「重から返しておいてくれ」

 男はそう言って、俺の目の前にその大きな手を差し出した。勉強を見てもらうと言伝をして、家を出ようとしたところだった。煙草と、それからほんの少しだけ、よく知った香水の匂いがする。骨ばった指の先には、鈍色の鍵が一つ。キーホルダーも、何の装飾も付いていない。誰に、とは言われていないけれど、心当たりは一つしかなかった。

「渡しておけばいいんですか?」
「いや、そうだな、言葉が足りなかった。返してって言われたらそうして」
「言われなかったら?」
「好きなようにすればいい」
「これ、俺が悪用したらどうするの」
「そんなことしないだろ?だから渡すんだよ。次にあそこに行くやつに渡そうと思ってたんだ」
「思ってたって……兄きは自分で返さないの?」
「俺はもうあそこには行けない」

 男は目を伏せる。微笑んでいるようにも見える。哀しんでいるようにも見えた。寂しいとか、惜しいとか、安堵とか、そういうものが混ざっているのかもしれない。夕暮れ時、橙が射す玄関先は少し眩し過ぎて、暗がりにいる男の表情全てを読み取ることは出来なかった。
 頬の怪我はもう治った。傷痕は残ってしまったけど、痛みは無い。それでも、何かと理由を付けてあの人の元へ行く俺のことを、この人はどんな目で見ていたのだろう。記憶を辿ろうとして、すぐにやめた。この人がどう思っていようが、俺の行動が変わる事はないし、過ぎた事はもう気にしても仕方のない事だ。

「じゃあ俺が貰っちゃいますけど、いいんですね?」
「ああ」
「後から返せって言われても、もう俺のだから返しませんよ」

 差し出されていた鈍色を掴む。男は何も答えずに、ただ笑って手を離した。