あなたのために




 買い物に出かけた翌日、酒田くんとは少し気まずかった。彼は何事もなかったかのように接してくれたけれど、少し距離を置くようになった。これからは、以前のようにあまり気軽に助けてもらうのは止めておこう。きっと、それが隙になっていたのだろう。わたしは反省した。


 更にひと月ほど経った。沖田さんはずっと人間のままだ。猫になる日は一日もなかった。ならば今のうちに、と病院へ行くことにした。
 検査の結果、沖田さんはやはり結核に罹患した形跡があった。本当は死ぬほど悪かったはずだったが、今はそうでもないようだ。免疫の反応が出るが、他は特に異常はないと医者は言っていた。
 もちろん沖田さんは予防接種などしたことがない。念のために治療もしておいた。もう大丈夫だろう。わたしも沖田さんも大喜びだった。


 ある日の夕食時の事だった。沖田さんは途中で箸を置き、居住まいを正して真率な面持ちでこう切り出した。
「みのりさん。私、仕事を探したいと思います」
「仕事? 」
「ええ。せっかく人に戻ったんです。いつまであなたに甘えるわけにもいかない。あなたは、いつどうなるともわからない私に、衣食住だけでなく医者にまで見せて下さいました。あなたにはどんな感謝の言葉も足りません。私はあなたに恩返しがしたい」
「そんなの、いいのに」
 けれど、沖田さんは首を大きく横に振る。いつになく真剣な様子に、わたしも箸を置いて聞くことに専念する事にした。
「よくありません。私がみのりさんを養うならともかく、これじゃあ私はヒモです」
「この場合はすっごく特別だと思うけど……」
「でも、事実です」
 沖田さんは怖いくらいに深刻な顔つきで、きっぱりと言い切った。
「それは、そうかもしれないけど……。あのね、はっきり言うわ。今、沖田さんが仕事を見つけるのは、すごく難しいと思う」
「何故です。私は何だってしますよ」
 沖田さんは立ち上がり、ずいと身を乗り出した。テーブルの端をぐっと掴み、ひどく焦った顔をしている。立った勢いで椅子が後ろに倒れ、バンと大きな音が響いた。
「この時代で仕事を見つけるにはね、職歴はともかく、学歴とか……そうだ、戸籍も要るでしょうね」
 沖田さんは「なんだそれは」というような顔をした。わたしはひとつずつ説明し、どれも今すぐにどうにかなるものではないと話すことにした。
 仮に夜間中学に入るにしても、先ずは戸籍だ。確か就籍届とかいうものがあったはずだが、まずは役所に相談だろうか。とはいえ相談するにしても、何と説明すれば役所に納得してもらえるかは分からない。
 とにかく少しばかり難しいのだと言うと、沖田さんはとてもショックを受けていた。彼はゆっくりとした動きで、倒れた椅子を起こして座り直す。
 しかし、沖田さんはすぐに気を取り直した。拳をきゅっと握り、神妙な顔つきをした。
「仕方ない。道場破りでもしましょう。私、腕には自信があるんです」
「……それだけは止めてちょうだい」
 沖田総司が道場破り――闘病からの猫の生活で少々なまっていたとしても、きっと何処へ行っても勝ててしまうだろう。けれど、今どきそんなことをすれば法律に反するかもしれない。そもそも道場自体の数も少なそうだ。
 兎に角、ろくな事にならないのが目に見える。わたしはこんこんと言って聞かせた。
「困ったな。これではあなたに何もお返しする事が出来ない」
 沖田さんは暗い顔をした。眉を八の字に下げ、萎れた花のようにうなだれている。見ているわたしも心苦しい。
「仕方ないよ。戸籍のことは考えておくから、とりあえず今は現代のことをもっと知って、なじまないと。外で働くのはそれからだよ」
「でも」
 沖田さんは諦めない。気持ちは嬉しいのだけれど、どうしたものだろうか。
 剣術道場を開くという手もあるが、これも今すぐどうにかなることではない。今のご時世、何をするにも身元を証明できなければどうにも出来ないだろう。
 とはいえ手持ち無沙汰でいることが勿体ない気持ちはわかるし、せっかくのやる気を削いでしまうのも憚られる。そこでわたしは閃いた。
「あ。じゃあ……」
「なんでしょう。私に出来ることなら何なりと」
 パッと表情を明るくした沖田さんが、期待に満ちた眼差しでわたしの言葉を待っている。まるで子犬が尻尾を振り回しているような様子に、思わず笑ってしまった。
「掃除と洗濯を手伝って欲しいの。できれば……料理も」
 沖田さんは眉をひそめた。わたしとて江戸時代の男性が家事をするとはとても思っていなかったが、この顔で確信を得た。
「私は男ですよ。男子が厨《くりや》に入るなんて」
 案の定、沖田さんは抗議した。しかしわたしも引かない。むしろ現代人として鍛える絶好のチャンスだ。
「何でもするんでしょ? わたし、沖田さんにしてもらえたらとっても助かるし、嬉しいんだけど……ね? 」
 わたしは「お願い」と、拝むように手を合わせる。ずるいかもしれないが少し意識して、上目遣いで沖田さんを見つめてみた。すると沖田さんは、少し顔を赤くしている。これは効果ありだと内心喜んだ。
 他は八方塞がりだ。何かしてもらえるなら、上目遣いくらいお安いご用だ。
 しばらくの押し問答の末、わたしは遂に沖田さんを看破した。
「……分かりました。やりましょう。あなたの役に立てるなら」
 沖田さんは複雑そうだったが、なんとか了承してくれた。彼に主婦のようなことをさせるのはとても申し訳ないけれど、現状では外で働くことが難しい。らなば、やはり家事くらいしかないのだ。

 沖田さんは少しずつ家事を覚えていった。家電の扱いにも慣れ、スーパーで買い物もできるようになった。元々器用なのか、少し教えるとすぐに出来るようになる。
 沖田さんは「まさか私が家事をすることになるなんて」としばらく落ち込んでいた。けれど、せめて戸籍が出来るまでは仕方ない。こうして少しでもこの時代に馴染んでくれればいいと、わたしは思っている。


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