愛しき君


ゆっくりと浮上する意識。
ああ、ついに己に相応しい地獄へと落ちたのか。そう思い瞼を開けば。

目の前に広がるは、愛しの“赤”。

何故、何故……?
混乱と焦燥。

「…………何故、いるのですか……」

目の前に広がった“赤”。それは、私が欲してやまない、唯一のヒト。

「どう、して……?」

ぽろぽろと零れる涙で視界が歪む。
ああ、もっと愛しい方を見ていたいのに。
抱きしめられた体を起こせば、気配に敏感なこの人はすぐに目を覚ました。

「ん……あぁ、目が覚めたのか。良かった」

「……何故、」

「理由はいくつかあるんだがな。千鶴のこと知ってるみたいだったし、それに……」

私が聞きたいことを察した愛しい方は溢れる涙をそっと拭いながら答えてくれた。

吐息が感じられるほどの至近距離に顔が熱くなる。こんな近くに愛しい方がいるなんて、私には耐えられない……!

「何より、俺しかないと泣いた女殺しちまうわけにはいかねぇだろ」

「……ああ……愛しい方、優しくて暖かかくて、私をこの世に留め置ける唯一の方……」

いっそ死んでしまいたかった。
貴方が死に行くこの世で、生きていくなんて。貴方を見送ることなんて耐えられない。耐えたくない。

戦乱の世に生まれた運命なれど、愛しい方がいなくなったこの世にどんな価値があると言うのだろう。
この世界を壊してしまう前に、私は貴方の手で死んでしまいたかったのに。

「いとしいかた。わたしのさいしょでさいごの、うるわしのきみ」

「麗しの君って柄じゃねぇんだが……」

「やさしくて、あたたかい……けれど、とてもざんこくなかた。私はこの世界に絶望してしまう前に逝きたかったのに」

愛しい方。酷い方。
私に愛を囁かない唇で優しい言葉を吐く。
私を決して映さない瞳で私ではない誰かを見る。
私ではない誰かの涙を拭うその手で私に触れる。

「一体何を言って、」

「どうして、死なせてくれなかったのですか。どうして、生かしたのですか。どうして、どうして―――殺してくれなかったのですか……」

「お前……」

私の唯一の人、私が愛した最初で最後の尊い方。
貴方しか、いなかったのに。
酷い人、残酷な人、私には貴方しかいなかったのに、貴方は私から"貴方"すら奪ってしまう。

戦乱の世で美しく舞うたった一人の優しい方。
嗚呼、それでも私は貴方を嫌いになんて、憎むことなんて出来るはずがない。

「千郷」

あれほど待ち望んだ甘く響く私の名が、こんなにも切なく悲しく思う日が来るなんて。

「いと尊き最愛の御方……貴方がいなくなったら私は生きていけないのに。生きていけるはずがないのに。貴方の手で生を終えるあの瞬間を望んでいたのに」

「千郷……!」

「本当に愛しくて優しくて……酷い方。こんな腐った世界に私を置いて先に逝ってしまうのに、私を連れて逝ってはくれやしないのに」

「千郷っ!!」

「、!」

愛しい方の思ったよりも強い声にびくりと反応をして思わず言葉を止める。

「お前のその……麗しの君とか、いと尊きってのはよくわからねぇがよ。俺に心底惚れてるってのは理解した。というかさせられた」

いいえ、いいえ!惚れているなどというこ言葉では足りない!!
この想いは、好きだの愛しているだのという純粋な想いではないのです。より重く、より深い闇のような、そんな。

「お前は……なんでそんなに死にたがるんだ」

唯一の御方からの問いかけ。私には貴方様に嘘や偽りを申す選択肢などありはしないのです。
故に、隠すことなく自らの心情を露わにする。

「最愛の方を失って生きていくにはこの世は辛すぎるのです。だって、貴方は戦いの中で散ることを良しとしているでしょう?私を見てはくれないでしょう?私と共に生きてはくれないでしょう?私を連れて逝っては、くれないでしょう?―――貴方は、私を愛してはくれない」

驚いた様子で私をじっと見つめる貴方はどこか幼く見えて。また一つ、私が知らない貴方の表情を見れた。
とても愛しくて愛しくて、そんな始めてみる表情に胸が高鳴った。

「お前は、俺となら生きるのか」

「……貴方のいない世界に一体どんな価値がありましょう」

「死ぬ時は一緒に連れて行けば、それで満足なのか」

「……貴方と共に死ぬことが私の本望でございますれば」

「もし、俺がお前を愛していると言ったなら、お前はどうするんだ」


なんて、幸せな未来なんだろう。

貴方から発せられる私が望むその未来は、どう足掻いても、どう手を尽くしても決して私では手に入らない。

燃え上がるような情熱を隠し持った愛しの御方。
貴方に守られ、助けられる女の、なんと羨ましきことか。

私では決して届き得ぬ、たった一人の尊き御方。
貴方の瞳に映ることがどんなに幸せなことか、私がどれほど望んだことか。それは決して誰にも分かりはしない。

分かってもらっては、困るのだ。


「―――……それはとても、とても幸せな未来ですね……」

決して手の届かない、夢のような幸せな世界。
貴方が私の手を取り共に歩いていく、そんな未来。
この腐った世界でも、貴方と言うたったひとつの存在があるだけで、光り輝く愛しい世界。

「……お前は一体どれだけ……」

小さな呟き。苦しげに顔を歪めた私の愛しい方。

「ぁ……、ごめ、なさ……」

愛しい方にそんな顔をさせてしまうなんて。
私はやっぱり、この方と生きていくことなんて……

「千郷。俺と、生きてくれるか」

「ぇ、」

「……俺のために、生きてくれないか。俺と一緒に、生きてほしい」

「そ、れは……同情ではありませんか。貴方がいないと生きていけないこの哀れな女に情けをかけただけではありませんか……?」

貴方と生きていけるならそれがたとえ戦乱の世であろうと天国に変わる。けれど、私は貴方の荷物になりたい訳ではないのです。

貴方と荷を分け合って支えあって生きていきたいのです。
けれど……。

「貴方はきっと優しいから……泣いた女を放って置ける酷いお人ではないから……貴方はきっと私以外が泣いていたら駆けていってしまうから」

私はそんなこと到底許せる性質じゃない。俺の為に生きろと言うのなら、私の為に生きてほしい。そんな、欲張りな女だから。

「お前の中の俺がどんな男になってんのか気になるが、少なくとも俺は好いた女を放って他の女の涙を拭うほど下種になった覚えはねぇよ。それに、お前はすぐ泣くから、他の女が泣いてることに気付く暇も無いだろうよ」

「…………今、なんと?」

「他の女に構ってる暇はねぇよ」

「……その前です」

「あー……好いた女、か?」

「嘘……」

「嘘じゃねぇ。お前は信じられないかもしれねぇが……」