この世の果て


 ある日の昼下がり、とある町で大型トラックが一人で歩道を歩く女に衝突しようとしていた。道幅はそう広くはないものの、見通しは良く、やや狭い歩道には歩行者や自転車が多く行き交う。ここで、その事故は起こった。
 小さな手提げ鞄を下げて近所へ買い物に出ていたその女は、ゴクリと唾を飲み込んだ。彼女が気づいたとき、トラックは既に目と鼻の先程の場所まで迫っていた。彼女が向かっていた近所のスーパーまであと数メートル。彼女の悲鳴は、トラックのブレーキを踏みこむ音にかき消された。

 







「これはまた、珍しい着物ですな。」


 オアシスの真ん中に立つ宮殿で、二人の兵士が首を捻っていた。風と共に砂が舞う小さな中庭で暑い空気と日差しに汗をかきながら、足元に品物を並べて検分している。一人の兵士が女物の半袖のブラウスを持ち上げた。綿でできた白いブラウスは、広げるとふわりと風に揺れた。彼はそれを見ながら、彼の口元の白い髭を指でなぞった。


「全くだ、リチャード。この生地といい、形といい、俺はこんな服見たことがないぞ。だいたい、人間がこんな軽装で砂漠を出歩くとはな」


 もう一人が頷き、大げさに肩をすくめ驚いて見せる。


「ビバル。他に、何か荷物は? 」


 ビバルと呼ばれた兵士は、他の品物に目を遣った。彼らの足元に並べられているそれらは、どれも彼らにとって見たことのないような物ばかりだった。ビバルは頭を掻き、参ったという風に肩をすくめる。
 ビバルには毛がない。毛の変わりに耳の少し上に細長い角が左右に一本ずつ付いていた。その角は柔らかく、風になびいてふわふわと揺れている。


「この小さな袋は鞄のようだな。中に、また袋があるぞ。……これは、おお、開いたぞ。紙が数枚と小さな薄い円盤が入っている。この小さい金属は、鍵のようだが……武器になりそうなものはないようだな。……ん?この箱は何だ? 」


 ビバルは箱を手に取り、首を傾げる。その箱は、うっすらとパールがかった薄い桃色をして、表面はツルリとしていた。どうやら真ん中で折りたたんであるようで、蝶番のようなものが外側から確認出来る。開いてみると、黒い部分と小さな文字盤のようなものが幾つも並んでいる。
 彼はその緑色をした手で、やはり緑色の顎をするり撫でた。リチャードも腕組み、箱をまじまじと観察する。彼の青い皮膚に汗が流れた。
 

「念のために保護したとは言え、なんとも奇怪な女だ」

「はやり、あの女は……」

「これ、ビバル。慎まんか。それは極秘事項じゃぞ」


 リチャードはビバルを一瞥し、するどい眼孔で咎める。


「お、おう。すまん。とにかく、こんな品物など見たことがない。まあ、一通り検査は済んだんだ。俺は陛下に報告してこよう」


 彼は近くに控えている部下に品物を片付けるように命じ、くるりと踵を返した。重そうな鎧を着け、背負った長い槍は、彼が歩くたびに鎧に当たりカチャカチャと音をたてる。


「頼みましたぞ。ワシはメイドに女の様子を聞いてくるとしよう。もしかしたら、目覚めたかもしれん」


 彼もまた、重そうな鎧をつけ、腰には大小の刀を下げている。足首まで覆う赤いマントを翻し、宮殿の中へと入っていった。


 ビバルは王の間へ向かった。広間に入ろうとしたところで王がビバルに気付き、彼を呼ぶ。ビバルはそのまま王の元へと進んだ。
 王はそわそわと玉座から立ち上がり、待ちかねた様子でビバルに報告を促した。兵士がつい先ほどまでビバルらが見ていた品を並べはじめる。


「陛下、これらは例の女の持ち物でございます」

「ああ」

「何もかもが奇怪です。特にこの箱、使用方法も目的も図りかねます」


 そう言ってビバルは品物の中からピンク色の小箱を手にし、王に見せた。彼らの若い王は、そのピンクの箱をビバルから受け取り、照明にかざしたり軽くたたいてみたりする。だが、特に何も起きない。他の品物にも目を向け、王はその形の良い眉をひそめた。


「どれも見たことのないものばかりだな。素材は何だ……? 」


 そこへ、メイド長がやってきた。黒いワンピースの裾を揺らし、王の前へ進み出る。黒い皮膚に、白くもこもことした特徴的な毛が彼女の全身を覆っていた。メイド長は王に一礼し、跪いた。


「陛下、女が目覚めました」


 王はメイドには見向きもせず、ピンク色の箱をじっと観察している。彼は箱から目を離さずに問うた。


「メリー、どうだった」

「黒です。ここへお連れしてもよろしいでしょうか」


 王は手を止め、赤い瞳をメリーの方へ向けた。


「良いだろう。呼べ」 


 メリーは一礼して下がって行った。
 王は、深い緑色をした背中まである長い髪をかきあげ、どっかりと玉座に座る。やがて女が兵士に連れられて王の間にやってくると、王は不躾なほどに女を上から下まで舐めるように観察を始めた。
 彼女の肩で切り揃えられた黒い髪はやや乱れ、黒い瞳が不安げに揺れている。着せられている生成のワンピースは彼女の体格にはやや大きく、開いた襟から右の肩が少し覗いている。簡素なスリッパもブカブカで、歩きにくそうにしている。それぞれの素材は、麻のように荒くザラザラとした生地だが、滑らかな光沢がある。
 拘束はされていないものの、両脇を兵士にがっちり押さえられており、身動きはとれない。見たこともないような種族の兵士達がそれぞれ武器を持ち、ずらりと並ぶその光景に彼女はずいぶん怯えていた。青い顔をして、今自分が置かれた状況を把握するのに必死の様子だった。


「お前が、砂漠で倒れていたという女だな」

「砂漠?わたし、砂漠になんか行ったこともありません」


 女は怪訝な顔をして、じっと王を見た。王も女を見据え、視線を外すことなく謁見を続ける。


「そう報告を受けているが」

「……わかりません」

「記憶がないのか? 」

「いいえ、そうじゃありません。けれど、砂漠なんて知りません」


 女は困惑していた。兵士の風貌、着ている服などから見ても、明らかに女が今まで生活していた環境とは大きくかけ離れていた。目の前にいる王でさえ、肌色や顔つきこそ人間に近いが、彼の頭の側面には立派な角が生えている。それらのことから、とても信じられないが、どう考えても異世界に居るのではないかと思った。そんな場所で、どう説明しても自分の身元の証明などできるはずがない。彼女はそう考えていた。


「では、どこから来た」

「……家の近所のスーパーに行こうと歩いていました。途中でトラックに轢かれて、わたしは死んだと思ったんです。でも、目が覚めたらここにいました」


 今度は王が怪訝な顔をした。側仕えの者達も、聞いたことがない、というような顔をしている。


「スーパーだと?トラックとは何だ」

「スーパーは、食べ物を売っているところです。トラックは、たくさんの物を一度に遠くまで運ぶための乗り物です……」


 消え入りそうな声で、彼女は答えた。


「そんなものなど知らん。話にもならんぞ」


 王は長い脚を組み替え、ため息をついた。女はますます縮こまってしまった。


「おい、女。メイドに命じ、お前の衣服は全て取り替えた。お前の所持品もこちらで預かっている。お前の身元がはっきりしない以上、このくらいは当然だ。良いな」

「……はい」


 王の言葉に、女は諦めたように返事をした。どうしてこんなことになってしまったのだろう。いくら考えても答えなどわからない。彼女の思考は今にもネジが切れそうなからくり人形のように、いびつに重くなってきている。



「それから、この箱はなんだ」

「携帯電話です。遠くにいる人と話ができる道具です」

「ほう。どうやって使うのだ」

「まず開いて……ちょっと、見せて下さい」


 彼女が携帯電話を手に取ると、電源が切れていた。起動してみるが、案の定圏外だった。これでは通話もメールも出来ない。


「ふん。つまらん」

「写真なら、撮れますよ」

「何だ、それは」


 彼女は玉座の近くに飾ってあった古そうな壺を写真に撮り、王に見せる。


「ほほう。これが写真か。なるほど、面白い技術だ。この様な不思議な道具を持っているとはな。お前はやはり……」


 王は兵士に持っていた箱を渡した。ひじ掛けにもたれながら、改めて女を見つめた。穴が開くほどの視線に居心地が悪く、女は思わず目を逸らした。


「さて、お前の処遇だが……お前は人間だな。しかし、この世のどんな種族でも、黒髪と黒い瞳を併せ持つ者などいないはずだ」


 女は耳を疑った。黒髪で黒い瞳の者など、彼女が元の世界に戻ればいくらでもいる。彼女が驚いている間にも王は続ける


「黒髪の女は星の数ほどいる。しかし、黒い瞳はそれ自体が珍しい。どんな掛け合わせでも、二つを併せ持つ者など生まれないのだ」


 王は立ち上がり、女に近づいた。鼻が付きそうなほど近く、顔を寄せる。女は距離を取ろうとしたが、王にすかさず腰を捕まえられてしまった。
 女が至近距離で王の口元をよく見ると、犬歯が他の歯よりも少し長く、尖り気味だ。肌は白くやや灰色がかっているが、血色は良いらしい。更に視線を上にやると、耳の上に生える角が見えた。それは上へ向かって湾曲し、先が外に向いている。角は彼の髪の色とよく似た色をしていた。
 女は見慣れない王の風貌にくぎ付けになっていたが、彼の言葉によって現実に引き戻された。


「ただし、たったひとつ例外がある。メシアと呼ばれる女神だ」


 王は女の目を射抜くように見つめた。女も、その気迫に目をそらせない。


「伝承によると、黒い髪と黒い瞳を持つ女は世界の全てを手に入れる力を持つと言われている。その両方を併せ持つお前には、その力があるはずだ。現に、お前は私達の知らぬものを知り、わからぬ言葉を使い、変わった道具を持っている」

「そ、そんな力なんて……わたしには、ありません」

「いいや、そんなはずはない。よって、お前を私の后とする」


 王はさも当然のごとく言い放つと、周りに控えていた兵士たちが歓喜の声を上げた。


「……ええ?ちょっと、本当にそんな力なんてありません」

「お前に拒否権などない」

「そんな……勝手だわ」


 女は目を白黒させている。もともと青白く見えた顔が、ますます血の気が引いて見えた。


「わたしは魔界の王、アーツ。お前さえいれば、世界は私の手には入ったも同然だ。お前にも不自由はさせんぞ」

「そんな、無茶です……。わたし、本当に何の力もないのに。だいたい、わたしには夫がいます」

「そう言うな、アネット。誰もが羨む私の妻の座を射止めたのだ。もっと喜べ」


 アーツは豪快に笑い、アネットを抱き寄せた。


「わたし、アネットじゃありません。ちゃんと名ま……」

    
 女が否定しかけたとき、アーツは女の首筋の左側に噛みつくように口づけた。女は急なことに驚き、身をよじって抵抗する。恥ずかしさから右手で首筋を覆い隠すが、王はその手を取り、甲に唇を寄せた。

「やめて!何するの! 」

「妻に何をしようと勝手であろう。おい、リチャード」


 アーツはパンパンと手を叩き、リチャードを呼んだ。どこからともなく霧が立ち込め、その中からリチャードが現れた。


「は。お呼びでしょうか、陛下」

「こいつを連れていけ。部屋の用意はできているのだろう」


 逃げようともがくアネットを、リチャードはいとも簡単に担ぎ上げた。アネットは肩の上で暴れるが、リチャードはびくともしなかった。


「仰せのままに。さあ、アネット様。参りますぞ」

「アネット!式は7日後だ。楽しみにしておけ! 」


 王の高笑いが広間に響く。アネットの抵抗も虚しく、有無を言わさず連れて行かれてしまった。

 彼女に与えられた部屋は広く、必要な家具も揃っていた。よく掃除が行き届き、チリ一つ見当たらない。畳こそないが、床の間が作られている。その壁には掛軸が飾られており、それは見事な書であった。また、すぐ脇の飾り棚には梅の木のような植物が描かれており、取っ手には大きな赤い房が付いている。
 他にも、大きな鏡のついた鏡台と、クローゼットには既に何着もの洋服が用意されていた。そして、部屋の隅には大きなベッドが鎮座している。内側から鍵を開けられないことが難点だが、意外な程の厚遇だ。
 アネットはすっかり疲れてしまっていた。着替えもそこそこに、ベッドに転がった。もう、自分が生きているのか死んでいるのかもよく分からない。目が覚めたら、元の生活に戻っていればいいのに。そう願いながら、彼女は眠りに落ちた。

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