「は?」

至って冷静な表情で、彼女は私をまじまじと見た。人間という生き物は、予想の範疇を飛び越えた出来事に遭遇すると、こういう顔をするらしい。

「まぁ…信じられないよね…」
「いや、信じるけどさ。ただ普通にびっくりしたっていうか、まさかそんなことになってるとは、夢にも思わなかったから」

淡々とそう口にしながら、ボックス席の向かい側に座る彼女は、つい先ほど運ばれてきたカップを手に取り、その中をじっと覗き込んだ。見た目は全く違うのに、その仕草があの日の彼と重なって、自然と顔が熱くなった。

「……焦凍さん、なんであんなことしたのかな…」
「なんでって、したいからした決まってんでしょ」
「それはまぁ、そうかもしれないけど…!」
「で。どうだったのよ?初恋の人とのファーストキスは」

持ち上げたカップの中身を一口含むと、ちーちゃんはニヤニヤしながらそう尋ねた。

「どうって…」

たった一度だけ唇に落とされたその感触が、今もまだちゃんと残っていて、自分の指でそこに触れれば、鮮明にあの瞬間が蘇る。頬を包む大きな手、射抜くような視線、そして。

「溶けちゃいそうな感じ、だったの…」

手も視線も、唇も。全部が熱くて溶けそうだった。思い出しては恥ずかしくなり、でも思い出さずにはいられなくて、その度にあの人を好きだと思い知らされる。ここしばらくは、ずっとその繰り返しだ。何をしていても、誰と一緒にいても、今この瞬間も、ほんの些細なことが彼を思い出すきっかけになって、その度に鼓動が速くなる。少し気を抜くと、頭の中が全部焦凍さんでいっぱいになってしまいそうで、気持ちが溢れてしまいそうで、それが時折怖くなる。

「焦凍さんが好きすぎて、おかしくなりそう…」
「恋する乙女ねぇ。……それで、その後向こうはなんて言ってたの?」
「『また会ってくれるか』って聞かれて」
「ほほう」
「私が『はい』って返事したら、『じゃあまた連絡する』って」
「……それだけ?」
「あと、寒いから早く中に入れって」
「そういうことじゃないわよ!」
「え?」
「そうじゃなくて、付き合おうとか、好きだとか、そういう言葉はなかったの?って聞いてんの!」
「うん。ないよ」
「『ないよ』って…何を呑気なことを…」

ちーちゃんは深いため息をつくと、眉間にシワを寄せながら、私の前に人差し指を立てた。

「あんたそれ、自分が下手したら都合のいい女になるかもしれないって、自覚してる?」
「え…?」

予期していなかったその言葉に、思わず小さく声を上げた。そんな私の反応を見ると、彼女は再びため息をつき、「やっぱりね」と目を伏せた。

「ど、どういうこと?」
「普通はそういうことになったら、付き合うかどうかって話になるじゃない。けどそれはないんでしょ?今のところ」
「う、うん。そうだけど…あの、都合のいい女になるかもって…」
「もちろんそうとは限らないわよ。ただ言葉足らずなだけって可能性もある。けどもしもこのまま向こうが何も言ってこなければ、"そういう可能性"もあるってことは、ちゃんと頭に入れときなさい」
「……そういう、可能性…?」
「相手が本気じゃない可能性もあるかもってこと」
「本気じゃない、って」
「言葉を選ばず言うなら、キスやセックスはしたいけど、恋人にするつもりはないかもってことよ」
「焦凍さんは、そんなことしないよ」
「そんなの言い切れないじゃない」
「そんな、こと」
「確かにあんたの話を聞く限りは、そんな人じゃないと思うわよ。けど世の中には、"まさかあの人が"、なんて、よくあるじゃない」

そんなこと、あるわけない。そう言いかけた私の言葉を遮って、ちーちゃんははっきりとそう口にした。耳を塞ぎたくなるような彼女の言葉に、心がちくちくと痛みはしたが、それは確かに的を得ていて、残酷なほどに正しかった。
フィクションでも現実でも、まさかあの人が、なんてことは、そこら中にありふれている。

「……好きじゃない人とでも、そういうことって出来るものなの…?」
「あたしやあんたは無理よ。けど、そういう人は一定数いるの。精神的な繋がりは要らなくて、好きになったり、なられたりするのは面倒って人がね」
「そんなのって…」

その可能性を考えただけで、鼻の奥がツンとした。
なんの気持ちも伴わない関係なんて、そんなの辛い。耐えられない。どれほど近くにいられたとしても、恋人みたいなことが出来たとしても、そんなのきっと虚しいだけだ。

「まぁ、あくまで可能性の話よ」

焦凍さんに何を言われたわけでもないのに、勝手に傷つき泣きそうになっている私に気づいたのか、ちーちゃんはいつもより少しだけ高い声で、笑顔でそう呟いた。

「そういう心構えをしておいた方が、万が一そうだった時に、心の傷は浅くて済むの。だから一応言っただけ。そうと決まってるわけじゃないわ」

私の頭に手を置いて、彼女さらにそう続けた。ちーちゃんはそう言ってくれたけど、心に燻り始めたものは、そう簡単には消えなくて、それは確かな不安となって、その片隅にこびり付いた。







「あ、おかえり。なまえ」

リビングのドアをそっと開けると、玄関から既に漂い始めていたスパイスの香りが、また一段と強くなった。カウンターキッチンの奥に立つ祖母は、私の方に少しだけ目をくばせると、コンロに置かれた寸胴鍋に、再び視線を落としてみせる。

「ただいま。今日はカレー?」
「そうよ。なまえも食べる?」
「うん」

小さくそう返事をすると、祖母はコンロの火を消し、食器棚から白い皿を二つ取りだしてから、炊飯器の蓋を開けた。同じく白い湯気が立ちこめる中、さらに同じく真っ白なお米を、慣れた手つきで盛り付けた。

「早かったわね。てっきり晩ご飯は、千春ちゃんと食べてくるかと思ったけど」
「ちーちゃん、今日はバイトだから」
「あぁ、なるほど」

納得したようにそう口にしてから、祖母は再びコンロの前まで戻り、カレーのルーをそこへ流し込む。例の話でだいぶ落ち込んでいた私だったが、それでも食べたいと思えてしまうのだから、なんとも魅惑的な食べ物である。

「はい。じゃがいも多めにしといたわよ」
「ありがとう。いただきます」
「どうぞ〜」

祖母も向かい側に腰を落として、銀のスプーンを手に取った。そんな様子を視界で捉えながらも、一足先にそれを掬い取り、一口ぱくりと放り込むと、口内にあの特徴的な味が広がっていく。咀嚼を繰り返すその度に、スパイスの香りが鼻に抜けて、小さな幸福が折り重なっていく。美味しいものを食べれるということは、一見手軽なようでいて、とても尊いことだと、こういう時に改めて思う。

「そういえば、おじいちゃんは?」

いつもなら一緒に食卓を囲むはずの人物が見当たらず、純粋にその疑問をぶつけると、祖母は困ったような、呆れたような、そんな複雑な笑みを浮かべた。

「今日は麻雀仲間と約束があるんですって。出ていく時、夕飯は家で食べるって言ってたけど、この分だとしばらく帰ってこないわね」
「……ねぇ、唐突な質問してもいい?」
「あら、何かしら」
「おばあちゃんとおじいちゃんって、製菓学校の同級生なんだよね?」
「えぇ」
「ってことは、恋愛結婚なんだよね?」
「そうなるわね」
「どっちから告白したの?」
「どっちだと思う?」
「………おばあちゃん」
「ふふ。正解」
「やっぱり」

にっこり笑うその笑みに、自然とつられて口角が上がる。予想通りというか、なんというか。家族と話をする時や、お酒が入っている時は別だが、普段はどことなく人と一線を引いているように見える祖父が、異性に告白している姿というのは、正直あまり想像できなかった。

「まぁ、先に私を呼び出したのは、おじいちゃんの方だったんだけどね」

懐かしそうにそう語る祖母の言葉に、食べ進めていたその手の動きが止まる。

「"呼び出した"ってことは、おじいちゃんも告白しようとしてたってこと?」
「たぶんね。あの人ったら、話があるって呼び出したくせに、いつまで経ってもくだらない話ばかりで。だから痺れを切らして、私から言ってやったのよ」
「な、なんて言ったの?おじいちゃんに」
「別にたいしたことは言ってないわ。『私はあなたが好きだから、あなたも同じなら付き合いましょう』って」
「えー、それを面と向かってキッパリ言えるのがすごいよ」
「若さゆえの無鉄砲さよね。まぁそれに、向こうが私を好きっていう確信はあったから」
「そ、そうなの…?」

きっぱりと言い切った祖母の言葉に、自分がとても不甲斐なく思う。好きな人とキスを交わしてもなお、相手の気持ちに何一つ確信を持てない私とは、大違いだ。

「色々と口実をつけては、わざわざ違うクラスの私のところに来たり、連絡先を聞いてきたり、デートに誘ってきたりとかね。本人としては、当時相当必死だったんだと思うわよ」
「あのおじいちゃんが…!」
「でも結局、あの人から『好き』とか『愛してる』とか、そういう言葉を聞くことはなかったわね。プロポーズの言葉もなかったし」
「え!?」

思わず大声を上げる私に、祖母は愉快そうに笑ってみせた。歳を重ねていけば、自然と言わなくなったりするんだろうなと、漠然とそんなことを思っていたが、まさか過去に遡っても、はっきりとした言葉がなかったとは驚きである。

「その、今更こんなこと言うのもあれなんだけど…好きって言われなくて、不安になったりとかしなかったの?」
「んー、そうねぇ。まぁ、ドラマみたいに情熱的な告白に憧れがなかったと言えば嘘になるけど、不安に思ったことはなかったわね。手先以外は不器用な人だから、女遊びが出来るようなタイプでもないし」
「まぁ、それはそうだけど…」
「それに男の人っていうのは、そういう生き物だから」
「"そういう生き物"?」
「言葉で愛情を表現するのに不向きなの。私たち女と違ってね」

だから仕方ないのよ、とそう何気なく呟かれた祖母の言葉に、胸の奥に再びモヤモヤしたものが湧き上がる。もちろん誰もがそれに当てはまるわけではないだろうが、私の何倍も生きている彼女が言うのだ。きっとそういうものなのだろう。だけどそれでも、やっぱりそれが欲しいと思ってしまう私は、それを好きな人に求めてしまう私は、ただのわがままなのだろうか。

「それで?デートには誘ってくれたのに、そういう言葉を言ってくれない焦凍さんに、なまえはご不満ってことかしら」
「不満、っていうか…よく分かんないなぁって……あっ」

うっかり滑らせた口を慌てて塞ぐが、当然それは無意味である。祖母はしてやったりという顔を浮かべながら、口を噤んだ私に向かって、やっぱりね、と一言漏らした。

「ふふ、隠すことないのに」
「い、いや、えっと…その…」
「いいわねぇ。あんなかっこいい人に誘ってもらえるなんて」

うっとりしたような表情でそう口にした祖母に、なんとも言えない複雑な心境にかられた。誘ってもらったことはもちろん嬉しかったし、実際夢のように幸せな時間を過ごしたことも事実だけど、彼の言動の真意については、正直さっぱり分からない。自分に恋愛経験が皆無なことに加えて、焦凍さんのあの淡々とした振る舞いが、さらにそれに拍車をかけている。

「まぁ、それは…そうなんだけど…」
「何か気になることでもあるの?」
「……もしかしたら、からかわれてるだけなのかも、って…」
「真面目そうだし、そんな人には見えないけどねぇ」
「それは、私もそう思うけど…」
「なら、どうしてそう思うの?」
「だって、あんなにかっこよくてすごい人が、こんなどこにでもいるような大学生なんか、相手にするわけないもん」
「まぁ、女の子に不自由することはなさそうよね。あの見た目なら」
「そうなの!絶対モテるし、色んな女の人に声をかけられるはずなの!なのに、なんか色々…すごく思わせぶりで…もうわけ分かんないの!」

よくよく振り返ってみると、期待してもいいような言動は、あったような気がしなくもない。でも都合の良い解釈だと言われてしまえば、そうかもしれないと思えてしまって。

「色々分かんなくて、モヤモヤするの…」

焦凍さんが好き。いつかこの恋を失う日が来たとしても、私にとってのあの人は、きっといつまでも特別で、例え他の誰かを好きになったとしても、一生忘れることはないだろう。
だけど彼にとって、私がそんな相手になるかと言えば、それはノーだ。これまでも、これからも、焦凍さんが出会うであろう大多数が、私よりきっと、ずっと魅力的な人だろう。

「ふふ。恋する乙女ねぇ」
「……それちーちゃんにも言われた」
「千春ちゃんは、恋人いないの?」
「いないよ。合コンとかは付き合いで行くみたいだけど」
「美人だから、人気ありそうなのにね」
「実際人気だと思うよ。お眼鏡にかなう男の子がいないってだけで」
「なるほど」

納得したようにそう呟くと、しばらく手をつけていなかった食事を、祖母はようやく再開した。

「あーあ、私もちーちゃんみたいに、美人で頭のいい子になりたかったなぁ…」
「あら、なまえだって十分可愛いわよ」
「だからそれ、孫フィルターだって…ただの贔屓目だって…」
「ご謙遜。現にあんな素敵な人から、デートに誘われてるじゃないの」

期待はしている。してしまっている。でももし違っていたらと思うと、保険をかけずにはいられない。

「だからそれはさぁ…」

最後の一口を食べ終えてから、そこまで言いかけたところで、お馴染みの振動音が鳴り響く。ダイニングテーブルの上に置かれたそれは、規則的にその場で揺れてから、ほんの僅かにこちらに近づいた。

「電話?」
「ううん。もう鳴り止んだし、たぶんメッセージだと思う」

何気なくそれを手に取って、伏せて置いていたスマホのディスプレイを見てみると、そこに表示されていた無機質な文字に、スマホを持つ手に力が入った。

"今電話してもいいか"

記号も絵文字も何もついていない、シンプルかつ素っ気ないその文字は相変わらずで、うっかり顔がにやけそうになる。送信元に表示されたその名前は、今この瞬間も私の心を独占している、あの人のものだ。

「どうかしたの?」

急に黙り込んだ私を変に思ったのか、祖母は不思議そうに声をかけた。ついさっきまで向かい合って話をしていたというのに、焦凍さんからたった一言メッセージをもらっただけで、その存在を忘れかけてしまっていた。なんという孫不幸な女なのだろう。

「えっと、あの……ちょ、ちょっとやらなきゃいけないこと思い出したから、部屋戻る!」

ここで焦凍さんの名前を出せば、きっとからかわれるに決まっている。そう思って濁したのに、祖母は何かを察したように笑みを浮かべながら、良かったわねと口を開いた。

「な、何が…?」
「さっきの悩みも、これで少しは解決するのかしらね」
「…っ、ご馳走様でした!!」

キッチンに食べ終えた食器を片付けて、逃げるように部屋へと立ち去る。背を向けていても、今祖母がどんな顔をしているのかは、何となく分かってしまった。幼なじみといい、祖母といい、私の身近な女性たちは、揃いも揃って察しが良すぎる。







部屋に戻りながら、大丈夫ですと一言返すと、送ったメッセージの隣側に、直ぐに"既読"の文字がついた。この間の行き先や待ち合わせを決める時に、何度かやり取りはしているが、電話をするのは初めてのことで、不自然にそわそわしてしまう。
緊張からか、恋心ゆえか、トクトクと鳴る胸にスマホを握る左手を当てながら、反対の手で自分の部屋のドアに手をかけると、それは再び震え出した。恐る恐るディスプレイに視線を落とすと、着信画面と共に、"轟焦凍"の名前が表示され、既に加速し始めていた心拍が、さらに速くなるのが分かった。

「か、かかってきちゃった…!」

大丈夫と言ったのは自分なのに、今になって怖くなる。なんの用事だろう。何を言われるんだろう。僅かな期待も孕んだ不安を抱えながら、今もなお鳴り続ける着信の合図に急かされて、私は通話のボタンに触れた。

『お、出た』

電話越しに聞こえる焦凍さんの声は、いつもと変わらず淡々としていて、それが安心するような、がっかりするような、そんなことを思った。

「こ、こんばんは」
『急に電話しちまったけど、本当に今大丈夫だったか?』
「大丈夫です。ちょうどご飯食べ終えたところで、暇でしたし…」
『そうか』

電話の用件を聞く体勢に入っていたのに、彼は短く返事をしただけで、これといって何かを切り出すことはなく、焦凍さんと私の間には、よく分からない沈黙が流れた。

「あ、あの…どうかしましたか?」
『別にどうもしねぇけど』
「え?」
『え』

疑問の意味で小さく声を上げると、彼はその意図が分からなかったのか、おそらくニュアンスは違うだろうが、同じように声を上げた。

「えっと…用があったから、電話してきたんじゃ…」
『用がないと、かけちゃダメだったのか』
「い、いえ…」

表情こそ見えないものの、どことなく拗ねたような、けれど少し不安げに尋ねてくるその声に、きゅうっと胸が締め付けられる。果たしてその言葉の向こう側には、どんな気持ちがあるのだろう。それを私に伝える気が、焦凍さんにはあるのだろうか。

「そんなこと、ないです」
『なら良かった。で、今日は何してたんだ?』
「え、えっと…朝起きて、顔洗って、歯磨きして…」

今日の出来事を順番に思い出していると、どうしたことか焦凍さんは、電話の向こうで軽く笑ってみせた。

「な、なんで笑うんですか…っ」
『いや、まさかそんな最初から話してくれると思わなかったから』

笑いを堪えながら、絞り出すようにそう口にした彼の言葉に、頬がかっと熱くなる。別に間違ったことを言ったわけじゃない。それなのに、すごく恥ずかしい気持ちになって、他には誰もいない自分の部屋で、そっと身を潜めたい衝動に駆られた。

「す、すみません…要約して話します…」
『別にダメなんて言ってねぇよ。で、その後はどうした?』
「その後は…着替えて、メイクして、出かけました」
『一人でか?』
「あ、いえ、友達と会う約束してたので…途中までは一人でしたけど、その後はずっと二人ですね。買い物して、その後お茶して帰りました」
『友達って、例の幼なじみか?』
「はい」
『本当に仲が良いんだな』
「小さい頃から、ずっと一緒ですからね」
『ずっと一緒か。いいな』
「焦凍さんにだって、学生時代からのお友達がいるじゃないですか。似たようなものですよ」
『……まぁ、予想通りの解釈だな』
「え?」
『いや、こっちの話』
「焦凍さんは、今日は何してたんですか?」
『午前は休みで、昼から仕事』
「今日のお仕事は、もう終わったんですか?」
『いや、今は休憩中。今日は宿直だから、休憩明けたら朝まで仕事だ』
「え!?」

あっけらかんとそう口にした焦凍さんに、大袈裟に一人声を上げた。

「そ、それならちゃんと休んでください!電話切りますから!」
『いや、なんでそうなるんだよ』
「だって私と話してたら、休憩する時間がなくなって…」
『お前、さすがにそこは汲み取ってくれよ』
「はい?」
『休憩"だから"、電話してんだろ』

よく分からずに短く聞き返す私に、彼は大きなため息をひとつ落とすと、呆れたようにそう呟いた。そんな焦凍さんの言葉に、少し落ち着いたはずの頬の熱が、再びぶり返してしまった。

「休憩に、なりますかね…?私と話してて…」
『なるからかけてんだろ』

些細な言葉じりですら、私を酷く動揺させる。気持ちが伴わない方が楽な人もいると、ちーちゃんはそう言っていたけど、本当になんとも思わない相手に、こんな台詞を言えるだろうか。真面目なこの人に、そんなことが果たして出来るだろうか。

『というか、話して疲れる奴には、そもそも電話しねぇ』
「それはまぁ、そうでしょうけど…」
『まぁでも、宿直の前に片付けるやつがあるから、そろそろ仕事戻んねぇとだけど…』
「忙しいんですね。やっぱり」
『宿直の間は、結構暇なんだけどな』
「そうなんですか?」
『何もない日はそんなねぇけど、大抵酔っぱらいの喧嘩とか、些細なトラブル対応がほとんどだから』

やれやれといった様子でそう口にした焦凍さんに、そういえば以前、彼が祖父の相手をしていた時のことを思い出した。あまりそういうことが得意なタイプには見えないのに、酔っ払う祖父を上手くあしらっていたその背景には、そういうことがあったのか、と勝手に一人で納得した。

「それはそれで大変ですね。その、色んな意味で…」
『まぁそういう変な奴が多いから、夜一人で出歩いたりするなよ。前にも言ったけど』
「はい。あの…心配とかするのも失礼かもしれないですけど、焦凍さんも、気をつけてくださいね」
『あぁ。ありがとな。電話付き合ってくれて』
「いえ、そんな、全然…っ」
「じゃあまたな」
「はい。いってらっしゃい」

自分から切るのは名残惜しくて、焦凍さんが電話を切るまではと、数秒間そのままスマホを耳に当てていたものの、通話が途切れた時に響く音が、いつまで経っても聞こえてこない。

「あの、焦凍さん…?」
『……今の』

どうかしたのだろうかと、恐る恐るその名前を呼ぶと、彼は少しの間を置いてから、突然そんなことを言い出した。

『今の、もう一回』
「今のって…?」
『最後に言ったやつ』

そこまで聞いて、"今の"という言葉が何を指すのか、ようやく理解した。なんとなく発したその言葉を、改めてもう一回と求められると、妙に照れ臭くなってしまうのだが、もう仕事に戻らなければならない焦凍さんを、ここで引き留めるわけにもいかない。
今もなお音を立て続ける心臓に手を当てながら、静かに、けれど少しいつもよりも丁寧に長く、息を大きく吸い込んだ。

「……いってらっしゃい」
『ん。行ってくる』

低く穏やかな優しい声で、彼はそう言って電話を切った。通話が終わったことを示す、規則的な電子音を確かに聞きながらも、鼓膜に残る焦凍さんの声が、何度も何度もこだまして、私をいっぱいにしていく。あの人は、本当に私をどうしたいんだろう。その言葉に、行動に、優しさに触れる度に、いつも同じことを思ってきたけど、さらに切実な問題になりつつある。

期待していいの?ダメなの?
ねぇ、どっち?

あの日のキスから、冗談でも大袈裟でもなく、本当に四六時中、頭の中には彼がいて、ふと気がついた時には、あの日の答えを探している。そして今も、こうしてあの人のことを考えている。

「期待しちゃうんだけどなぁ…電話なんかされちゃうと」

肝心な言葉は、何一つとして聞いていない。けれどその言動の端々から、そういうものを期待してしまう。祖母の話が本当なら、言葉はなくとも、焦凍さんの言動の裏側には、そういう意味があるかもしれないと。
もしかしたら、万が一、ひょっとしたら。彼が私と、同じ気持ちでいてくれているのだとしたら。そんなことを考えながら、着信履歴の一番上にある、愛しい名前を指でなぞった。







店の手伝いの休憩中、唐突に震えたポケットのスマホを、期待を込めて手に取るも、理由はなんてことはない、動画アプリの通知だった。

「紛らわしい…!」

あの電話を境に、数日置きに焦凍さんと連絡を取るようになったのだが、彼の仕事の都合からか、返事の時間と手段はまちまちで、朝だったり夜だったり、電話だったりメッセージだったりする。そのせいか、スマホの通知にかなり過敏になってしまい、大抵は期待外れに終わるこの行為を、一日何度も繰り返すようになってしまった。数ヶ月前まで、丸一日くらいなら、平気でスマホを部屋に放置していたというのに。
文明の機器を通じて互いの日常や嗜好に触れるその時間は、私にとってとても尊いものだった。しかし、相変わらずお互い核心には触れず、よく分からない状態が続いていて、漠然としたその不安は、今も私の胸の中にあった。

「はぁ…」

いっそのこと、はっきりさせてしまいたい。そんなふうに思う日もある。けれどそれを確かめるのは、どうしたってすごく怖い。ちゃんと聞かなきゃいけないのに、それを自分から口にしたことで、始まってすらいない関係が、あっけなく終わってしまうことが怖いのだ。

私のこと、どう思ってるんですか?そんなことを聞く勇気なんか、私にあるはずもない。

「あらまぁ、またそんな深いため息ついて」

ふと耳を掠めた穏やかな声に視線だけを動かすと、店の方へ続く階段の近くに、困ったような笑みを浮かべる祖母が立っていた。

「……色々あるんだよ。若者には」
「ふふ、悩みが尽きないわね。ところで、なまえ、休憩中に悪いんだけど、おつかい頼まれてくれない?」

小さく笑いながらも、その表情は相変わらず困った様子をしていて、祖母は申し訳なさそうにしながら、私に向かってそう言った。

「いいよ。おつかいって、買い物?」
「お届けもの。才川さんのお宅に、これを持って行って欲しくて」

そう言いながら祖母が見せたのは、店で一番大きなケーキの箱だった。彼女の言葉の意味は理解出来たが、自分の記憶が確かなら、そこには不可解な点があった。

「それ、予約してもらってたケーキだよね?」
「えぇ」
「確か、18時に届けるって言ってなかったっけ?」
「そうなんだけど、急遽15時に変更出来ないかって言われちゃって。なまえの足なら間に合うかもって思ったんだけど…」

リビングの壁にかけられた時計を見ると、現在時刻は14時12分。そんな私を覗き込むように、どうかしら、と付け足しながら、祖母は小さく首を傾げた。

「15時までなら、今から出ればちょっと前くらいに着けると思うよ」
「本当?お願いしてもいいかしら?休憩は後でまたとってくれていいから」
「大丈夫だよ」
「助かるわ。こういう時、若い人がいるといいわね」
「じゃあ、今から急いで行ってくるね!」
「お願いね。才川さんには、私から電話を入れておくから」
「はーい」

一度自分の部屋に戻ってコックコートを脱ぎ、普通の服に着替えてから、窓を開けて外の様子を確かめる。ふと視線を落とし、近くに植えられた桜の木を見ると、空へと伸びた枝先で膨らむ桃色が、春の訪れを待っていた。そんな気配を感じつつも、頬に当たる風はまだ少し冷たく、私はもう一枚上着を羽織ってから、窓を閉めて部屋を出た。

「支度できたから、行ってくるね」
「知ってるお宅だし大丈夫だと思うけど、気をつけてね」
「うん。じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」

家側の玄関で靴を履き、託された大きなケーキの箱を持って、私は仕事場兼我が家を後にする。肌寒い空気に少しだけ身を震わせながら、なんとなく空を見上げてみると、もうすぐ3月も終わるというのに、空はまだ淡い冬色をしていて、随分と高く、遠く感じた。







予定通り15時より少し早めにケーキを届け、店に戻ろうと歩いていると、次第に空が暗くなってきた。淡い水色をしていたはずのそれは、今にも雨が降りそうな装いで、少し遠くの方に目を凝らしてみると、灰色をした分厚い雲が、こちらにゆっくりと近づいてくるのが見えた。

「雨、降るかな」

一人そんなことを呟きながら、少し足早に進んでいく。郵便局のある角を曲がり、さらに道なりに歩いていくと、その数十メートル先に見えるその場所に、自然と胸が高鳴った。慣れないテスト勉強の帰り道、情けないことに空腹で倒れかけていた私に、焦凍さんが声をかけてくれた場所だ。バレンタインを渡そうにも、連絡先が分からずに、ここに来れば会えるかもしれないと、寒空の下で彼を探した、あの公園である。

バレンタインの時はダメだったけど、今日もあの時くらいの時間だし、もしかしたら。

そんなことを思ってしまえば、今の空模様がどうであろうと、踏み出さずにはいられない。吸い寄せられるようにその場所へと足を進め、辺りをきょろきょろと見回すも、やはりそんな都合よくはいかずに、私は小さく肩を落とした。
恋の神様は、そう何度もチャンスを与えてくれるわけじゃない。ちーちゃんの言うことは、やっぱりいつも正しい。

「もー、遅いっすよ!」

来た道を戻ろうと踵を返すと、背を向けたそのすぐ先で、若い男の人の声が聞こえた。待ち合わせに遅刻されたのだろうか。3月といえど結構寒いし、外でしばらく待っていたのなら、そう言いたくなる気持ちも分からなくはない。

「何してんすか!ショートさん!」

どうしてそうしたのかは、自分でもよく分からなかった。

なんで隠れちゃったんだろ。私。

その名前を耳にした瞬間、私は咄嗟にその場を離れ、気づいた時には、近くにある売店の影に身を潜めていた。別にこれといって、なにか後ろめたいことがある訳でもないのに。

「悪ぃ。道案内してたら、遅くなっちまった」

焦凍さんの、声だ。

姿こそまだ見てはいないものの、その声を、私が聞き間違えるはずがない。電話以外では久しぶりに聞く、その低く淡々とした声に、やっぱり心臓はドキドキして、自分が彼に恋をしていることを、今日もこうして思い知らされる。

「そんなこと言って、どーせ逆ナンでしょ。ショートさんの場合。連絡先とか聞かれてたんでしょ」
「期待に添えず申し訳ねぇが、相手は男だ。しかも親父と同じくらいのな」
「なーんだ。つまんない」

そう口にした聞き覚えのない声の持ち主に、焦凍さんはここからでも聞こえるくらいの、深いため息を一つ落とした。二人の話し方からして、相手の人は焦凍さんの後輩だろうか。

「にしても、今日は暇っすねぇ。これといって、派手な事件もないし」
「ヒーローが暇なことは、いいことだろ」
「まぁそうなんすけど、ちょっと退屈で」
「何もなかろうと、パトロールだって仕事なんだぞ。もっと気を引き締めろ」
「うわぁ…安定の真面目」

少しだけ顔を出し、声のする方を覗いてみると、相変わらず見事なまでのアシンメトリーな赤と白の綺麗な髪が見えた。もう一人の後輩らしい人物は、焦凍さんよりもさらに背が高く、なんとなくバンドマンっぽいような、そんな雰囲気の男の人だった。頭の後ろで両手を組みながら、面倒臭そうな表情を浮かべる姿は、彼とはなかなか対照的だ。

「あ、そういえばショートさん」
「なんだ」
「聞きたいことがあるんですけど、いいっすか?」
「あぁ」
「結構前に、休憩室で女の子と一緒にいるの見たんすけど、あれって誰なんですか?事務所の人じゃないっすよね?」

その質問の内容に、反射的に身体が跳ね上がり、それを聞かれた焦凍さんは、珍しく言葉を詰まらせた。

「あいつは…知り合いの、奴」
「そりゃあそうでしょうけど…!そうじゃなくて!」
「お前に関係ないだろ。俺が誰と一緒にいようと」
「だってすげぇレアじゃないすか!ショートさんが、同僚以外で女の子と一緒にいるなんて!」

そう興奮気味に口にしたその人物に、彼は目線を上に向けながら、そうかもな、と小さく呟いた。その言葉に、胸の内で膨らみ続けてきた期待が、また少しだけ大きくなった。

「あの子絶対、ショートさんが好きですよ!」
「……どうだろうな」
「いや、どっからどう見てもそうでしょーが!!なんて罪な男…!!」

おそらく先輩である焦凍さんを、両手の人差し指で刺しながら、大声でそう叫んだその人に、彼は眉間にシワを寄せながら、とても怪訝そうな顔をした。

イライラすると、あんな感じなんだなぁ。焦凍さんって。

ムッとした顔は見たことがあるが、あんなにあからさまにイライラしている様子の彼は、はたから見る分には新鮮で、また新しい一面を知れたことに、不謹慎にもちょっと嬉しくなってしまった。

「結構若かったっすけど、いくつなんすか?あの子」
「21」
「わっか!!ってことは、まだ大学生とかじゃないすか!」
「そうだな」
「いいなぁ。俺も女子大生にちやほやされたいなぁ」
「お前は女なら、別に誰でもいいんだろ」
「そんなことないっすよ!可愛い子がいいです!!」

全く話したこともなければ、名前すら知らない人だというのに、堂々と胸を張って言うその姿に、なぜか少し苦手意識を持った。上鳴さんと同じく、とても明るくて人当たりが良さそうに見えるのに、彼とは違う別の何かがあると、直感的にそう思ったのだ。

「で。ショートさんはどうなんすか?その子のこと」

ワクワクしたような声色で、その人は焦凍さんにそう尋ねた。肝心の焦凍さんは、依然としてかなり仏頂面だが、思わぬ形で触れられた核心の部分に、心臓がどくんと強く脈打つ。
知りたくて知りたくないその問いの答えを、今ここで聞いていいものか、少しばかり迷ったが、知りたいという気持ちが僅かに勝り、私はそのままその場に残ることにした。

焦凍さん、なんて答えるんだろう。

「どうって、何がだ」
「いや、何がって…その女子大生の子をどう思ってるかってことですよ!お気に入りなんでしょ?」

明らかに冷たく返されているのに、怯まずに追求し続ける彼に、焦凍さんはさらに眉間のシワを深めながら、再び深いため息をついた。

「あのなぁ」

呆れたようにそう口にしてから、彼はその口を一度結んだ。そのまましばらく黙っていた焦凍さんに、相手の人は不思議そうに首を傾げながら、その答えを待っていた。もちろん、私も。

「6つも歳下なんだぞ。恋愛対象になるわけねぇだろ」




続く沈黙を破った言葉は、ひどく残酷なものだった。心にぐさりと何かが刺さるような音が、本当に聞こえたような気がした。

じゃああのキスは、今までのことは、全部全部なんだったの。

「えー、じゃあ紹介して下さいよ。遠目からしか見えませんでしたけど、そこそこに可愛かったような気が、しなくもない!」
「お前な…」

その声をもう聞きたくなくて、気づかれないようにゆっくりと歩き出し、そのままその場を後にする。胸が張り裂けそうに苦しくて、とてもとても痛いのに、不思議と涙は零れない。とにかく一刻も早く立ち去りたくて、彼の見えない場所に行きたくて、次第に足取りは加速していった。

馬鹿みたいだ。私。

自分が馬鹿だなんて、随分前から知ってたはずなのに、きっと私は本当の意味で、それを分かってはいなかった。もしかしたら焦凍さんも、私のことが好きなんじゃないかなんて、そんな愚かなことを、本気で少し考えてしまっていたのだから。

「あれ、なまえちゃん?」

彼とは違う、聞き覚えのある快活な声に、思わず顔を向けてしまった。今私の身に何が起こっているかも知らず、明るく話しかけてきたその人は、かすかに吹いた冷たい風に、金色の髪をかき上げてみせた。そしてその隣には、もう一人見覚えのある人が立っていて、眉間に皺を寄せながら、赤く鋭い瞳でこちらを見ていた。

「やっぱなまえちゃんだ!今日は何してんの?」
「あ、いえ…その…」

何をしているかと聞かれれば、ただの配達の帰り道だが、数分前に起きたその出来事のせいで、それを口にすることが出来なかった。

「よく会うね。もしかして運命じゃね?」
「あ、あはは…相変わらずですね…上鳴さん」
「言っとくけど、冗談だかんね?そんなことマジでなまえちゃんに言ったら、轟に殺され…っていうか、あそこ!轟いるじゃん!!」

今はもう、名前すら聞くのが辛いその人物の存在を、最悪なタイミングで気づかれてしまった。せっかく本人に知られることなく、この場を去れると思ったのに。

「そう、ですね…」
「そうですねって、会ってかねーの?」

善意しかないその言葉が、逆にとても辛かった。確かに、それを知らなかったほんの数分前の私なら、焦凍さんに会いたいと思っただろう。だけど今はその逆だ。出来ることならもう顔も見たくないし、記憶に焼き付いたあの人の存在を、全部消してしまいたい。

「で、でもその、お仕事中に声をかけるのは…」
「うーん…大丈夫じゃね?見たとこ暇そうだし!」

遠慮がちにそう言ってみても、上鳴さんはヘラヘラと笑いながら、いつもの調子でそう口にして、私の腕を軽く掴むと、そのまま焦凍さん達が居た方へと、スタスタ歩き始めてしまった。

「え、あの、ちょ…っ」
「アホ面、ちっと待てや」
「大丈夫だって!ちょっと話すくらいなら、別に怒られたりしねぇって!」

焦る私と、短く制止の言葉を呟いた爆豪さんを余所に、上鳴さんは相変わらずの様子だった。満面の笑みを浮かべた彼の手に引かれながら、もと来た道を戻らされると、逃げるように背を向けたはずの紅白色の髪を、もう一度視界で捉えてしまった。

「おーい!とどろきー!!」

明るいその声に振り向いた彼は、声の持ち主に引き連れられた私の姿に気づくと、驚いたように目を見開いた。その視線が向けられることは、その姿を見られることは、ほんの少し前まで、あんなに幸せで満ちていたのに。今はただ、虚しいだけだった。

「なんでお前が、なまえを連れてんだよ」
「え、偶然そこで会ったから。連れて来ちった♡」
「連れ回すなよ。迷惑だろ」
「えー、いいじゃん!」

そう言いながら、上鳴さんが焦凍さんの肩を叩くと、バシッと痛そうな音が鳴り、痛てぇよと口にした彼の気だるげな声だけが、私の耳に届いた。どこに視線を向けたらいいか分からず、何となく先ほどまで焦凍さんが話をしていた、後輩らしき男性に目を向けると、彼はなぜかこちらの方をじっと見ていて、私の顔をしばらく見てから、急にはっとしたような顔をした。

「あー!!」

その直後、その人物は私に向かって人差し指を差し、周囲がチラチラとこちらを見るほどの、大きな声を上げてみせた。

「どっかで見たことあると思ったら!この子っすよね?この間事務所に来てた子!」

そう言うと、彼は私に近づきながら、上から下まで、まるで品定めをするかのように、何度か視線を往復させた。もともと初対面の人が苦手な上、そんな好奇な視線にさらされていることに、居心地の悪さしか感じない。

「ふーん。結構、普通の子なんだね」

普通の、子。

その言葉を聞いた瞬間、それをショックだと感じてしまった自分に、さらにショックを受けた。

「ちょっ、お前な!初対面相手に失礼だろ!相変わらずデリカシーがねぇな!」
「え。そうっすか?良い意味だったんすけど」

すかさず苦言を呈した上鳴さんに、それを言われた彼の方は、けろっとした様子でそう口にした。

「分かりづらいわ!ごめんななまえちゃん。こいつバカだから、マジでボキャブラリーに乏しいんだわ」
「チャージズマさんに言われたくないっすよ!」
「おだまりっ!後輩の分際でっ!!やっておしまいかっちゃん!!」
「くだらねぇことこの上ねぇが、こいつ生意気で気に入らねぇから、今回は乗ったるわ」
「ちょ、待って!ダイナマイトさん、爆破待って!!」

そんなやり取りをする三人の方をぼんやりと見ていると、ぼそっと小さく名前を呼ばれて、反射的にその声がした方へ、顔を向けてしまった。

「大丈夫か?」

大丈夫なわけないじゃない。どの口がそれを言うの。どうしてそんな顔するの。そう言えたなら、どんなに良かっただろう。心配そうに尋ねる彼に、また嬉しいと思ってしまった。

「……何がですか」
「だって、お前」
「私が"普通の人間"なのは、本当のことですから」

そうだよ。だって私、普通だもん。

本当に、何を勘違いしてたんだろう。私がこの人たちと、この人と同じ場所になんて、どんなに頑張ったって行けるわけない。どれだけ好きだと想ったって、最初からこの人の心の中に、私の居場所なんてなかったのに。

「すみません。今日はちょっと急いでるので、帰ります」

自分でも驚くくらい、その言い方は冷たかった。だけどここで笑ってそう言えるほど、私は気丈でも大人でもない。どうにかして、泣かずにここを立ち去ることが、今の私の精一杯だ。焦凍さんが何かを言っていたような気もしたが、そのまま歩き出してしまったせいで、彼が何を言っていたのかは分からなかった。
帰って店の手伝いをして、おばあちゃんたちとご飯を食べて、自主練をして。いつも通りの日常に戻れば、きっとすぐに忘れられる。だってそれが、私の"普通"だ。焦凍さんと出会ってから、今日までにあったことは全部、きっとただ、長い夢をみていただけなのだ。

ううん。違う。これは現実だ。

だってあの言葉が刺さった胸が、とても痛い。痛くてたまらない。愚かにも、例え少しでも、期待なんてものをしてしまったせいで、その傷は大きく、とても深かった。美人で優秀な幼なじみは、ちゃんと忠告してくれたのに、そんなことあるはずないと、夢見る気持ちに振り回されて、恥ずかしいほどの勘違いをしていた。

ダメ。もう、泣きそう。




「なまえ!」

パシっと勢いよく腕を掴まれたところで、私はようやく、自分を呼んでいた彼の声に気づいた。一方的に話をしてその場を立ち去った私を不審に思ったからなのか、少し焦るようなその声色に、胸の痛みがさらに増した。

「なんですか」

振り返ることは出来ないまま、必死にそう絞り出すと、彼は少しの間を置いてから、何じゃないだろ、と呟いた。

「急にどっか行っちまったら、気になるに決まってんだろ。どうしたんだよ」

気になるなんて、言うな。
そこに特別な感情なんて、これっぽっちもないくせに。

「どうもしてません。さっき言った通り、急いでるだけです」
「さっきの奴が言ったことなら、気にすることねぇから。本人も言ってた通りで、悪気があったわけじゃ───」

自分の後輩を庇いながらも、必死そうに私をフォローしていくその言葉の数々に、どんどん惨めになっていく。

なんで追いかけて来るの。
なんでそんなこと言うの。
私のことなんか、なんとも思ってないくせに。

「…っ、いい加減にして!」

掴まれた腕を思い切り振り払い、そう叫んで彼を見た私に、綺麗な水色と灰色の目が、今まで見たことないほどに見開かれていた。

「なんとも、思ってないくせに…っ、思わせぶりなことしないで!」

そのまま黙って立ち去って、もう関わらないつもりだった。何か余計なことをして、これ以上傷つくのが怖かったからだ。それなのに、一度口に出してしまったせいで、抑えていた気持ちも、涙も、最後の最後で溢れてしまった。

「どうせ相手にされないんならっ、優しくされない方が良かった…っ!」

優しくされなければ、きっと期待などしなかった。身の程知らずな勘違いなどしなかった。最初から冷たく突き放されて、傷つけられていた方が、きっとずっと楽だった。

「お前、もしかして、さっきの、話」

一つずつ置いていくように、彼はぽつぽつとそう呟いた。その顔はひどく動揺していて、そんな焦凍さんの表情に、さらに心を抉られた。涙で視界は滲んでいき、その顔も少しずつ見えなくなり、それが頬を伝う前に、再び彼に背を向けると、どうしたことか焦凍さんは、もう一度私の腕を思い切り掴み、その場から逃げられないようにした。腕に力を込めて、何度もそれを振り払おうとしたものの、当然力で彼に敵うはずもなく、その手は私の腕を離さなかった。

「やだっ、離して…!」
「待てって!違うから!さっきのは、そうじゃなくて」
「違うってなんですか。さっき一緒にいた人に、はっきり言ってたじゃないですか。『6つも歳下の相手なんか、恋愛対象にならない』って」
「それは」
「都合のいい相手が欲しいなら、他をあたって下さい。私には無理です。そんなふうには、割り切れない」
「なまえ、頼むから話聞いてくれ」
「もういいんです。もう何も聞きたくないし、もう顔も見たくない」

その顔で、その声で、もう私のこと呼ばないで。
あなたの顔を見るたびに、声を聞くたびに、やっぱりあなたが好きだと、そう思ってしまうから。

「あんたなんか…っ、大っ嫌い…!」

もう一度思い切り腕を振ると、あれほど強い力で私の手首を掴んでいた彼の手が、いとも簡単に離れていった。その反動で少しよろけそうになった身体のバランスをなんとか保ち、そのまま地面を蹴り上げて、その場を走って後にした。相変わらず涙で滲む視界はぼんやりとしていて、自分がどこを走っているかも、どこに向かっているのかも、よく分からなかった。

あんな最低な人、大嫌い。

本気でそう思って口に出来ていたのなら、もっとすっきりしたのだろうか。それを口にしたことに、嘘をついたときの罪悪感のような、よくないものが心に募った。たった数ヶ月の思い出に残る、残酷で優しいその面影を、かき消すように走り続け、ついに限界を迎えた足が止まる頃、空から降る小さな水滴が、ぽつりと私の鼻筋に落ちた。


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2021.11.21

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