きこえる


あんたなんか大嫌いだと、大好きな人にそう嘘を吐いたあの日から、ちょうど一週間が経った。
ぽつぽつと降り始めた雨は、家に帰る頃には本降りになっていて、あのまま店に戻らなかったことを、心の底から後悔した。
あの日あの場所に行かなければ、こんなに痛い思いをすることなんて、なかったのに。

「ちょっと早いけど、行こうかな」

ぽつりとそう呟きながら、自分の部屋を後にした。スマホの時計を見てみると、待ち合わせまでは2時間ほどあり、今から家を出れば、おそらく1時間は暇になってしまうだろう。しかし一人でいると、つい余計なことを考えてしまうので、話す相手はいなくとも、人波の喧騒に紛れている方が、気持ち的には楽だった。

「あら、出かけるの?」

リビングの方へ降りていくと、いつも通りの穏やかな微笑みを浮かべた祖母が、そっと私にそう尋ねた。

「うん。ちーちゃんがスイーツバイキング誘ってくれて。すごい人気なとこなんだけど、運良く予約取れたんだって」
「それは素敵ね。帰ってきたら、また色々教えてちょうだい」
「うん。写真もいっぱい撮ってくるね」

詳しいことは話していないが、あれから数日経った後、失恋したことだけを伝えると、祖母は深く追求せずに、そうなの、とだけ私に言った。あれほど楽しそうに私をからかっていたのに、それを境に、祖母が彼の話題を出すことは一切なくなり、おそらくそれは祖父にも伝わったのか、我が家でその名が出てくることはなくなった。

「帰りは遅くなりそう?」
「今日はちーちゃんの家に泊まろうと思ってるから、帰るのは明日のお昼くらいだと思う」
「分かったわ。ゆっくりしてらっしゃい」
「いってきます」

リビングを出て、一度店のキッチンに立ち寄ると、私の存在に気づいた祖父が、小さく私の名前を呼んだ。ちょうどひと息ついていたのか、キッチンの作業台の上には、白い湯気の立つカップが置かれている。

「どうしたんだ?今日と明日は休みのはずだろう?」
「ちーちゃんへのお土産に焼いたクッキー、ここに忘れちゃって。取りに来たの」
「あぁ、あれか」

キッチンの隅に置きざりにされた、ラッピングされたそれを見て、祖父は納得したように声を上げる。私は包みを手に取って、潰れないようにと用意しておいた、小さな紙袋にそっと入れた。

「相変わらず、仲良しだな」
「えへへ。まぁね」
「気をつけて行ってくるんだぞ。今朝ニュースで見たけど、近頃若い女の子が誘拐される事件が頻発してるらしいからな」
「大丈夫。今日行くのは、人通り多いところだし」
「ならいいが…とにかく気をつけるんだぞ」
「うん。ありがと。じゃあ、いってくるね」

祖父はひらひらと軽く手を振ると、祖母とよく似た穏やかな笑みを浮かべながら、私を静かに見送った。店の出入口に向かい、そっと扉を開けてみると、カラン、という鈴の音が響き、一歩足を踏み出せば、暖かく柔らかな優しい風が、ふわりと髪を揺らしていった。

「へい、そこの彼女!」

進行方向とは反対の、背を向けていたその先から、心地よく快活なその声が、私の耳に届いた。聞き覚えのあるその声に、恐る恐る振り返ると、ニカッと歯を見せて笑う上鳴さんと、イライラした様子で眉間に皺を寄せる、爆豪さんが立っていた。

「な、なんでこんなところに…」
「バレンタインの時に持ってた袋に、店の名前書いてあったからさ。調べて来ちった」
「俺は付き合わされただけだけどな」
「ちなみに、店の名前覚えてて、教えてくれたのはこいつね」
「黙れアホが。殺すぞ」
「またそんなこと言っちゃって…。まぁそんな訳だからさ、ちょっとお兄さんたちとお話しよーぜ?」

彼らが何のためにやって来たのか想像はついていたが、上鳴さんはそこに触れることなく、ただ話をしようとだけ言った。

「私、今日はこれから約束があるので。それに、話すことなんてありませんから」

なんで今、よりによってこの人達と話をしなくちゃいけないのだ。あの人を忘れたくて必死なのに、彼をよく知る人達と、彼の話はしたくない。

「すみません。失礼します」
「待って待って!そんなに時間取らせねぇから!」

歩き出そうとした私の前に、上鳴さんは両手を広げながら、壁を作るように立ちはだかった。

「あー、えっと…こういうのは、他人がしゃしゃることでもねーって、分かってんだけどさ」

上鳴さんはそう言うと、困ったように眉を下げ、苦笑いを浮かべてみせた。

「もう一回だけ、轟と話してやってくんない?連絡とか来てるっしょ?あいつから」

彼の言葉に、クッキーの入った紙袋を、力いっぱい握りしめた。上鳴さんの言うとおり、確かにあの後、焦凍さんからは何度も着信が入っていた。そのうちの一回には留守電も入っていたが、それを聞く勇気はなく、だけど消すことも出来なくて、結局そのままにしてしまっていた。

「……さっきも言いましたけど、話すことは何もないので」
「なまえちゃんにはなくても、轟にはあるんじゃねぇかな」
「そんなの知りませんし、聞きたくもありません」
「あらまぁ…また随分と嫌われちゃったもんだ…」
「なんとも思ってない子供にどう思われようと、別にいいじゃないですか」

なんて棘のある言い方だろう。しかしそんな私の物言いを、上鳴さんは一切咎めることなく、相変わらず困ったような笑顔を私に向けていた。

「あの人に言われて、来たんですか」
「違う違う。あいつがなまえちゃんに何をしたのかは、まぁ予想はついてるけど、詳しいことは聞いてないよ。あいつ何も言わなかったし」
「だったら、放っておいてもらえませんか。関係ないでしょ」
「いや、うん。それね。めっちゃ正論なんだけどね…」

バツの悪そうに俯きながら、上鳴さんはそう呟いて、でも、と再び口を開いた。

「轟はさ、ほんとに何とも思ってない子を追っかけたりはしないし、何度も連絡したりしないよ。女遊びとかできるほど、器用な奴じゃねぇし」
「そんなの分からないじゃないですか。その人が本当にどういう人かなんて」
「そりゃあ、全部が全部分かるわけじゃねーよ?けどこう見えても俺ら、結構ちゃんと友達やってんだぜ?少なくとも今のなまえちゃんよりは、俺らの方がまだあいつをよく知ってる」
「勝手に複数形にしてんじゃねぇよ。俺はあんな舐めプと友達になった覚えはねぇわ」
「こら勝己!相変わらずお口が悪くてよ!」
「マジでちょいちょい誰なんだよ。てめぇは」

相変わらず仲睦まじいそのやり取りを見ながら、先ほど上鳴さんが口にした言葉の意味を考えた。焦凍さんのあの言葉に、まるで額面通りとは違う真意があるとでも言いたげな、その含みのある言い方に、頭が混乱していく。

「なんで今さら、そんなこと言うんですか」

だってあの時の彼は、確かにはっきりと口にしたのだ。私のことなんか、恋愛対象にはならないと。濁すことも誤魔化すこともなく、はっきりと。
だからもう、この恋は閉まってしまおうと、そう思った。そんなこともあったなと、楽しい思い出として話が出来るその日まで、鍵をかけてしまっておこうと。それなのに。

「なまえちゃんには、轟ってどういう奴に見える?」

私の問いかけに答えることなく、上鳴さんは真っ直ぐな目で、私にそう聞き返した。

「どうって…」
「出会ってそんなに経ってなくても、あいつがどういう奴か、なまえちゃんは分かってんじゃない?」

その言葉が、さらに私を混乱させる。私だって、こんな気持ちになりたくなかった。あんな言葉がなかったら、例えあのまま曖昧な関係が続いていたとしても、彼を信じていようとしただろうし、好きで居続けていただろう。

「あいつに頼まれたわけでもねぇし、すげぇお節介だとも思うし、100パー…いや、2億パーあいつが悪いっていう前提で、すげぇ勝手なこと言うけど、」

そう前置きをすると、混乱している私を余所に、上鳴さんはさらに続けた。

「言葉単体じゃなくて、あいつ自身を見てやってよ。今までなまえちゃんが見てきた、人間としての轟をさ」
「人間として…」
「そう。そんでもし、ちょっとくらいなら話聞いてやってもいいかなって思えたら、連絡してやって」

気が向いたからでいいからと、彼はダメ押しでそう言うと、それを黙って聞いていた爆豪さんの方に、ちらりと軽く視線を向けた。

「とまぁ、俺の言いたいことはそんだけだけど、爆豪はなんか言っとくことある?」
「あるわけねぇだろ。こんなとこまで付き合わせやがって。俺は忙しいんだよ」
「そう言いながら、ここまでナビしてくれたくせにぃ。かっちゃんたら、ツンデレなんだから♡」
「指で突くな!きめぇんだよ!!」
「いでっ!暴力反対!」
「うるせぇわ!!俺はもう戻るからな!!」

爆豪さんは踵を返して、一足先にその場を立ち去る。思い切り頭を殴られた上鳴さんは、そんな彼の背中を苦笑いで見つめながら、労わるように額を撫でて、再び私に視線を戻した。

「じゃあまたね。話聞いてくれて、あんがとさん!」

そう言うと、彼は爆豪さんを追いかけるように、軽やかな足取りで駆け出して行く。ほどなくして横並びになり、遠ざかっていく二つの背中を見ながら、ポケットからスマホを取り出すと、ちりん、と鈴の音が鳴った。糸の先に結ばれた、その小さなお守りと同じように、私の心も揺れ動いていた。

聞けば、何かが変わるのかな。

電話のアイコンに指で触れ、留守電の一覧を表示してみると、未確認のマークがついた5日前の記録が、1件だけ残っている。ディスプレイに表示されたその名前を見るだけで、胸の奥がちくりと傷んだ。

"言葉単体じゃなくて、あいつ自身を見てやってよ。"

恐る恐るその文字に触れ、耳元にそれをあててみると、少しの間ざわざわとした周囲の喧騒が聞こえてから、軽く息を吸うような音が、かすかに耳に届いた。

『この間の、ことだけど』

低く掠れたその声は、微かに震えているような気がした。

『ちゃんと会って、お前と話がしたい。一度だけ、5分とか、だけでもいいから。もしこれ聞いてて、ちょっとでも気が変わったら、連絡くれ』

やっぱり聞かなければよかったと、とても後悔した。好きでいるのはもうやめる。だって傷つきたくない。そう思っていたのに。

『─── 待ってる、から』

とどめのその一言に、スマホをそっと耳から離し、ディスプレイに指が触れそうになった瞬間、慌てて我に返った。無意識とはいえ、その番号に電話をかけそうになってしまった自分に、ひどく動揺した。はっきりと可能性を否定されたのに、まだどこかで彼に期待をしている自分が、とても滑稽で嫌だった。

忘れたい。もう、忘れたいの。

だってもう、傷つきたくない。確かにそう思っているはずなのに、彼との間に残った僅かな繋がりを、私は手放せないでいる。「待ってるから」と呟いた、寂しそうな低い声が、耳から遠ざかることはなく、それはまるで呪いのように、私の内側に刻みつけられた。







「なんなのよ。そのテンションの低さは」

向かいに座る幼なじみは、不服そうな顔を浮かべながら、頬杖をついてそう吐き捨てた。

「人がせっかく超人気のスイーツビュッフェを予約してあげたっていうのに、お通夜みたいな顔で食べてんじゃないわよ」
「うっ、す、すいません…」

私を励ますために予約してくれたであろうそのお店は、可愛らしく飾り付けられたテーブルに、所狭しとあらゆるケーキやデザートが並び、しかもそれを食べ放題ときたものだ。いつもの私なら飛び上がって全種類をお皿に乗せ、ちーちゃんに呆れられているところだろう。

「そんなに気になるなら、電話してみればいいんじゃないの。待ってるって、言ってたんでしょ?」

今回のビュッフェの目玉だという、桜のタルトをひと口食べながら、彼女はしれっとそう口にした。

「でも…ずっと無視しちゃってたし、留守電もらってから、もう5日も経ってるし…」
「無視されたって文句言えないし、たかだか5日待った程度で文句垂れるような男なら、金輪際連絡してくるなって言って、着信拒否でいいわよ」
「さすがにそれはちょっと…」
「それくらいしても、バチ当たんないわよ。こっちは純情無垢な乙女心を、散々弄ばれてんだから」

当然だとでも言いたげな顔つきで、お皿の上に置かれたタルトを、彼女はさらにひと口食べた。いつもなら、食べる私をちーちゃんが見守るのがお決まりのパターンなのだが、今日は珍しくその逆だ。ひとまずいくつか気になるものを取ってきたものの、それを楽しみながら食べる気分には、とてもなれなかった。

「咄嗟に電話しようとしたんだけど、なんか怖くなっちゃって…」
「なんで?」
「だって、焦凍さんの話が、私にとっていい話かどうかなんて、分からないもん」

確かに彼は「話がしたい」と言っていたが、その内容に触れるような言葉は、あの留守電に何ひとつ残されていなかった。電話をかけようと思った瞬間、終わった恋に縋り付くような自分に嫌気が差したと同時に、それに気づいてしまったことが、その先の一歩を踏み留まらせた。

「ただ謝りたいだけとか、そんなことだったら、絶対会いたくないもん」

ごめん、とか、悪かった、とか。そう言われてしまえば、私に残されているものは、許すか許さないかという、たったそれだけの選択肢しかない。自分の恋をどう終わらせるのか、それを決める権利くらいは、与えられてもいいはずだ。

「まぁ、あんたの好きにすればいいと思うわよ。むこうだって、気が変わったら連絡くれればいいって言ってたわけだし。ただ ─── 、」

彼女はそこまで言うと、ケーキを食べるその手を止めて、ちらりと私の方を見た。

「……ただ?」
「あたしは、一度話してみてもいいと思うけどね」

ちーちゃんがそう言ったのは、意外だった。あの日の公園での出来事を話した時、そんな男はさっさと忘れろ、連絡先も今すぐ消せと、烈火のごとく怒っていたのに。

「でも、もう」
「本当に都合のいい女が欲しかっただけなら、こんな拗れにこじれた相手、さっさと切って他にいくわよ。でも彼はそうはしないで、あんたを追いかけてきてるわけでしょ?1、2回着信が来てた程度なら、罪悪感からなのかもって思ったけど、そうじゃないみたいだし」

それについては、私も同じ意見だった。顔も見たくないと自分に吐き捨てたような相手に、再び関わるメリットはない。無駄な時間と労力を使うだけで、得られるものなど何もないはずなのだ。

「まぁそしたら、なんで恋愛対象にならないって言ったのかがよく分かんないけど、わざわざお仲間がフォローに来たくらいだから、もしかしたら、ほんとに何か事情があったのかもよ」
「事情って…?」
「それは本人にしか分かんないでしょ。というか、それを確かめたいんなら、取るべき行動はひとつじゃないの?」

きっぱりとそう口にしながら、ちーちゃんは口角を上げて、にやりと意地悪く笑う。それはいつも私をからかう時の、タチの悪い笑顔である。

「ちーちゃん、なんでそんな楽しそうなの…」
「いや、なんか一周まわって面白くなってきたのよね。あんた達が」
「全然面白くないよ…!」
「次から次へと色々あって、楽しそうで何よりだわ」
「人が本気で悩んでるのに!ひどいよ!」

必死に訴えかける私に、彼女は軽く肩を竦めて、ごめんごめんと両手を上げた。

「けどもう一度話してみたら、今度こそちゃんと分かるんじゃないの。あんたの初恋のヒーローが、本当はどういう人なのかがね」

そう口にしたちーちゃんの声は、なぜかとても優しげで、紡がれたその言葉たちに、気持ちはさらにぐらついた。






「あ。そうだ。あたしちょっと、バイト先に忘れ物取りに行きたいのよね」

店を出て、しばらく道なりに歩いていると、しっかり者の幼なじみが、思い出したようにそう口にした。

「ちーちゃんが忘れ物って、珍しいね。何忘れたの?」
「図書館で借りてた本なんだけど、うっかりロッカーに忘れちゃって。次のシフトの日だと返却日に間に合わなくなっちゃうから、ちょうど近くまで来たし、取ってこようと思って」
「なるほど」
「なまえはどうする?少し遠回りだし、先にあたしん家行っててくれてもいいけど」
「じゃあ、そうしようかな」
「ここからだとバスになるけど、どのバス乗るかは分かるわよね?」
「それくらい分かるよ!」
「ちゃんと降りるバス停分かる?間違えて降りないようにしなさいよね」
「分かるもん!っていうか、そもそも降りるの終点じゃん!間違えないよ!」
「あはは、さすがにそこまで色ボケてないか。じゃあ鍵渡しとくわね。車のキーとかもついてるから、なくすんじゃないわよ」

きらりと光るそれを受け取り、すぐに鞄の中にしまった。じゃあまた後でと言い残して、足早に立ち去る幼なじみに軽く手を振り、バス停の方へと歩き出すと、生暖かい春の追い風が、私の背中をそっと押した。どこからやって来たのか、そんな風に揺られた小さな薄桃色の花びらが、ひらひらと宙に浮かぶのが見える。あの人に出会ったばかりの頃は、頬を刺すような寒さに震えていたというのに、季節の移ろいというものは、本当に不思議なものだ。

先週くらいまで、結構寒かったのにな。

そんなことを思いながら、彼女の家の近くへ向かうバスに乗り込み、乗り口付近の窓際の席に、そっと腰を下ろした。平日の微妙な時間だからか、乗客の数はそれほど多くなく、まばらにそれぞれが座っていた。

「次は───、お降りの方は、お知らせください」

耳慣れたそのアナウンスは、相変わらず無機質だ。独特のエンジン音を鳴らし、車道を走るそれに揺られながら、窓の外をしばらく眺めていると、ふと目に入ったその場所に、胸の奥がざわついた。

そうだった。ここ、通るんだった。

私を乗せたそのバスは、最後に彼と言葉を交わした、あの公園を通り過ぎた。目に映ったその場所は、あの日の記憶を鮮明に呼び起こし、二つの目頭の辺りから、じわりと何かが溢れそうになる。

"─── 待ってる、から"

あの日のキスの答えは、もう出ていると思っていた。それなのに、低く掠れたその残響は、私をひどく惑わせて、終わったはずのこの恋を、諦めさせてくれない。

ねぇ、今もまだ、待ってるの?
私のこと、思い出したりするの?

心でそう問いかけても、当然その答えは分かるはずもなく、頭の中はぐちゃぐちゃになっていく。何が本当で、何が違うのか、頭の悪い私には、これっぽっちも分からない。目には見えない、手では触れられない、彼の本当の気持ちは、一体どこにあるのだろう。

「はぁ…」

それを確実に知る方法はある。非常にシンプルで、かつ、その手段さえ持っていれば、誰にでも出来てしまうことだ。でも。




「あの、お客さん…」

一人悶々と考え込んでいると、遠慮がちなその声に、思わず肩がぴくりと動いた。

「終点なんだけど、降りないの?」

少し怪訝な顔つきで、紺色の制服を纏った人物が、私にそう話しかけてきた。今まで全く気づかなかったが、いつの間にかバスは停車しているし、さきほどまで座っていた他の乗客も、誰一人としてこの場にいない。改めて再び窓の外を見てみると、何度も訪れている幼馴染の家の近くまで、バスは辿り着いていた。

「す、すみません…!すぐ降ります…!!」

運転手さんに頭を下げ、慌ててバスを飛び降りると、それほど時間が経っていないのに、頭の上に広がる空は、オレンジ色に染まっていた。細長く伸びた自分の影を見つめながら、よく知るその道を歩き始めたものの、どうにも気持ちが落ち着かない。焦燥感によく似た、何かに追い立てられているような、そんな感覚がするのだ。

やっぱり、ちゃんと話をしないと。
このまま何もしなかったら、一生後悔する気がする。

幼なじみの家に向かう足を、その場でぴたりと止めてみる。ポケットに入れたスマホを手に取り、ディスプレイの時計を見ると、時刻は16時34分と表示されていた。この時間なら、彼は間違いなく仕事中だろう。よほど暇でない限り、電話に出ることはまずないはずだ。

けどもしも、"今さら"だったらどうしよう。

確かに五日前の焦凍さんは、「待っている」と言っていた。でも、今の彼はどうだろう。胸に生まれた新たな不安は、さらに新たな疑念を生む。今さら電話をしたところで、もう遅いんじゃないかと、そんなことを思ってしまう。
今電話をかけたとして、もしもその後、何もなかったら。彼にとって、もう"終わったこと"になっていたとしたら。

どうしよう。やっぱり、怖い。

どくどくと、不穏な音が体内に響く。この指が、この名前に触れれば、電話がかかってしまう。そうすれば、今度こそ答えが出てしまう。




「ねぇ、もしかして君、この前の子じゃない?」

微かに聞き覚えのある、少し離れた先から聞こえる声に、心臓がどくんと大きく跳ねた。慌ててスマホをポケットにしまい、声のする方へ振り向くと、すらっとした背の高い男の人が、こちらに向かって歩いて来るのが見えた。

「あ、やっぱりそうだ。バス乗ってる時から、もしかしてって思ってたんだよね」

にこやかに笑うその人物に、反射的に後退りした。近づいてくるその人は、あの日公園で焦凍さんと一緒にいた、後輩の男の人だった。その言い回しから察するに、どうやらさっきまで私が乗っていたバスと、同じものに乗っていたらしい。

「ど、どうも…」
「何だっけ?えっと……あ、そうだ。なまえちゃん、だよね?」
「……そうですけど」
「いや、そんなあからさまに警戒しなくても」
「す、すみません…。そんなつもりでは……」

もともと初対面の相手が苦手なこともあるが、先日の一件があったせいで、この人と話すのはかなり気まずい。急にあの場を去った私は、どう見ても不自然だっただろうし、その場に居合わせた彼にもきっと、思うところはあっただろう。

「あー、その、なんか……この間はごめんね。気に触ること言っちゃったみたいで」

眉を下げながら、とても申し訳なさそうに呟く彼に、予想通りではあったものの、やはり気に病ませてしまっていたことを知り、逆に罪悪感が湧いた。

「俺、あん時もチャージズマさんに怒られたけど、どうにも言い方間違っちゃうみたいで、知らないうちに人を怒らせちゃうんだよね」
「別に気にしてないですよ。大丈夫です」
「ホントに?」
「はい。ほんとに大丈夫ですから」
「そっか。なら良かった」

安心した表情を浮かべる彼に、妙な違和感を覚えた。

あれ…この人、こんな感じだったっけ…?

目の前にいるその人物は、焦凍さんと話をしていた時と比べ、随分と穏やかで落ち着いて見える。話す相手によってテンションを切り替える人というのを時折見るが、彼もそういうタイプなのだろうか。

「ところで、こんなとこで何やってんの?百面相して立ち尽くしてたけど」

客観的に見ればそうなのかと、少し頬が熱くなった。確かにそう言われると、何もない閑静な住宅街で、あぁでもないこうでもないと思考をめぐらせ、スマホを片手に立ち尽くすその姿は、かなり奇怪に見えただろう。

「その、電話を…かけようと思ってたんですけど……ちょっと訳あって、かけるのをだいぶ躊躇ってしまって」
「あ、そっか。ショートさんと喧嘩中なんだもんね」
「いえ、喧嘩というわけでは……え!?」

さらりと紡がれた彼の言葉に、そこまで返事をしたところで、自分の盛大な失言に気づき、その学習能力のなさに頭を抱えたくなった。

「ち、違うんです…!今のは、そうではなく…!」
「あははっ、なまえちゃん、嘘とかつけないタイプでしょ」
「いや、あの、えっと…」
「やっぱ付き合ってんの?ショートさんと」
「付き合ってません…!!というか!"やっぱ"ってなんですか!」
「え。だってあん時のショートさん、なまえちゃんに会えてめちゃめちゃ嬉しそうだったし」
「え…」

記憶を辿ってみたものの、私の脳裏に蘇るのは、いつも通りの焦凍さんだ。特にこれといって変わった様子もなかったし、いつものように淡々としていた気がするのだけど。

「逆になまえちゃんがいきなり帰っちゃった時は、あの人すげぇ焦って追いかけてたし、俺らのとこに戻ってきてからは、めっちゃへこんでたし」

この人たちは、一体私をどうしたいのだ。上鳴さんといい、ちーちゃんといい、どうしてみんな示し合わせたように、可能性をちらつかせるのだろう。もしまた期待が外れたら、きっと今度こそ立ち直れないのに。

「……焦凍さん、何か言ってましたか…?」
「いや?でもあの人、周りが言うほどクールでもないし、結構分かりやすいからさ」
「確かに、普通にむすっとしたり、笑ったりとかしますしね」
「そうそう。機嫌悪いと顔に出るよね。まぁ後者の方は、俺にはあんま分かんないけど」
「そうですか?」
「うん。というか、大抵の人はそうなんじゃないかな。なまえちゃんが特別なだけで」
「そんなことは…」
「いやー、あるでしょ。だってあんなにクソ真面目な人が、我慢出来なくてキスしちゃうくらいだもん」
「あ、あれはっ、別に」

そこまで言いかけたところで、自分の失言以上に、気になることが出来てしまった。だってこの人が、それを知っているはずはないのだ。

「─── なまえちゃんて、ホントに嘘とかつけない子なんだね」

周りの空気が、少しひんやりしていくような、そんな気がした。

「どうして……知ってるんですか…?」

私たち二人を除けば、そのことを知っているのは、たぶんちーちゃんだけのはずだ。上鳴さんも爆豪さんも、何も聞かされていないと言っていたし、あの二人にさえ話していないことを、焦凍さんがこの人に話すとは、とても思えなかった。

「どうしてだと思う?」

彼は静かにそう聞き返すと、混乱している私の腕を、いきなり強く掴み上げた。焦凍さんとは全然違う、配慮の欠けらも無いその力に、背筋にぞくりと寒気が走った。

「は、離してください…っ」
「最初は、いいネタになるかなぁ、くらいだったんだけどね」
「なんの話ですか!早く離して…っ!!」
「例えばさ」

私の言葉を無視したまま、ゆっくりと上げられたその口角に戦慄する。その先に続く言葉が、自分にとって良くないものであることだけは、バカな私でも想像出来た。

「なまえちゃんに"何か"あった時、ショートさんはどんな顔するんだろうね」

それはほとんど無意識だった。咄嗟に彼を思い切り突き飛ばし、踵を返して地面を蹴る。

この人は、危険だ。

頭の中にいるもう一人の自分が、「逃げろ」と何度も叫んでいる。初めて彼を見た時に感じた、よく分からない"何か"の正体は、これだったのだろうかと、そんなことを思いながら、必死にその場を駆けて行く。
しかしそれから程なくして、腹部に強い衝撃が走り、崩れるように膝を折った。たった一瞬の出来事に、頭は追いつかなかったが、自分が今、とても危うい状況にあることは、本能的に理解していた。

誰かに、知らせないと。

そう思い、ポケットに入れていたスマホをどうにか取り出したものの、腹部に広がる痛みのせいで、指が思うように動かせない。そんな私を嘲笑うように、彼はゆっくりとこちらに手を伸ばし、いとも簡単にそれを奪った。

「ごめんね」

悪びれる様子もなく、私を冷たく見下ろしながら、男は短くそう吐き捨てた。

「焦凍、さん」

次第に薄れる意識の中、あてもなく手を伸ばしながら、祈るようにその名を呼んだ。閉ざされていく瞼の向こうで、微かに吹いた穏やかな風と、ちりんと響く鈴の音が、そっと耳を掠めていった。


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2021.12.04

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