初恋シュクレ


「なまえ、もう講義終わったわよ」

肩を軽く揺さぶられ、落ち着いた声が耳に届く。ゆっくりと瞼を開けると、頬杖をつきながら呆れた様子でこちらを見ている幼なじみの姿があった。

「ふぁぁ…ちーちゃん、おはよう…」

丸めていた身体を起こし、その愛称を呼ぶと、彼女は相変わらずの表情で深いため息をついた。

「『おはよう』じゃないわよ。あんた毎回毎回寝過ぎ」
「いやぁ…お昼食べてお腹一杯になったら、眠くなっちゃって…」
「おばさん達も気の毒ね。せっかく学費出してくれてんのに、肝心の本人がこれだもの」
「大学なんて行かなくていいって言ったのに、無理やり行かせたのはあっちだもん」

多少の罪悪感はありつつも、本心をそのまま口にすると、ちーちゃんは少し困ったような笑顔を私に向けてから、ところでさ、と話題を変えた。

「今日はもう講義ないし、ゼミのみんなでカラオケ行こうって話してたんだけど、あんたはどうする?」
「行かない」
「あんたと話したいって言ってるゼミの男子、そこそこ居るんだけどねぇ…まぁ予想はしてたけど」
「その人達は、何で話したこともない女子なんかと話がしたいの?全然意味わかんない」

私のその言葉に、彼女は再び深いため息をついた。

「本当に昔からブレないわね、あんた…」
「だって興味ないんだもん。それに今日は、ちょっと寄るところもあるから」
「……あ。分かった」
「え?」

彼女はそう言うと、手にしていたスマホを少し操作してから、そのディスプレイを私に見せた。

「ここでしょ?」

映し出されたそれは、まさしく今から私が行こうとしていた場所に関するネットニュースの記事だった。

「え、すごい!ちーちゃん何で分かったの!?」
「まぁ、長い付き合いだからね。あんたとは」
「さすが学年主席の才女。頭の出来が私とは違う」
「それについては完全同意だわ」
「どうせ私は万年赤点ギリギリですよーだ」
「拗ねない拗ねない」

ちーちゃんはあしらうようにそう言うと、小さな子供を慰めるように、私の頭を軽く撫でた。

「仕事熱心なのは結構だけど、来月期末なの忘れちゃダメよ」
「わ、ワカッテマスヨ…」
「どうだか。まぁ、気をつけて行ってきなさいよ」
「うん!行ってくるね!」
「ケーキ奢るって言われても、知らない人についていくんじゃないわよ」
「はーい」

何だか失礼なことを言われた気もしたが、素直にそう返事をして、ちーちゃんに軽く手を振ってから、一足先に教室を後にした。
大学の最寄り駅まで5分。そこから15分ほど電車に乗れば、目的地の最寄り駅に辿り着く。ほぼ中身がなく、学ぶ気が一切感じられないと名高い鞄の中からスマホを取り出すと、現在時刻は14時32分と表示されている。

"お店"が一番混む時間だし、早く済ませて帰らないと。

再び鞄にスマホをしまい、キャンパスのアスファルトを蹴り上げて、私は駅までの道を走り出した。







「た、ただいま…!」

扉を開けると、甘い香りがふわりと鼻に抜ける。揺れる扉に合わせて、カラン、と鳴り響く鈴の音に、店の奥からよく知る二人の人物が顔を覗かせた。

「おかえり。随分急いで帰ってきたんだねぇ」
「ははっ、もう12月だってのに、すごい汗だなぁ」

優しい笑顔を浮かべながら、二人はいつものように私を出迎えてくれた。

「夕方が一番混むから、それまでに帰ってこようと思ったんだけど…思ったより遅くなっちゃった…ごめんなさい」
「いいのよ。大学の授業もあるんだから。無理しないの」
「そうだぞ。ワシらはこうして毎日孫娘の顔が見られるだけで満足なんだからな」

長年一緒にいるからだろうか。二人の笑顔はまるで双子のようにそっくりで、それがいつも私の心を和ませる。ぽっと蝋燭の火が灯るような、そんな二人の優しい笑顔がとても好きだ。

「今飲み物を持ってくるわね。ちょうどいい茶葉が入ってきたから、アイスティーにしましょう」
「え、いやいいよ…!それならちゃんとお金出すからっ」
「何言ってるの。いつも手伝ってもらってるのはこっちなんだから。これくらいご馳走させてちょうだい。ささ、今はお客さんも少ないし、カフェの席で待っていなさいな」
「でも」
「こういう時は、素直に甘えておくもんだぞ。その方がワシらは嬉しい」
「う…じゃあ、今日は甘えることにします…」

私がそう言うと、祖父と祖母はまたにっこりと笑って、奥のキッチンへと戻っていく。私は祖母に言われた通り、店のカフェスペースの窓側の席に荷物を置き、向かい側の席に腰を下ろした。




「はい。なまえはアッサムが一番好きだったわよね」
「うん。ありがとう。おばあちゃん」
「このシロップを入れて飲んでみて」

既にグラスに注がれたアイスティーに、祖母の言う通りにシロップを入れてかき混ぜ、それをひと口含んでみると、茶葉の深い香りが押し寄せたあと、爽やかな甘さが後に続く。

「ん!美味しい!」
「でしょう?」
「アイスティーだと香りがちょっと弱くなっちゃったりするけど、全然消えてないね!それに…なんだろ。レモン?いや、蜜柑、かな?柑橘っぽい香りがするような…」
「あら、さすがね。実はこのシロップ、蜜柑の蜂蜜を入れてあるの」
「あ、だからか」
「相変わらず、なまえは面白いくらいピタリと当ててくれるわね」
「えへへ…」
「ところでなまえ、その箱は…?」

祖母は私に向けていた視線を、テーブルに置かれた茶色い箱に向けた。

「あ、そうだった。これお土産…というか、敵情視察の成果物」
「敵?」
「大学から15分くらい電車乗ったところに新しくできたケーキ屋さんに行ってきたの」
「あぁ、なるほど。それで『敵情視察』ね」
「店員さんがおすすめですって言ってた、ショートケーキを買ってきたんだ。走ったから、ちょっと形崩れちゃったかもだけど……おじいちゃんとおばあちゃんの分も買ってきたから、後で食べて」
「まぁ、私たちの分まで…いいの?」
「うん!お店が終わったら、後で一緒に食べよう!」
「ふふ、ありがとう。楽しみね」

祖母はそう言うと、じゃあこれは冷蔵庫ねと、お土産の箱を大事そうに抱えながら、嬉しそうにくしゃりと笑った。先程よりも賑わいを見せ始めた店内を横目に、何だか勿体ない気もしたが、私は祖母がいれてくれたアイスティーを、喉の奥へと流し込んだ。







「……違う」

舌に残る記憶を辿り、敵情視察と称して先程食べたあの味を思い出す。しっとりしていて甘さが抑えられたスポンジと、それに合うように調整された甘すぎない生クリーム。そして少し酸味の強い小ぶりな苺。甘党の人には少し物足りないかもしれないが、まさしく大人のショートケーキといった感じのそれは、全てのバランスが整っていて、悔しいけれどとても美味しかった。

「スポンジがなぁ…」

目の前には、既に作り終えたショートケーキが3つ。
見た目はほとんど同じだが、材料の比率や工程を微妙に変えて作ったそれらは、それぞれに良さもあるが、先程食べたあのショートケーキのような、整ったバランスとは程遠い。フォークでひと口ずつそれらを口にすると、生クリームの口当たりと味はそれなりに近しい気はするが、スポンジの味に違和感がある。甘さはほとんど記憶と差異がないのに、さっき食べたものと比べると、味の深みが弱いのだ。

「砂糖かな…?」

違和感の正体が何となくそこにある気がして、キッチンの一番奥にある棚から、今あるだけの砂糖を取り出し、作業台の上に並べてみる。

「深み…を出すなら…」

よし。これにしよう。

オーブンを余熱し、その間にもう一度生地を作る。ほぼ感覚で選んだ砂糖と混ぜ合わせたそれを、先程洗って乾かしたばかりの型に流し入れてから、温まったオーブンの中にそっと入れた。

「どうか今度は、上手く出来ますように!」

祈るようにパン、と手を合わせた瞬間、店の方からカラン、というよく聞き慣れた音が響いた。

「あ、やばっ。お店閉め忘れてた…っ」

咄嗟にキッチンの時計を見ると、時刻は21時24分。
今日はお客さんがほとんど居ないからと、早めにケーキ作りの練習を始めたことが災いした。夢中になりすぎて、店じまいの作業をすっかり忘れていたのだ。
ここからではどんな人物かあまりよく見えないが、ショーケースの前に誰かが立っているのは確かなようで、その人物の僅かな動きに合わせて、景色も微妙に変化した。

とりあえず、急いで謝らないと。

コックコートの帽子だけを外し、急いで手を洗って店の方へと足早に歩いた。明日二人にも謝らなくちゃ。そんなことを頭の片隅で考えながら。

「ごめんなさい。今日はもう───」




「お」

私の声に振り返ったその人物に、思わず言葉を失った。

店を訪れていたのは、おそらく私より少し年上、20代後半くらいに見える、黒い帽子を被った綺麗な男の人だった。男の人に綺麗だなんて言葉を使うのは失礼かもしれないが、他になんといえばいいのか分からないほどに、すごく整った顔立ちをしている。
帽子から少し覗く髪色は左右で異なる色をしていて、少し切れ長な目の色も、左右の色が非対称だ。左目の周囲に大きな火傷のような痕があり、少し痛々しくも感じたが、それを差し引いても素敵な人だ。

「きれい…」
「は?」

無意識に口にしてしまったその言葉に、彼は小さく声を発した。しまった。口が勝手に動いていたらしい。

「す、すみません…。なんでも、ありません…」
「そうですか」

初対面の女の怪しい発言を、その人は一切気にも留めない様子だったが、それがかえって羞恥心を刺激した。恥ずかしい。絶対変に思われた。穴があったら早急に入りたい。

「……あの、まだやってますか?ここ」
「あ」

そうだった。私はそれを伝えるためにここに来たのだ。現実離れしたこの人の綺麗さに忘れかけてしまったが、自分のミスで彼に勘違いをさせてしまったことを、きちんと謝らなければ。

「その、本当は20時に閉店なんですけど、私がお店を閉め忘れちゃって…」
「そうですか」
「ごめんなさい…わざわざ来ていただいたのに…」
「いえ。まぁ普通やってないですよね。こんな時間には」
「あの、何かお急ぎのもの…ですか?」
「姉の誕生日だったんですけど、思ったより仕事が遅くなってしまって」
「そうだったんですか…」

せめて残っているケーキがあれば、それを渡してあげることも出来たのだが、今日の在庫は全て破棄してしまったし、さすがに今からおじいちゃん達に作ってもらう訳にもいかない。

せっかく来てくれたのにな…。

「俺の読みが甘かっただけなんで、そんな顔しなくていいですよ」

淡々とした口調ではあるが、私を気遣ってくれたであろうその言葉に、お節介は承知の上だが、余計に何かしたい気持ちに駆られた。この人のお姉さんということは、そこそこ大人の女性だろうし、別に誕生日にケーキがなくても、きっとそれほど影響はないのだろうけど。

「あの…この近くのケーキ屋さんで、まだ開いてるところがないか、ちょっと調べてみましょうか…?」
「いいんですか?」
「はい。えっと…歩きですか?」
「いや、車です」
「わかりました。じゃあ5キロ圏内くらいで探してみます」
「ありがとうございます」

軽く頭を下げる彼につられるように私も頭を下げ、店のノートパソコンを開く。この店を拠点として半径5キロの範囲の洋菓子店を検索し、表示された一覧を上から順に見ていくが、はやりどこの店も20時閉店か、遅くとも21時には店を閉めているようだ。

「この辺りにはなさそうですね…」
「そうですか」

ほんの僅かに落胆の表情を浮かべた彼に、他に何か出来ることはないかと必死に考えるも、そう易々といいアイデアがすぐに浮かぶはずもなく、互いの間に気まずい沈黙が流れた。

「お力になれなくて、すみません」
「いえ、さっきも言った通り、俺が悪いんで」

じゃあ、と彼が店を出ようと足を一歩前に出したその時、唐突に耳を刺す機械音が響いた。

「あっ…!!」

思いついた。かなりの賭けだけど、今からお店を探すよりも、ずっと現実的なアイデアを。

「どうかしましたか?」
「あの、あと30分…いえ、20分だけ待ってて貰えますか!?」
「え…まぁ、大丈夫ですけど」
「ありがとうございます!ちょっとそっちに座って待っててください!」

そう言うと、彼は小さく首を縦に振り、店のカフェスペースへと足を進めた。そんな彼の背中を横目に、私はもう一度キッチンへと戻り、先程聞こえた機械音の正体の前へと立つ。
もしもこれがダメだったら、すぐに戻ってあの人に土下座しよう。無機質な取っ手を握りしめ、祈る気持ちをめいっぱいに込めて、私はその扉をゆっくりと開けた。







「すみません…っ、お待たせしました…!」

私がテーブルに置いた白い箱を見つめながら、彼はその特徴的な色違いの目をぱちぱちと動かした。

「これは…」
「私が作った物ですけど、良かったら……あ。中身も一応お見せしますね」

箱の蓋をゆっくりと開けて見せると、彼は驚いたように小さく声を上げた。

「今作ったんですか?」
「はい」
「すごいですね。こんなにすぐ作れるなんて」
「あ、いえ、たまたまです。今日はショートケーキの練習していたので…」
「練習?」
「えっと…実はこのお店、私の祖父母の店なんです。私はまだ見習い中の身でして…」
「あぁ、なるほど。どおりで」
「え?」
「店主にしては、随分若いなと思いました」

私をじっと見る切れ長の瞳に、心臓がどくん、と音を立てた。理由は分からないけれど、向けられた視線に耐えられず、逃げるように彼から顔を逸らした。

「あ、あの…それでですね。さっきも練習してたんですけど、なんだか納得いかなくて。実はお客様がいらした時は、もう一回作り直そうと思って、スポンジを焼いてた途中だったんです」
「そうだったんですか。すみません」
「あ、いえ…。で、さっきちょうど新しいスポンジが焼けたんですが、今までで一番良い出来だったので、これならお渡ししても大丈夫かもって…」

もしもスポンジの出来が壊滅的だったら、土下座して謝罪しようと覚悟を決めていたが、砂糖を変える作戦が功を奏し、自分的には納得のいく仕上がりになっていた。
祖父母やあのケーキ屋さんのパティシエのように、プロの味にはまだまだ遠いが、今の自分のベストは出せた気がする。

「素人が作ったもので申し訳ないんですけど、今からお店を探すのも大変でしょうし、お金は要らないので、もし良かったら…」
「ちゃんと払いますよ。店調べてもらったりとか、色々させてしまったし」
「お金を頂けるようなレベルじゃないですし、それに私が勝手にやったことなので、貰っていただくだけで充分です!」
「いや、でも」
「じゃあこうしましょう!もしまた次来る機会があったら、その時お店のケーキいっぱい買って下さい!!それでどうですか!?」

詰め寄るようにそう言うと、彼は再び目をぱちぱちと動かしてから、何故かふっと吹き出した。

「あ、あの……私、何か……」
「あぁ、悪ぃな。すげぇ必死な顔して訴えてくるから、なんか笑っちまった」

彼はそう言うと、喉をクツクツ鳴らして笑ってみせた。今までほとんど表情を変えることのなかった彼の笑顔に、何だかすごくそわそわした。改めて見てもやはり綺麗な顔立ちだが、笑った顔はほんの少しだけ幼く見えて、何様な言い方かもしれないけど、それは今まで見たどんな彼の表情よりも、素敵だなと思った。

こんな顔もするんだなぁ……この人。

「すいません。つい普段の口調で」
「あ、いえ…たぶん私の方が年下だと思いますし…お気になさらず…」
「いくつですか?」
「もうすぐ21になります」
「じゃあ今はちょうどハタチか。結構年下なんだな」
「えっと…お客様は…」
「26。まぁ俺も、来月27になるけど」
「あ、じゃあ同じ1月生まれですね!何日ですか?」
「11日。お前は?」
「私は6日です。私の方が、ちょっとだけ早いですね」
「そうだな」
「もし良ければ、お客様のお誕生日もぜひ当店をご利用下さいね!」
「しっかりしてんな、お前」

彼はそう言うと、今度は落とすように小さく笑った。さっきの笑顔とはまた違う、落ち着いた雰囲気のその顔つきに、彼と私の間にある、6年という歳月の差を感じた。

「話が逸れちまったが、本当にこれ貰っていいのか?」
「は、はい!!」
「じゃあ、今回はありがたく貰っとく」
「ありがとうございます!」
「こっちこそ。すげぇ助かった。ありがとな」
「お姉さんが喜んでくれるといいんですけど…」
「大丈夫だ。絶対喜んでくれる」

迷うことなくはっきりとそう言い切られて、嬉しいような照れくさいような。でもこの人のお姉さんなのだから、弟さんが持ってきたものを無下にするようなことは、きっとしないだろう。全くもって根拠はないが、何となくそんな気がする。

「冬なので大丈夫だと思いますけど、一応保冷剤入れときました」
「おう」
「それと、大事なことを言い忘れてました」
「なんだ?」
「今さら過ぎますが、お姉さんのお誕生日、おめでとうございます!」
「……あぁ。ありがとう」

少し間を置いてそう呟くと、彼はゆっくりと私の方に手を伸ばし、それをぽん、と私の頭の上に軽く置いて、三度目の笑顔を私に見せた。

「練習邪魔して悪かったな。頑張れよ」




私の頭から手を離し、彼はその手で店の扉をゆっくりと開けた。カラン、という聞き慣れた音が再び鳴り響いたその瞬間、自分でも信じられないことが頭の中に浮かび上がる。"そういうもの"には興味がないと、つい数時間前口にしたのは、紛れもない私だったのに。

「じゃあまた」

そう言いながら見せる横顔も、細身なのに意外と大きなその背中も、片方の手をポケットに入れる些細な仕草ですら、全てを目に焼き付けたくて、瞬きすら惜しいと感じてしまう。社交辞令だと頭では分かっているのに、彼が口にした"また"という言葉に、図々しくも期待が募る。

「ありがとう、ございました」

彼のいなくなった店内で、思わずその場に崩れ落ちた。私の人生にこんな少女漫画的展開があるなんて、そんな話は聞いていない。だけど彼が扉を開けたあの瞬間、はっきりとそう思ってしまった。募る期待のその訳を、はっきりと確信してしまったのだ。




「また、会えるかな」

名前も知らないその人に、私は今日、初めて恋に落ちてしまった。


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2021.08.01

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