が滲む双眸はそれでも真摯的で、どうも彼の言うことに嘘偽りはない……そんな気配だった。
「君が本気で嫌だって言うなら辞める。だから僕とどうなりたいか君が決めて、マスター」
 どこまでもはっきりとした意思の滲む言葉だった。私がそれに何と答えたのか、――それは言うべくもない。




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