あまりこわくない?


 紫原くんは「ん?」という顔をして周囲をみわたし、それから足もとへ眼をむけてようやく、そこに転んでいるわたしを見つけたようだった。

「なにしてんの〜? つーか誰? 人の名前噛むとか失礼だし〜」

 どうやら紫原くんはわたしのことを知らないらしい。
(同じクラスなのに)
 きらわれているのだろうか。うしろむきで暗い考えばかりが浮かび、気持はますます焦ってゆく。

「あ、ご、ごめん……わ、わたし、同じクラスの苗字っていうんだけど、あの、今日わたし日直で、あの、あの、数学のプリント出してないのクラスであと紫原くんだけで、あっ、お昼に言ったんだけど紫原くんミーティングあったみたいだし、もしかしたら知らないんじゃないかとおもって、それで」

「はあ〜?」

(ひえっ)
 眉間に皺を寄せた紫原くんは威圧感も三割ほど増しており、とてもではないが同い年にはおもえない。
「だ、だ、だからね、あのね、数学のプリントをね」

「――アツシ」

 怯えと混乱で半泣きになっていると、唐突に、涼しげな声がその場に割りこんだ。
 体育館のなかからあらわれた人物を見、女生徒たちの黄色いざわめきが大きくなる。
(氷室先輩)
 もともと人気のあったバスケ部だが、帰国子女として編入してきた氷室の途中入部によりその人気はさらに白熱し不動のものとなった――というのは、けっして誇張ではなく、もはや男女や学年を問わずしての共通認識である。
 わたしはさほど詳しくはないが、どうやら紫原くんと氷室先輩とで、Wエースなどと呼ばれているらしい。

「そんな場所でなにしてるんだ」
「べっつに〜、なんかちっこいのが話しかけてきただけだし」

(ちっこいの。……)
 わたしのことだろうか。

 氷室先輩は尻餅をついているわたしを見ると、さすがにちょっとおどろいた顔をした。
 が、この氷室先輩の物腰のスマートさというのは同年代のだれと比べてもおどろくべきものがある。帰国子女だからというだけでなく、本人の気質によるものなのだろう。
 すぐに表情を切り替えてやさしくほほえみ、自然な動作で助け起こすための手をさしのべてくれた。
「立てる?」
「すっ、あ、すみません……」
 片手でノートを抱えなおしてからおそるおそるその手をとると、女生徒たちから悲鳴が上がった。嫉妬まじりの羨望の視線を一身に受ける破目になり、わたしも内心で悲鳴をあげる。
「大丈夫? どこか痛むところは?」
「だい、大丈夫です、その、ありがとうございます」
「それならよかった。どういたしまして」

 氷室先輩はふたたび紫原くんに向きなおり、
「駄目じゃないか、アツシ」
 と肩を竦めた。
 そういう仕草がいちいち似合う。そのたびに女子生徒から黄色い歓声があがるのは、まるで別世界の人物のようにおもえる。
「女の子が転んでいたらまずは助けてあげないと」
「めんどくさー」
 紫原くんはふてくされた顔でそっぽを向いている。
 やれやれと溜息をこぼした氷室先輩は紫原くんへの説教をあきらめたのか、またわたしのほうを見てくびをかしげた。

「それで、君はアツシの友達? なにか用があったのかな」

 その言葉で用事を思い出したわたしは、しどろもどろになりながら頷く。
「いえっ、クラスメイトです。宿題の……数学のプリントなんですけど、むやっ、む、紫原くんだけ出してなかったから……あの、それで、受け取りにきたというか」
「ああ、なるほどね。ほらアツシ、数学のプリントだってさ」

 促された紫原くんが、
「ロッカーなんだけど」
 と面倒くさそうにぼやく。
 それを受け、まったく、とでも言いたげに氷室先輩が眉をうごかす。
(先輩後輩というより、お兄ちゃんと弟?)
 名前にもだんだんとこの二人の関係性がみえてきた。

「まだ休憩中だし、そんなに面倒くさがることないだろ? 取りに行って、ついでに彼女が運ぶのも手伝ってあげなよ」
(えっ?)
「いいいっ、いいですいいです大丈夫です! 一人で運びます!」
「そんなわけにはいかないよ。それ、結構重いだろ? ……アツシ、わざわざ来てもらったんだから、それくらいはしないと」

 え〜、と抗議の声をあげた紫原くんだったが、氷室先輩がどこからともなく取り出した菓子を見るととたんに態度を変えた。
 豹変、といっていい変わり身のはやさである。
「室ちん、それなに〜?」
「アメリカのお菓子だよ。アツシにあげようかとおもってもってきたんだけど、宿題も提出しないうえに女の子に重い荷物を持たせるようじゃ、これはあげられないな」
 紫原くんはなおも菓子を凝視している。
 その姿は今まで感じていた威圧感よりもむしろ真逆の、
(かわいい、――)
 というような印象を受けた。

(そういえば)
 おもいかえしてみると、教室でもいつもなにかしらの菓子をほお張っているような気がする。
 運動量がさかんなために空腹なのだろうとなんとなくおもっていたが、どうやら極度のお菓子好きであるらしい。
 怖いだけだったイメージが若干修正される。異次元の存在におもえていた紫原くんも、年相応なのだと実感する。

 が、それとこれとは話が別である。
(お願い、お願い、断って! プリントだけ渡してくれればいいから!)
 そんな必死の願いも空しく、紫原くんはついに渋々ながら頷いてしまった。
「ロッカー行ってくるから、アンタちょっとそこで待ってて」
「……は、はい……」
 のそのそ遠ざかる大きな背中を見送り、わたしはがっくりと項垂れた。



 人気のない廊下を二人、歩いてゆく。
 長身の紫原くんと比べてしまえば足のコンパスが随分ちがうはずなのだが、並んで歩くのはさほど困難ではなかった。気遣い云々ではなく、単純に、紫原くんの歩みがのんびりとしているおかげであろう。
 ただ、プリントはほとんどを紫原くんが運んでくれていた。
 いわく、「どーせついでだし」。
 が、どのような理由であれプリントの束の大半を紫原くんが引き受けているのは事実であり、わたしのなかの紫原像がまたもや上方修正される。

「苗字さ〜」
「えっ、え? な、なに?」

 ついさきほどまでわたしが同じクラスにいることさえ知らなかったはずの紫原くんにとつぜん呼びかけられ、面食らう。
 さきほどのやりとりのなかで一応名乗った覚えはあれど、それを覚えていてくれたのだとはおもわなかった、というのも失礼な話だが、そもそもの経緯をおもえば、どっこいどっこいであろう。

「いつからクラスにいたの? 転校生?」
「――」
 おもわず、絶句する。
(これは、なんというか)
「……最初からいました……」
「アララ〜そうなの? ちっこいから見えなかった」
(紫原くんって、天然?)



 職員室へ着くと、数学教諭はちぐはぐな二人の姿を見て目をまるくした。
「お前ら、仲よかったのか? 知らなかったぞ」
 ――ちがうんです、先生。
 とはいえず、なぜか親指を突き立てた教諭に、ひそかに頭をかかえた。
 いやな予感がする。
「そっかそっか、青春だなあ。ま、うまくやれよ! わっはっは!」
(誤解、誤解、誤解!)
 紫原くんはというと、われ関せずとばかりに素知らぬ顔でのっそりと佇んでいた。じぶんが興味のない話題など、とことんどうでもよい、という態度である。
 わたしのほうはというと、いかんせん気にしいであるばかりに一人分以上の気苦労を余計に背負い込んでいるような気持になり、胸中におもわず恨めしい気分が満ちるのを抑えかねた。



 無事に宿題を提出し終え、また連れだって廊下を歩く。
 紫原くんは部活にもどるのだろうが、わたしは通学鞄もこの場に持ってきているため、教室へ寄ることもなくこのまま下校してしまうつもりである。

 つい数分前、教員におどろかれた通り、普段であればわたしと紫原くんのあいだに接点はない。
 実際、こうして紫原くんと並んでいるのは奇跡に近いのではないだろうかとさえおもえてくるのである。要するに、それほど違和感がおおきい。
 同じクラスとはいえ、おそらく今後も接点はないだろう。
 なぜかそれをすこし寂しいとおもった。

(だって、もう知ってる)

 紫原くんがけっして怖い人ではないことを。
 褒美の菓子につられ、面倒くさがりつつもこうしてプリント運んでくれるやさしさがあるのだということを。
 たしかにまだ、こわいとおもう部分もある。
 背の高さはいかんともしがたいとしても、なにを考えているのかわからない。
 が、それよりも強く、もっと紫原くんのことを知りたいとおもう。

 なけなしの勇気をふりしぼり紫原くんの名前を呼ぼうとしたわたしは、
「むらたきばらくん」
 また噛んだ。

 ふかくながい溜息がきこえる。
 穴があったら入りたい、とは、まさに今この瞬間のことをいうのだろう。
「あのさあ」
「……ごめんなさい」
「そんなに呼びにくかったら、敦でいーし」
「ごめ……え?」
 おどろき、きょとんとして紫原くんを見上げる。
 くびが痛い。
(やっぱり背、高いなぁ)
 では、なく。

「も、もう一回お願いします」
「だからぁ、苗字じゃなくて名前で呼べばって言ってんの」
「名前で?」
「呼ばれるたびに噛まれんのやだし〜」
「それは、うん、んだね。ごめんね」
「アツシならさ〜、さすがに噛まないでしょ?」
「それも……ん、んだね……?」

(そうだけど。そうだけど!)
 なにかちがう。
 なにかちがう気がするのが、それを説明したところで紫原くんには通じないであろう。

「――」
 生まれてこのかた異性を名前で呼んだことがないために、やたらと恥ずかしい。
 紫原くんに他意がないのは、むろん、わかっている。紫原くんにとっては苗字も名前もどうでもいいのだろう。
 苗字を呼ぶのにいちいち舌を噛まれるのが煩わしいだけだと本人の口から聞いた以上、誤解する余地はない。
 承諾するのも恥ずかしいが、断るとなると小心者のわたしには不可能にちかく、それでもまだ躊躇いの意をこめて二、三度咳払いをしてから、ついに観念して口をひらいた。

「あ……敦くん」
「ん〜、なに〜?」

 恋人でもない、それもとくに親しいわけでもない異性を名前で呼ぶなどというのはわたしにとってハードルが高すぎる。
 しかしながら紫原くんはやはり平然としており、それが余計に恥ずかしく、若干むなしい。
 顔が赤くなっているのを自覚しながらもどうにか平静を装い、
「敦くんって」
 となんとか言葉をつづけた。

「お菓子、好きなの?」
「――くれんの?」
 ぐりっ、と紫原くんが勢いよく首をひねってわたしを見おろす。
 その尋常でない威圧感にひるみ、肩がはねた。
 しかし、よくよくみると紫原くんの目はこどものように輝いている。
「今はないの、今は!」
 あせって否定すると、紫原くんはみるからにしょげてしまった。
(か、かわいい……かも)
 しかも、妙に罪悪感を煽られる。

「今はないんだけどね、そんなにあまいものが好きなら、部活中断させてまでノートもってもらっちゃったし、お礼にお菓子でもっておもったんだけど……ご、ごめん、なんか勝手に話しちゃってるよね。あの、忘れて……」

 言っているうちに段々と言葉尻がいきおいを失ってゆく。
 だが、どうやら紫原くんは予想以上に菓子に目がないらしい。
「そんなん関係ねーし。お菓子くれんなら普通にもらうし」
 居心地がわるく俯いた頭上から、こちらが拍子抜けするほどあっけらかんとした声がふってくる。

「楽しみにしてるねー、苗字ちん」

(ち、ちん?)

 おおきな掌をひらひらと振って体育館へ去っていく紫原くんが、ほんの一瞬、笑みらしい色を口許に見せてくれたような気がした。
 その背中を真っ赤な顔で見送ったわたしは、しばらくの間そこに立ち尽くしていたのだった。




-----
じぶんの田舎が秋田県ということもあってか、むっくんが断トツに好きです。

- 12 -


[*前] | [次#]
ページ:



単独ヒーロー