ワンダー・
サテライト・ランド
 ダンスパーティーが催される、というから、私もドレスを着て精一杯お化粧をして粧し込んではみたけれど、と手に持ったグラスの中に視線を落とした。ホールの中で自由に舞う招待客のステップは軽やかだ。優雅で美しいワルツの音色にその体を乗せて、慣れた足取りで舞い踊り、くるくると美しいターンを見せている。その光景はとても楽しげで華やかで。見ているだけでも十分楽しめるもの、ではあるのだけれど、社交ダンスのいろはも分からない私がここにいるのはやはり場違いに思われた。

 作法だのステップだのは一応調べてはみたのだ。けれどもどうしても難しくて、そういえば社交ダンスというのは二人で踊るものなのだから、実践するには誰か相手が必要なのだと気づいたときには、パーティーは2日後に迫っていた。
 どうにか相手を見つけて詰め込んではみたものの、ああして華麗に踊っている姿を見ると何やら気後れしてしまって。結局、葡萄酒の入ったグラスを手にして、壁際のソファに腰を落ち着けることとあいなったのである。葡萄酒だって得意な方でもないのに、と呆れるような、悲しいような、少し沈んだ気持ちで深い赤紫の液体を覗き込んでいると不意に、「やぁ」と声がかかる。

「君は踊らないのかい?」

 声の主……――ビリーは言いながらこてんと小首を傾げた。
「うん、……その、お恥ずかしながらダンスの経験がなくって」
 ふぅん、と小さな相槌を打って、彼は私の隣に腰を下ろした。「とっても綺麗なのに、壁の花なんてもったいないなぁ」だなんて歯の浮くようなセリフをさらりと言ってのける彼の姿は、いつものそれとはだいぶ異なっていた。
 普段身につけているカウボーイハットもマフラーもない。黒いワイシャツに少し光沢のあるベストを着て、レザーパンツは緩いシルエットを描くパンツ――ダンス用だろうか――に切り替わっていた。頬にかかる柔らかい前髪も、今日は耳の後ろへかかっている。グローブに包まれているはずの両手が、明るいライトの下に曝け出されているのが何やら妙に刺激的だった。
「ビリーこそ踊らないの……?」
 というよりも、そもそもダンスもできたのかと内心驚きである。ピアノを弾けるのは知っていたけれど。踊りもできるとは――そして、こんな場所に出てくるとは。何となくあまり大々的なパーティーや催し物には顔を出さない印象があったのだけれど。
「うーん、ペアの相手がなかなか見つからなくてね」
 ふぅん、と今度は私が相槌を打つ番だった。「ちょっと意外」口を突いたのは率直な感想だった。
「すごくかっこいいのに」
 今の彼が声をかけたら、普通の女の子はみんな一緒に踊りたがるんじゃなかろうか。断られてしまったのか、それともそもそも声をかけていないのかは不明だけれど、彼と踊らないのはもったいない、ような気がした。そんな考えがぽろりと口からこぼれたのを、ビリーは少し驚いたような表情で聞き届けて「それってさ」と少し悪戯っぽくブルーグレーを煌めかせた。

「僕が誘ったら、君は一緒に踊ってくれるんだ、って思ってもいいの?」
「……あ、」
「ねえマスター?」

 それは、まあ――今の自分の発言を省みると――そういうことになる、かもしれない。
 こんな風に正装した彼に誘われて、一曲も踊らないなんてちょっとナンセンス。もったいない。そう思っているのは割に本気だ。……であれば、たとえば彼が私に「僕と一曲どうかな」と手を差し出したとして、それを取らないのは、やっぱりナンセンスな選択であろう。
「それはその、嬉しいけど、……」
 もごもごと尻すぼみになり、やがて口籠った私を見て、ビリーは朗らかな笑みを浮かべたかと思うと、つっと立ち上がり私の手を取った。
 一瞬の出来事。あまりにも自然なその動作につい反応が遅れてしまった私をそっと立たせて、
「僕と踊ってよ、マスター。……せっかくのパーティーなんだから、一曲くらい踊っておかなくちゃ、君も僕も『もったいない』だろ?」
 私が「あの」とか「それは」とか口籠って返答にまごつく間にも、彼は軽い足取りでダンスの輪の方へ足を進めていく。手に持っていたグラスも気を抜いた隙にさらりと奪われて、通りすがりのボーイが手にしたシルバートレイにとんと置かれて、あっという間に遠ざかっていってしまった。

 はた、と気付いた時にはゆるりゆるりと回転しながら、楽しそうに体を揺らす人々の渦の中に足を踏み入れていた。彼の手を振り払うことなど出来ないまま、こんな場所へやってきてしまったけれど、と知れず体が強張った。そわそわと視線を彷徨わせる私の耳に、マスター、と呼び声が降ってくる。そっと潜められた囁きに、にわかにざわめいた心臓には気付かないフリをして彼の顔に目をやった。
「そんなに固くならないで、……深呼吸して、力抜いて」
 する、と優しく私の背に手を回しながら、ビリーはごくごく柔らかな声でそう口にした。
 ――深呼吸。深呼吸ね。
 OKと浅く頷き、二、三、深く息をしてみると完全にクリアとまではいかないものの、いくらか混乱の靄が晴れたように感じられる。思考が僅かながらも澄んだ隙に、必死に詰め込んだワルツの所作の記憶を辿り、そうっと彼の腕に自らの手を添えた。それをひとつの合図としてだろうか、ビリーが小さく笑って右手を柔らかく握り込む。私と同じくらいの大きさの彼の手は、しなやかでありながら、それでもわずかに骨張っていて、少し硬い手のひらをしていて。温かくわずかにかさついた彼の手のひらについ、あぁ男の子なんだなあ、などと間抜けなことを考えてしまった。
 体格はそれほど変わらないのにと、彼に知られれば顔を顰められてしまいそうな思考に、先ほど落ち着かせたはずの緊張感――先のものとは全く別だけれど――がたちまち舞い戻ってきて再びぴしりと肩が強張った。そうしてその強張りに、ビリーが気付かぬはずもないのである。ビリーは私にしか聞こえないくらいの音量でくすくすと鈴のような笑い声を漏らした後、「マスターって案外あがり症なんだ」と初めて知ったことを喜ぶような声音で囁いた。
 いつもはこんな風に体が硬くなったり、挙動不審になるほど緊張したりはしないのだけど、とやはり少し視線を彷徨わせた私に彼は「……きっと大丈夫だよ」と柔らかな調子で言葉を紡ぎ、きゅっと手を握り直す。そして普段通りまろやかで、けれど芯のあるハスキーボイスを耳元に落とし込んだ。
「僕に任せて」
 彼の足が緩やかなステップを踏み始め、私も覚束ない足取りでビリーについていく。
 私たちの『ダンスパーティー』はそこでようやく始まったばかりだった。




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