彼は、ある日突然私の住む村にやってきた。インド半島の外れにある私の村は、昔気質の人が多くて、最初はよそ者である彼——ビリーを嫌煙していたのだけれど、彼は持ち前の愛嬌と巧みな話術で、気づくと村の人々の輪の中心にいた。
 私の母はそんな彼を気味悪がり、「あんたは絶対あの人に近づくんじゃないよ」と言っていたけれども、私は生憎好奇心の盛りを迎えていて、初めて見る村の外の人間に強い興味を抱いていたので、ある夜母の言いつけにそむいてビリーがいるとよく聞く酒場に行った。
 ビリーは酒場のカウンターでビールを飲んでいた。こっちの酒も美味いね、と笑う彼は、なんだかとても輝いて見える。こうして近くで見ると、彼には少年然とした、年齢不詳の魅惑があった。十六、七の同い年くらいに見える彼は、村の噂では二十一とも聞く。酒を飲んでいるということは、二十一から二十五の間だろうか。そう思うと、この少年のような男にも妙な近寄り難さがあって、私は出入り口で突っ立ったまま固まっていた。店主が「名前じゃないか。こんなところへ来ちゃならん」と慌てて私を追い出そうとするのを——私はまだ十八で、酒は飲めないことになっていた——、ビリーは「まあまあ」といなして「ここだと怒られちゃうみたいだから、外に行こうか」と酒場の裏へ向かった。

「君は、初めまして、だよね。一応名乗っておいた方がいいかな?」
 月が照らす夜に、彼の顔はよく映えていた。もしかしたら昼間より夜の方が自然体なのかもしれないなと思いながら、首を振ってそれを否定する。
「村の人が色々話してるのを聞いてるから、大丈夫。ビリーさんて言うんだよね」
「さん付けなんてよしてくれよ。ビリーでいいよ」
「じゃあ、ビリー。……えぇっと、私は……」
「名前。さっき酒場のオーナーが話してたね」
「そう、名前……」
 彼の英語は、イギリス英語ではなかった。北米大陸訛りの英語になんとか食らいつきながら、私は、今日はあなたの話が聞きたくて会いに来た、あまり長くはいられないけれどあなたが旅して来た世界の話を聞かせてほしい、と言った。するとビリーはふっと微笑んで、いいよと頷いた。

「まず、そうだな、僕の故郷の話をしようか。もしかしたら訛りで気づいてるかもしれないけど、僕はアメリカ出身でね、あそこはいい国だけど、僕はちょっと退屈していたんだ」
「退屈?」
「そう。もちろん、遊びがないって訳じゃないよ。なんて言うかな、遊ぶものや見るものが多すぎて飽和してるっていうか……とにかく国内のものに飽き飽きしてたんだ」

 それで、僕は国外に出ることに決めた。
 そう話すビリーに、国の外へ出るのは怖くなかったかと問うと、彼は「いや、」とかぶりを振った。
「あまり怖いみたいな気持ちはなかったかも。それよりわくわくする気持ちの方が強かったよ」
「それは……凄いね。私はこの村の外を知らないから、どうしても少し怖くて」
「そうなの? 夜に僕を訪ねて酒屋にやってくるくらいアクティブなのに」
「それとこれとは別、確かに親の言いつけにそむいて出て来たけど……」
「親の言いつけに? 結構ワルだね、君」
 だってどうしても気になったから、と言うと、ビリーは何か言いたげにはにかんで、そして、そうだな、と切り出した。
「君はさっき、僕が旅した世界のことを知りたいって言ったよね。いいよ、君が怖くないと思えるまで話してあげる」
「本当? ありがとう、ビリー」
「もちろん。でもその代わりに、君もこの村のことを僕に聞かせて」
 やっぱりみんな、どこかに壁を作ってるみたいなんだ。
 とこう言ってビリーはため息をついた。「まあ、こういう経験も少なくはないんだけどね」と言う彼に、私はこくりと頷いて「わかった」と答える。村の大人がここに留まることを許すくらいなのだから、きっと彼はいい人なのだろう。大人たちも、村のことを話すくらいは許してくれるはずだった。
 ビリーは私の返答ににっこりと笑って——それはひどく可愛らしい笑みだった——、じゃあ話を戻そうか、と故郷の話を続けてくれた。この村より遥かに文明の発達した国の話は、私には面白かったが、彼にとってはやはり退屈な国の話でしかないようで、こんな話で良かっただろうか、君が楽しんでくれてるといいんだけど、と困ったように笑っていた。私はそれに笑って頷いて「面白いよ」と言う。

「知らないことを知れるのは、楽しいから」
「それは僕も同意だな。……ねえ、君が大丈夫ならまた会わない? もちろん、君のご家族に内緒だから、やっぱりあまり長くは一緒にいられないと思うんだけど」
「……! それはもちろん……! もっとビリーの話、聞かせて!」
「オーケィ、その代わり君もここのことを教えるんだぜ」
「それはわかってる。ちゃんと教えるよ」
「そういうことなら、うん、また会おう」

 次はいつが都合がいいかな、とあれよあれよと言う間に次の逢瀬が決まり、私はビリーに家の近くまで送り届けられながら村のことをぽつぽつと話した。私は彼ほど話が得意ではないので、それこそ楽しんでもらえているのか不安だったが、彼がやんわりとした声音で「続けて、名前」と言うので、何となく彼も楽しんでくれているらしいことを察した。



 私たちはそれから数日に分けて何度か逢瀬を重ねた。逢瀬、という言い方はなんだか誤解を招くような気がしてあまりしたくないのだけれど、逢引と言うとさらに誤解を招くようで、私は結局、彼と夜中にこっそり会うことを「逢瀬」と呼ぶことにしていた。
 ビリーは私に色々な話をしてくれた。携帯の中に入っている写真を見せながら、これはどういう場所でどう感じたとか、ここは現地の人にとっては神聖な場所だけど、一種観光名所のようにもなっているとか、そんなことをたくさん話してくれた。そのお礼と言ってはなんだけれど、私も約束通り色々なことを話した。村の行事やしきたりのこと、土着信仰のこと。今も伝統や格式に囚われる大人は多くて、それが少し窮屈だと話すと「案外、外の世界にもそういう大人は多いよ。僕もちょっと窮屈だなって思う」と彼は優しく微笑んだ。そういう大人たちのことを愛しているような、慈しむようなそんな表情だった。
 私はなんだか、会えば会うほど彼が魅力的で好青年であるように思われた。それである日、私はとうとう「ビリーはいい人だと思う」と話してしまった。

「いい人?」
「うん。優しいし、話も上手いし、私の『他の世界が知りたい』ってわがままを叶えてくれて、いつも家まで送ってくれる。この辺は結構物騒な地域だから、本当はレイプとかの事件も多いの。女なんて性欲処理の道具としか思ってない男もいるみたい」
「それは……ひどい話だね」
「私もそう思う。でも、ビリーからはそういう……危害を加えよう、みたいな感じが全然しないし、むしろ家まで送ってくれて、守ってもらえてるみたいに思っちゃう。だから、多分、いい人なのかなって思う」

 そう言うと、ビリーはかすかに微笑んだ。今にも消え入りそうな微笑が夜空の下に照らされて、私の前に浮き出ている。何やら悲しげで、今にも泣いてしまいそうなその顔に、私は何か悪いことを言ってしまったのだろうか、と内心まごついていると、彼は一変してけろりと笑って、そして妙に真剣な表情で、
「どうかな。僕も案外悪いやつかもしれないよ」
と言った。
「悪い人なの?」
「そういう可能性もあるってことさ。だって、僕が腹の底では君を取って食おうとしてるかもしれないだろ?」
「……そうなの?」
「……ま、これは冗談だけどね。悪趣味なジョークさ」
 大丈夫、手は出さないから、と彼は両手を上げる。
 私はなんだか、彼の「悪趣味なジョーク」より、明確に手は出さないと否定されたことが妙に悲しかった。その言葉は、彼がまともで良識的な人間であることの証左に他ならないのだから、むしろ喜ぶべきことであるはずなのに、だ。どうして悲しいのか分からないまま、私はうんと頷いて「やっぱりいい人だと思う」とそう返した。
 彼はそれきり黙ってしまって、私も何となく声をかけづらくて、その日はそれで終いになったのだが、翌日の朝、起きるとビリーが村にいなかったので驚いてしまった。ビリーと特に親しんでいた酒場の店主に声をかけると、「朝早くに出立した」という。
「な、なんで……私、さよならも言ってない」
「おう。けどビリーから手紙を預かってる。お前宛にだとよ」
 恋文かもな、と茶化す彼に「そんなんじゃない」と言いながら、一旦家に戻って自室でこっそりと封を開けた。

 手紙には、突然出立することになって申し訳ないこと、この村はなんだかんだで居心地が良かったので長居しすぎてしまったこと、本当は私と出会った翌日には出立しようと思っていたことなどが書かれていた。それに続けて、「君と話すのが楽しかったから、ついつい長居しちゃったんだ」と記されていて、私はそれならどうしてきちんと別れの挨拶をさせてくれなかったのか、とにわかに悲しくなった。手紙は、お互い生きていて、縁があればまた会おうという言葉で締め括られていた。私は二枚の便箋を抱きしめながら、しばらく泣いた。今になって思えば、あれは私の初恋だったのだろうと思う。あの後彼を探すため、という目的で村を出ようとしたが、それは大人たちに阻止されてしまった。彼は今もなお、姿を現してはいない。




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