見知らぬ彼方へ逃避行
※君はポラリス様に提出



 僕もマスターも酔っていた。
 アルコールに染められて赤くなった頬を、ぴったり机の天板にくっつけて、「冷たくて気持ちいい」と目を伏せる彼女の表情には、うっすらと疲労が滲んでいる。くたりと体を弛緩させるマスターに、寝るなら部屋に行きなよ、と声をかけると、
「ビリーが運んでくれるなら」
 なんて言葉が返ってきて。
「冗談だろ?」
「……あー、うん、冗談、ビリーじゃ運べないね、……」
「なんだよ、君ひとりくらい運べるよ」
 でもそんな風に言うなら運んでやらない。
 ふい、と彼女から視線をそらした僕に、マスターはいくらか慌てた様子で「ごめんなさい」と謝罪を口にした。
「もう言わないから」
「本当に?」「本当に」
 ぱちぱちと瞬きをして、マスターは少しうなる。
「神に、……うぅん、星に?何に誓うのがいいかな」
「マスターの場合、神様でいいんじゃないの」
「でも神様って結構わがままで気まぐれだし、」
 誓いも聞き届けてくれないかも。
 そうぼやく彼女の眼は、どこか遠くを見つめている。君の誓いなら、ここにいる『神様』はきっと聞き届けてくれると思うけれど、と脳裏に何人か思い浮かべつつロックグラスを呷った。



 結局、わがままで気まぐれな神様に誓って、マスターは夢とうつつとを彷徨いながらちびちびと酒を飲み進めていった。ただでさえ真っ赤になっていた顔がいよいよ林檎のようになって、頬どころか首まで紅潮している。
「いい加減やめた方がいいんじゃない?」
「やだ。飲む」
「明日つらいのはマスターだと思うんだけどなあ」
「……何にも言い返せない」
 ぐらぐらと据わらない首を頬杖で支える彼女に、それとなく水を飲ませる。ありがとう、と普段より溶けた口ぶりで呟き、大人しくグラスを傾けるマスターを何とはなしにぼんやり眺めた。
 薄く隈の浮かんだ目元や、初めて会った頃と比べて丸みを失った頬には、彼女がこの数年でその身に受けた重責と、それに伴う疲弊が垣間見える。
「私は丈夫だから」とか何とか。
 下手くそなマスターの作り笑いにスタッフもほかのサーヴァントも気付かぬ筈はないのに、休養することを彼女自身が良しとせず、「自分は平気」と頑として譲らないままここまで来てしまった。粘り強さとか、意志の強さとか、頑固さとかいうものは、この長く果てない旅路の中では大いに利点となる彼女の長所だとは思うけれど、何もそんなところにまで我慢をしなくたっていいのに。
「マスターは馬鹿だなあ」
 と、知れずそんな言葉が口から零れ落ちた。
「ばっ!?ちょっと傷つ――」
「ねえ、いっそ逃げちゃおうか」
 薄く笑って持ち掛けると、彼女はぽかんと口を開いたまましばらく僕の顔を見つめていた。そして「にげちゃおうか?」と僕の台詞を繰り返す。どうやら酒の回った頭を必死に動かして、言葉の意図を探っているらしい。

「そ。ここから、僕とマスターと、二人だけで遠くまで行っちゃうんだ。誰も僕らを知らないところでのんびりしたり、ほら、何だっけ、君が前に行きたがってた場所、」
「えぇ、どこだっけ」
「君が忘れてちゃ意味がないなあ。……ま、今はそれでもいいや、そのうち思い出すかもしれないし……そういうところを訪ねたりだとかさ。誰にも止められずに、好きに過ごすんだよ」

 それで、僕と一緒にいるのが嫌になったら、そこで別れたらいい。
 僕は君の意思を尊重する、それをとがめたり根に持ったりはしない、と小さく付け加えるとマスターは、うん、うん、と浅く頷いた。
「……でもビリーって意外と根に持つじゃん」
「それは昔の話だよ。大体あの本も作り話かもしれないぜ?」
「あ、それもそうか」
 じゃあ根に持たないのか、と納得した様子で彼女はそうっと目を伏せた。案外真剣に検討してくれるらしい。そのくらい疲れ果てているのか、酔いが回っているのか。はたまたその両方か。……両方かな、と邪推した。
 まだ半分以上残ったハイボールをからんころんとマドラーで混ぜて、彼女は「うーん」とまた小さなうなり声をあげた。
「嫌かい?」
 僕の問いに、マスターがちら、と視線を彷徨わせる。いかにも気まずそうな、周囲をうかがうようなその素振りに「僕ら以外誰もいないから大丈夫だよ」と軽く告げた。
 ほかの誰かに聞かれでもしたらまずい、とそういう考えがあるのだろう。実際、それはあっている。そこへ気を回せるくらいには、まだ理性が残っているようだった。と、いってもなけなしだろうけれど。
 僕の言葉に彼女は安堵の表情を浮かべて、ぽつりと、
「ビリーと逃げるなら、それもいいのかもね」
「持ち掛けておいて何だけど、ちょっと驚いてるよ」
「私も驚いてる。……嫌じゃないんだってびっくり」
 ビリーは速いからきっとみんな追いつけないね、と弱々しく笑みをこぼすマスターに、きゅ、と何やら息苦しくなった。
「あ、でもアキレウスとかアタランテが追いかけてきたら厳しい?」
「うーん……流石にね。でも君が言うなら何とかやってみるよ」
「頼もしいね」と、マスターはとうにぬるくなっているであろうウイスキーを飲み下した。途端に苦虫を噛み潰したような顔になった彼女に、無理に飲むことないのに、ともう何度抱いたか分からない感想を抱く。

 ぎゅう、と眉間に深く刻まれたしわをぐりぐりと指先で広げながら、彼女は「うん、ビリーとなら楽しい逃避行になりそう」と囁くような声で呟いた。やけに真に迫った声音に、これはいつ声をかけられてもいいように準備をしておいた方がいいのかな、などと考えた瞬間、「でも、」とマスターが続ける。
「でも、今はいいかな、何だかんだ楽しめるだけのゆとりもあるし」
「そう?」
「たぶん。ありがとう、……ごめんね、気使わせちゃって」
 そこは「ありがとう」だけで良いんだよ、と静かに笑うと、「……うん、ありがと」とマスターも静かに笑い返してくれる。先ほど同様、その微笑みはまだ弱々しく、どこか儚い。けれど、澱のような疲弊に濁っていた瞳は、いくらか光を取り戻している。
 こんな夢物語みたいな話でも、彼女には多少なりとも救いになったのだろうか――……などと考えた頭に、「ねぇ、」とマスターの声が滑り込んできて。
「……あの、でもやっぱり、ちょっとの間だけ肩借りてもいい?」
 本当にちょっとだけだから。嫌なら大丈夫なんだけど。
「そんなに遠慮しなくたっていいのに。肩くらいいくらでも貸すよ」
 おいでと少し腕を広げてやると、マスターはどことなく気恥ずかしそうな表情でお礼を言いながら、大人しく僕にもたれかかってくる。
 とん、と小さな衝撃とともにぶつかった彼女の体は、見た目のそれよりもずっと軽かった。
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