09



「名前、名前…、」

「ん…」


眩しくて抱きしめている物体に顔を埋める。

まだ眠っていたいのに。
眠りは肩を掴んで体を揺さぶられているのにも関わらず、未だ覚めたくないと言っているようで体が動かない。



「名前、」

「んん…フラウ、あと5分だけ…」


まだ寝ぼけている頭では『起きなければ』とシグナルを出しているのに、香りというか何というか。
とても居心地がいいのだ。

まるで教会にある私の部屋のベッドのよう。
自分のものと思ってしまうほどには心地よく、これならばいつまででも眠っていられるような気がする。
最近宛がわれた部屋にはまだ慣れておらず、余計にそう思ってしまった。

そう、最近宛がわれた……
宛がわれた??


瞳を閉じたまま内心首を傾げると、抱きしめられたのと同時にふわりとヒュウガの香りが濃く香って、私ははた、と瞳を開いた。

目の前には彼の胸板。
私はその胸板に顔を埋めていて、しかもあろうことか抱き枕よろしく抱きついている。
あまりの衝撃的な出来事に顔を上げきれず眼前に広がっている胸板を呆然と見つめてしまっていると、上から声が降って来た。


「んー幼なじみとはいえベッドの上で別の男の名前呟くなんて良い度胸だねぇ♪」


極めて明るい声色だった。
だが、それが余計に恐怖を煽る。


「ヒュ、ヒュウガ…えっと、それはちょっと色々ありまして…。それよりこの状況は一体…」


ヒュウガの胸板とか、彼のベッドで一緒に眠っていたこととか、寝顔を見られたとか、恥ずかしさのあまり叫びたい衝動に駆られたけれどヒュウガの冷たく楽しげな声色が眠気と共に理性を呼び戻してくれたので息を飲むだけに留めておく。


「言っておくけど、先に抱きしめてきたのは名前だからね。」



自分は悪くないといった顔でヒュウガが言う。
そうしてやっと今の状況を思い出した。

あぁ、そうか。
自分は今ブラックホークや他の軍人さんたちとの遠征中だった。

あまりにも居心地が良く、のほほんとしてしまっていたせいか脳が動かなかったのだ。

コナツくんの代わりにヒュウガを起こしに来たけれど、小さな悪戯心のせいで結局のところミイラ取りがミイラになってしまった。


未だヒュウガの顔を見上げられない状態で今何時だろうと推測する。
1時間?いや、意外と15分30分しか寝ていなかったりして。

時計を探すためにも、ヒュウガの顔を恐る恐る見上げる。
とりあえず時計とかの前に抱きしめられている腕をどうにかしてもらわなければ。
と思ったところで私もヒュウガの背に腕を回しっぱなしだということを思い出し、素早く手を引っ込めて彼の逞しい腕に添えた。


「あの、腕…離してもらえると嬉しいんだけど…」


やっと彼の視線と私の視線が重なった。
彼の瞳はやけに真っ直ぐで淀みなど一切ない。
どこか無表情。
しかしその無表情の中にも感情は確かに存在しているのだろうが、思考があちらこちらへと行ってしまっている私には到底考え付きもしなかった。


「名前、」


耳元にでもあるんじゃないかと思ってしまうくらい心臓がうるさい。
真面目な表情、真っ直ぐ見つめられる視線、しっかりと抱きしめている腕、そして全身を撫でるような声。
きっと、女の子なら誰しもがクラリと来てしまいそうな。

名前を呼ばれただけなのに、その一言が心を擽った。
まるで今から告白をされそうな雰囲気だ。


「な、に…?」


私のこのドキドキが彼に伝わっていないだろうか。
あまりくっつかれると伝わっていそうでまたドキドキしてしまうのに。

今もなお私の背中へと回されているヒュウガの腕は、力を緩めることはなくしっかりと私を逃がすまいと抱きしめている。


「抱き心地が良くなったね。」

「真面目な顔してそれか。」


ガックリと肩を落とした。
一体自分は何を期待していたというんだ。
そうだ、ヒュウガに普通を求めてはいけない。
昔は2階から紐無しバンジーして血流して怪我したり、今は今でアヤナミ参謀をアヤたんなどと呼んだり。
彼は前から普通じゃなかったじゃないか。

なのに今もドキドキが収まらない。

期待してしまった自分を笑っている自分もいるけれど、その笑みの中に残念さも混じっていたりして。



「太ってるわけじゃないのに柔らかくて良い香りがする。」


そう言って首元に顔を近づけて来ようとする彼。
これはちょっと如何なものか。


「はいはいヒュウガさん。それ以上はセクハラと見なします。即刻この腕を退けて顔洗って来てくださーい。」


寝ぼけているのだろうか。
そのようには見えなかったけれどそういうことにしておこう。
それが一番楽だから。


ちぇっ。と舌打ちをしながら体を起こすヒュウガ。
私も体を起こしてベッドから出た。

ヘッドボードに置いてあった時計を見ると起こしに来た時間から2時間近くが経っていた。

相当居心地がよかったのだろう、眠気もなくスッキリサッパリした気分だ。

だけど彼が顔を洗うために洗面所へ消えていくのを見届けてから、たっぷり3秒したのちに私はベッドに顔を埋めた。

決して変態なわけではない。
これはヒュウガの香りを嗅いでいるとかそういう部類のものではない。
断じて。


「あぁぁぁあぁぁ心臓に悪いよ〜〜〜」


さっきまでの状況に身悶えているのだ、私は。
恥ずかしくて恥ずかしくて恥ずかしくて死んでしまう。

顔をシーツに擦り付ければくぐもった声が出て、それからすぐにヒュウガの香りが胸いっぱいに広がった。
これではやはり変態のようではないか。

彼の香りは安らぎを与えてくれるのにそれだけじゃない。
どこかドキドキとした気持ちも同時に襲ってくるのだ。

ほら、今だって。


「名前、何してるの?」


洗面所から出てきたヒュウガに声を掛けられて勢い良く顔を上げると、彼は顔を拭いたのであろうタオルをテーブルの上に放り投げている所だった。


「いや、ちょっと色々あって。っていうか、その、急に起き上がったから立ちくらみがしちゃって、あはは、はは、は」


空笑いというのはきっとこういうことなのだろう。

ヒュウガは不思議そうながらも「大丈夫?」と声をかけてくれたので「平気」と返しておく。


「名前ってばさっきから『ちょっと色々あって』って使うね。」


無意識のうちの言葉だったので一体どこでどう使っただろうかと記憶を辿っていると、「ほら、フラウって呟いた時。その時もそう言ってたでしょ?」と丁寧に教えてくれた。


「あぁ、そういえば。」

「…それで?『フラウ』って、誰?」


何だか確信に触れてこられたような気がして「教会の司教様」と簡単に答えておく。
しかしそれがいけなかったのか、「教会の司教っていうわりには呼び捨てで仲良さそうだね。しかも『名前』って呼んだことに何も反応しなかったってことはそのフラウってのも名前って呼び捨てで呼ぶんだ?もしかして何。朝は起こしてもらうような仲なの?」だなんて矢継ぎ早に言うものだから一つ一つ言葉を噛み砕いて消化するのに時間がかかる。

またそれもいけなかったようだ。

しどろもどろの私にヒュウガは「ふぅん。」と面白なさげに呟き、私の腕を取った。


「今名前の目の前に居るのはオレだよ。さっきまで抱きしめられてたのもオレ、抱きしめてたのもオレ。わかる?」

「は、はい…」


何だろう、この叱られているような感じは。
何で私がそんな気持ちにならないといけないのかはわからないが、ここは大人しく素直に頷いておいたほうが得策のように思えて2、3回首を縦に振っておいた。


「それで結局フラウってのは名前の恋人なの?」

「えっ?!?!いやいや!!違う違う!そりゃ、……」


『キスしそうにまではなったけど』とはヒュウガの視線があまりにも鋭かったので言えなかった。


「とにかく!フラウとはまだそういう関係じゃないから!!」


先ほどまでの居心地の良い雰囲気はどこへやら。
一転して妙な心地になってしまったこの部屋を、私は早々に逃げるように飛び出た。




だから、


「…『まだ』、ね。」


ヒュウガが意味深に目を細めたのなんて知りもしなかったのである。

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