手がかり

 才谷さんがお風呂から上がるのを待って、わたしたちは夕食を食べ始めた。才谷さんは初めは遠慮してはいたが、相当お腹が空いていたらしい。多少の押し問答を経て、今はもぐもぐとサンマを頬張っている。

「おまん、この家にひとりかえ? 」

「いいえ、主人がいます。今は暫く留守にしていますが」

「ほうか、ならば、早よう帰らんとのう。長居してはご亭主に悪かろう」

 しゃべりながら、才谷さんは大きな一口で茶碗からご飯を口に入れた。

「帰るところ、あるんですか? 」

 わたしがそう言うと、才谷さんはご飯をのどに詰まらせた。ゴホゴホと咳き込み。慌てて茶を飲み干す。

「うう、そうじゃった。げに、まっこと、困ったぜよ」

「あの。しばらくここにいても、いいですよ」

「そうは言うても……」

「才谷さん、悪い人やなさそうですし、信用してますから」

 そう言って、わたしはにっこりと笑ってみせた。根拠なんてないけれど、なんとなくそうしたいと思ったのだ。才谷さんは笑ったけれど、少し複雑そうな表情で答える。

「そ、そうかえ? そう言われると、悪いことはできんねゃ」

 そういうと、才谷さんはおかずのキュウリの酢のものをぱくりと口に放り込んだ。シャリシャリと口の中で咀嚼音をたてながら、口を開く。

「そういえば。おまんのご亭主も、もしや脱藩かえ? 」

「脱藩? まさか。もう藩なんてないですもん。才谷さんは、脱藩なんですか? 」

 才谷さんはまたむせた。余程衝撃的だったのだろうか。

「なぬ? 藩がないがか? 」

「ええ。それはもう、大昔に」

「そうかそうか。そりゃあえいのう」

 才谷さんはそう言うと何か心当たりでもあかのように、至極満足そうに笑った。一人うんうんと頷いている。

「ワシ、脱藩は2回したき。1回目は許されたんやけんど、2回目は仕方なく、やのう。国に帰ったら殺されゆうところやったき、戻れんちや」

「殺されるんですか? なんや物騒……」

「まっこと、こんなにバカらしいことはないぜよ」

 才谷さんは、ぐっと拳を握り絞める。彼は少しうつむいて、表情が少し曇った。その瞳は強い光をたたえているけれど、奥の方には悲しみや悔しさが隠されているように感じる。

 重苦しい雰囲気になってきた。わたしは話題を変えることにする。

「主人は今、アメリカにいるんです」

「アメリカ? 」

「ペリーが黒船で来たでしょう? その国です」

 才谷さんはほう、と手を打ち、「合点がいった」という顔をした。

「なんと、メリケンかえ? ほいたら、ご亭主は黒船に乗ったがかえ? 」

「まさか。飛行機ですよ」

「はて、ひこうき? 」

 空を飛ぶのだと説明すると、才谷さんは飛び上がって驚いた。

 当時は蒸気機関のついた船が最新の移動手段だったのだから、その反応はきっと正しい。「たまるか! 」と、身を乗り出し目を輝かせてわたしの話を聞いている。

「船もありますけど、お金と時間が余ってる人じゃないとなかなか乗れませんよ」

「えいのう。ワシも飛行機に乗って、メリケンへ行ってみたいのう。そういえば、あかねは一緒には行かんかったんかえ」

「ええ。行くつもりにはしていましたけれど、その頃に妊娠が分かったんです」

「そうか。そりゃあ一大事やき、大事にせんといかんぜよ」

 才谷さんは神妙な顔つきでそう言い、おかずを飲み込んだ。

「だから、わたしは留守番してるんです」

「維新が成ったら、ワシも世界を相手に商売するつもりやき。とりあえず、ワシは船でアメリカに行こうかのう。しかし、早よう帰らにゃあ、それも叶わんちや」

 どうしたものか、と才谷さんはうんうん唸りながら食事を続けた。

 あれから数日。何度か箪笥を開けてみるけれど、なにも起こっていない。きっと何か法則があるのではないか、と才谷さんは言う。

 またある日、夕食の準備がひと段落した頃に、あのときの状況を2人で改めて思い出してみることにしていた。

 料理の傍ら、わたしは洗濯物を畳んで箪笥にしまう。洋服を全て片付けて、最後にハンカチを手に取った。

 白いハンカチに赤い縁取りと四隅のうちの一箇所だけに同じ色で小さくリボンの柄が刺繍されている。これも仕舞おうと立ち上がり、最上段の引き出しを開けかけた時、台所から才谷さんの慌てた声が響いて来た。

「あ、あかねさん。煮物がふきこぼれて、コンロ? じゃったかがの火が消えてしもうたちや! どうしたらえいがかえ? 」

「はい只今。行きます」

わたしはハンカチを箪笥の上にポンと置いて、台所へ移動した。

 煮物の火をもう一度点けて、弱めに設定する。ついでにサンマをグリルに入れておいた。点火して、再度箪笥部屋に戻る。そこでは既に才谷さんが胡坐をかいていて、首を捻っていた。

「確か、あの日は満月やったのう。時代が違っても、月は同じやったき。ほんの少しほっとしたぜよ」

「醤油のにおいがしましたね」

「うん。あれは恐らく、向こうからじゃろうな」

 ふと、窓の外を見た。星が少しだけ見えている。昨日は新月だった。そのせいか、今夜は夜空がより暗く感じた。

「月が隠れておるのに、ここは星があまり見えんのう。星は減ったんがかえ? 」

「うーん。たぶん、100年やそこらではそんなに変わらへんと思います。街灯とか普及して、昔よりも夜が明るいから、見えにくいらしいです」

「|えい《良い》のか悪いのか、フクザツじゃの」

 才谷さんは、少しだけ残念そうに笑った。暗い夜道は危険だけど、星が見えないのも寂しい、と。

 話ながら、もう一度箪笥を開けてみようと思った。引出に手をかけたとき、箪笥の上に置いたままにしていたハンカチが見当たらないことに気が付いた。

「あれ、ハンカチがない。箪笥の上に置いてたのに」

「……もしや」

 才谷さんが引出を開ける。すると、また引出の中で道が出来ていた。でも、それはいつかのようにすぐに消えてしまう。それを見た才谷さんは、わたしに向き直ってこう言った。

「あかねさん。こんな仮説はどうがかえ。昨日は新月やった。前は満月やった。と、言うことは、月の満ち欠けで道ができる。満月でこっちに来て、新月で昔に戻る。どう思うがか? 」

「でも、昨日は新月だったのに、何も起こりませんでしたよ? 」

「うーむ、そうやった。むう」

 才谷さんは腕を組んでまた考え始める。

「あ! サンマ! タイマーセットするの忘れてた! ちょっと消してきます」

「おお! それじゃ! 」

 才谷さんはガバリと勢いよく立ち上がった。わたしはきょとんとして、才谷さんを見る。

「え? 」

「あの日もサンマ、焼いとったやいか」

「あ、そういえば。初めはわたしの分だけ焼いてたけど、後で坂本さんの分も焼いて一緒に食べましたっけ」

「ハンカチがないがも、きっとそのせいやなかろうか」

 2人して箪笥を見つめる。次の満月は二週間後くらいだろうか。それまで待って、一度実験してみようということになった。

 サンマの焦げたにおいが鼻につき始める。わたしは今度こそ慌てて台所に戻った。

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