透過好感
 ずっしり甘いムスクの中に、ぴりりと効いたスパイスとずっと昔にどこかで嗅いだことのあるような懐かしい香りが潜んでいた。
 香りものはあまり好きではない。特に重厚で、喉の奥に絡みつくような甘さのあるものや、鼻腔にこびりつく花の芳香を模したものはどうしても好きにはなれない。全く嫌な匂いではないものの、その甘ったるい感じがどうにも苦手で倦厭してしまう。

 ビリーから漂う芳香は、――こう言っては何だけれど――まさにそういう種類のものだった。濃厚で絡むような深い甘さがあって、そこに時折硝煙や砂埃、それに煙草の香りがほのかに混ざる。煙草の臭いだって本当は苦手なのだけれど、どうしてか彼のものは赦すことができて。
 それどころか、「いい匂いだ」とさえ思う。
 あまり強く振っていないのだろうか、――ほんの少し都会的で、私には馴染みの薄い「大人びた甘さ」をはらんだ彼の香水の香は、本当に「いい匂い」なのだ。純然たる蘭麝。それが自分でも不思議なほど心地よかった。



「変態みたいだ」と思われることを覚悟の上で、ビリーくんはいい匂いがするね、と話したことがある。彼は私の言葉を耳にした後、少しの間わずかにその目を瞠って、やがて
「ありがとう、でいいのかな。……もしかして強かった?」
 と不安そうな表情を浮かべた。
 私が香りもの――というより、強いにおいのするもの――を好きでないことを誰かからか聞いていたのかもしれない。あるいは、私が何気なくぽろりとこぼしていたか。
 どちらにせよ彼は、これが純粋な褒め言葉であるのか、はたまたアイロニーの一種であるのか少々判断しかねているようであった。そこで私は、すぐさま首を横へ振って「いいえ」を示す。

「強くないよ、平気。本当にいい匂いだなって……」
「そう?ならよかった」
 君を不快にさせてたんじゃないなら、とそんなことを小さくこぼしたビリーに、慌てて「不快なんかじゃ!」と否定する。
「むしろその、落ち着くというか」
 彼の隣、といっても特別近いわけではないのだけれども、ひとつ隣の席なんかに座っていると、彼からふわふわと暖かな香りが漂ってきて、不思議と心が凪いでリラックスしてしまう。――それこそ、柔らかな睡魔に誘われるくらいには。
 私のせりふにビリーはまた目を瞠り、そして小さく、しかし深くため息をついた。

 ……「あなたの匂いはとても落ち着きます」というのは、やはり些かの問題があっただろうか。
 流石に気分を害してしまっただろうか、気持ち悪い、とそんな風に思われてしまっただろうか。変態みたいだと思われても致し方ない、覚悟の上だ、などとと言っておきながら、じわりと色を濃くしたマイナス思考に心を蝕まれていく。

 今からでも訂正すべきか、と眉を寄せた矢先、ビリーがぽつりと、
「……マスターってたまに凄いこと言うよね」
 と小さく溢した。
「そうかな」「そうだよ」
「今のなんか聴いてるこっちが恥ずかしいくらいだ」
 間髪入れない肯定に続けて、ぽそぽそと言葉を紡ぐ彼の頬はうっすら紅潮して見えた。きゅ、とハットのつばを指先で押し下げて、――これはもしや照れている、のだろうか。
「え、それはその、ご……ごめんなさい……?」
 滅多に見られない赤い顔に、私の声色まで硬くなる。
 ここまではっきり「恥ずかしい」と言われて、そればかりか薄く頬を染められてしまうと、何やら本当にとても恥ずかしいことを言ってしまったように思われてくる。否、きっと実際「とても恥ずかしいことを言った」のに違いない。

 だって、冷静になって考えてみれば、「落ち着く匂いだ」なんて、それはまるで――。

 はたと気付いた途端に首の後ろが熱を持って、彼の顔をまともに見られなくなった。
 なんて小っ恥ずかしいことを口にしてしまったのか。心のうちに押し留めておくべきだった、こんないくらでも深読みし放題、ともすれば誤解を招きかねない発言をするだなんて。正直、下手な告白よりずっと恥ずかしい。
 羞恥のあまりつい俯いた私の頭上から、不意に普段よりいくらかぶっきらぼうな声が飛んできた。

「いいよ、謝らないでも。……ただ、」
 ――他の奴には、あんまり言わない方がいいと思うけど。

「え、」小さく叫んだ私が何か言い出すより早く「忘れて」と短い言葉が放たれた。いつも通り、柔らかく暖かな声色でありながら、しかし有無を言わせない強い語調にこくこくと何度か頷く。ちら、と一瞬目に入ったビリーの頬は先ほどよりずっと赤く熟れていた。




title:ユリ柩
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