今から君に大切な話をします


目が覚めると、そこは知らない天井だった。

「ここ、は…」

無意識に動かしたその腕は、僅かな可動域しかなく、その違和感の先を辿ると、ロープのようなもので手首を締めあげられていて、その先はベッドに括られていた。

「あ、起きた?」

ビクッと身体が跳ね上がり、心臓が嫌な音を立て始めた。声のした方向へ、恐る恐るゆっくりと顔を向けてみると、男はデスクに向かい合って、パソコンで何かをしているようだった。

「なまえちゃんって、結構爆睡型なんだね。ちょっと気絶してもらうだけのつもりだったんだけど」

乾いた笑い声を軽くあげ、男は椅子を回転させて、私の方へと身体を向けた。一体どれくらい眠っていたのだろう。部屋のカーテンは締め切られ、外の様子が分からないため、あれからどれだけ時間が経ったのかが読めない。

「意外と冷静だなぁ。もっと騒がれるかなって思ってたのに」

違う。そうじゃない。そうじゃないの。

冷静なのではない。声が出せないのだ。もしもこの人と出くわさなければ、私は今頃幼なじみの家にいて、スマホを握りしめながら、その電話をかけるかどうか、ひたすら悩み続けていたはずだ。
神様に誓ってもいい。私はどこにでもいる、普通の大学生だ。見た目も中身も平々凡々で、取り柄といえば、少し人よりお菓子が作れることくらいの、そんな普通の人間だ。そんな人間が、一体どうしてこんなことになっているのだ。知らない部屋で手首を縛り上げられ、身動きが取れないようにされて、そのすぐ近くには、得体の知れない男がいる。

「な、んで…こんな…」

振り絞るように、やっとの思いで吐き出す言葉に、男は顔色を変えることなく、その場にすっと立ち上がる。

もしかしてこの人も、焦凍さんに ───

「"もしかしてこの人も、彼に恨みがあるんじゃ"って、思ったでしょ?」

得意げな顔を浮かべながら、彼はにやりと口角を上げた。口元は笑っているのに、少しも笑っていないその目が酷く不気味で、手足が静かに震え出した。

「残念ながら、そんなご大層な理由じゃないよ。俺がなまえちゃんをここに連れてきたのは、ただの趣味だから」
「趣味、って…」

全く理解できないし、理解したくもないが、少なくとも彼が口にしたその"趣味"が、私にとって良くないものであることは分かる。何気ない世間話をするかのように、とても落ち着いた様子で、男は再び口を開いた。

「きっかけは、本当に偶然だったんだよ。3ヶ月くらい前に、駅のバスロータリーで、ショートさんと一緒にいたなまえちゃんを見かけて」

それがいつのことなのか、考える間もなくすぐに分かった。焦凍さんに、あのお守りを貰った日だ。バスのロータリーで二人でいたところを、彼に見られていた、ということらしい。

「なまえちゃんの気持ちはひと目で分かったし、ショートさんも満更でもないって感じで、さっきも言った通り、最初は面白いもの見たなぁ、くらいの感覚だった。見ての通りショートさんってすごくモテるし、今まで噂になってきた相手も、モデルとか女優とかだったから、さすがにそういう相手ではないかって思ってたんだけど」

そう言うと、彼はその場に立ち尽くしたまま、舐めるようにして私を見た。何かが絡みつくような、そのいやらしい視線に、言葉にできない嫌悪感が募る。

「でもあの日、二度目の偶然は起こった」
「あの日…?」
「なまえちゃんが、うちの事務所に来た日。ちょうどパトロールの途中だったんだけど、一人で公園にいる君を見かけたんだよ」

もしかして、あの時感じた視線って。

その視線を感じた直後、上鳴さんに話しかけられたことで、それは彼のものだと、勝手にそう思っていた。しかし違ったのだ。あの時感じた刺さるような視線は、この人が私を見ていたからだと、今この瞬間確信した。

「その後チャージズマさんたちが来て、君を連れてどこかに行くから、なんとなくふらっと後をつけたら、行き先はまさかの事務所でさ。なんだこれってなったんだけど、でもその後すぐに、チャージズマさんに連れられたショートさんが、なまえちゃんのところにやって来て」

男はそこまで口にすると、突如スイッチが入ったように高笑いを発し、興奮したように息を荒くさせた。大きく見開かれたその目には、悪意と狂気が映し出され、軽く上げられた青白い両手は、なぜか小刻みに震えている。彼は祈るようにその手を絡ませると、それを額に押し付けてから、ふう、と長めに息を吐いた。

「その瞬間に決めたんだ。"今度は"この子にしようって」

少し落ち着きを取り戻した口調で、男はそう口にした。しかもその言い回しから、こうして誰かを陥れるのは、一度や二度ではないことが窺える。

「なに、それ…」
「人が食べてるものって、美味そうに見えるでしょ?俺はそれが極端なんだ。他の誰かが大事にしている女の子ほど、無性に欲しくなる」

歪んでいる。この男に対して浮かんできたものは、その一言に尽きた。そして断言出来る。私の人生において、この男以上に理解の出来ない生き物はいない。一般論に当てはめようとしても、そこから大きく逸脱した観念を持っているこの生き物は、理解の範疇を超えている。

「あぁ、そうそう。それで話を戻すけど、その後休憩室で君らの話を聞いてたら、ショートさんがなまえちゃんをデートに誘ってくれたから、それが好機だと思ったわけ。ショートさんのスマホをこっそり拝借して、待ち合わせ時間を調べて」
「じゃあ…あの日は、ずっと」
「もちろん。なまえちゃんが一人になったタイミングにでも、って思ってたんだけど、あまりに2人が幸せそうで、つい最後まで見守っちゃった。ちなみに今日は、パトロール中のチャージズマさん達が、なんかそわそわしてたから、これはなんかあるなって思って、ついて行ったんだよ。まぁほぼ直感だったけど、そしたら君に会えたってわけ。それで思ったんだ。神様が、俺の背中を押してくれたんだって」

こんな最低な人間にさえ、好機を与えてしまうのだから、運命というのはタチが悪い。良い人が必ず幸せになれるわけではないように、悪い人に必ず不幸が訪れる訳ではなく、現実とは、時としてひどく理不尽だ。

「ストーカーみたいなことしてごめんね。悪いことをしてる自覚はあるんだよ。これでも。けど、ダメなんだ。自分の大事にしている子をめちゃくちゃにされた奴らの、あの顔を見た時の高揚感が蘇って、自分が抑えられなくなって ───」

続きを口にすることなく、彼は笑みを浮かべたまま、ついにその場を一歩踏み出した。

「こ、来ないで…っ」

必死に手足を動かして、一縷の望みにかけるものの、それはすぐに打ち砕かれた。仰向けの私に跨るようにして、蛇のように目を細め、男はブラウスに手をかけた。バタバタと足を動かす私に一切構うことなく、彼は慣れた手つきで、ひとつずつボタンを外していく。

「いや…っ、やだっ、やめて!やめてください!!」
「ショートさんは、どんな顔してくれるかな。普段あんまり表情変わらないから、どう変わるのかちょっと読めないけど」

下に着ていたキャミソールの上から、ゴツゴツした手が胸に触れる。確かめるように、ねっとりとしたその手つきが、すごく気持ち悪い。

「やぁ…っ、触んないで…っ!いやっ、いやぁっ!!」
「へぇ、意外。思ったより結構あるね」
「…っ、やっ…やだぁ…っ」

怖い。なんでこんなことされなきゃいけないの。
私が何したっていうの。

「大丈夫だよ。"今までの"子達も、みんな最初は嫌がってたけど、すぐにそうじゃなくなったから」

しれっとそんなことを口にしながら、荒くなっていく男の息遣いに、身体中が戦慄する。こんな奴のいいようになんか、絶対されたくない。

まだ、何も言ってないの。
言いたいことの半分も、まだあの人に言ってない。

私たちの関係に名前をつけるとしたら、"たった一度、キスを交わしただけの関係"だ。彼の友達でもなければ、恋人でもない私には、それを口にする権利はない。でも、今だけ。今だけは、許して欲しい。

「助けて…っ、焦凍さん、助けて…!!」
「無駄だって。いくらあの人でも、なんの手がかりなしには ───」

男は再び、希望を打ち砕こうとする。しかしその続きを、私が聞くことはなかった。そう言いかけた男の顔を、きっと睨みつけてやると、ふいに目の前が真っ暗になる。奪い取られた視界の中で、男が短く声を上げ、それを不思議に思った矢先、今まで身体の上にあった圧迫感は、なぜか突然姿を消した。パキ、パキ、という何かが割れるような音が部屋に響き、ようやく目が暗闇に慣れた頃、締め切られていたはずの部屋に、冷たい風が吹き込んでくる。吸い寄せられるように目を凝らすと、強く優しいオレンジ色が、吹き込む風に煽られながら、"彼"の手のひらで揺らめいた。

「─── これはまた、随分お早いご到着で」

そう口にした人物の方へ、恐る恐る視線を移すと、私の上に股がっていた男は、身動きが取れなくなっていた。壁に張り付けられるように、衣服の至るところに何かが刺さっており、部屋を照らした炎を受けて、それはきらきらと輝いていた。

「なんでバレちゃったかなぁ…この子のスマホのバッテリーは、抜いておいたはずなのに」
「うるせぇよ。それ以上喋ったら、その口利けなくしてやるからな」

その声は、別人のように冷たくて、けどそれなのに、どうしようもなく安心した。

「よっしゃ作戦成功!!さすが俺!!」
「考えたのは俺だわタコが」
「すぐそうやって悪態つくのをやめなさい!俺がいてこその、不意打ち暗黒作戦でしょうが!」
「だっせぇ名前勝手につけてんじゃねぇよ」

今朝ぶりに聞くその軽快なやり取りに、突如訪れた暗闇の真相を、少し頭で理解した。

「二人とも助かった。ありがとな」
「おうよ!」
「いいからさっさとやることやれや」

一見粗暴なその人物が、彼に向かってそう呟くと、綺麗な水色と灰色の瞳が、こちらをちらりと盗み見た。いつも真っ直ぐなその視線が、今はとても遠慮がちだ。焦凍さんはそっと私に近づくと、不自然なほどに顔を横に背けながらも、すぐに服を直してくれた。

「ちょっと待ってろ。腕も、解くから」

そう言うと、焦凍さんは腕に括り付けられていたロープを焼き切り、手首の近くにある結び目を、丁寧に指で解いてみせた。やっと開放されたその場所を、彼がその火で照らし出すと、くっきりと痕が残っている。見た目と比べてほとんど痛みはなかったが、それを目にした焦凍さんは、ひどく怪訝な顔をした。

「これ…痛むか?」
「大丈夫、です」

労わるように手首に触れたその指は、とてもとても優しくて、愛しさがとても込み上げた。最後にこの人と会ってから、たった一週間しか経っていないのに、随分久しぶりに言葉を交わしたような気がする。

「ごめんな。遅くなって」

申し訳なさそうにそう言いながら、軽く頭に乗せられた手のひらに、じわりと涙が溢れてきた。

怖かった。とても。
でも信じてた。烏滸がましくも。
この人ならきっと、きっと私を助けてくれるって。

何度も首を振りながら、ぽろぽろと泣き出す私を見て、焦凍さんは眉間のしわを深く刻んで、とても苦しそうな顔を浮かべた。

「あははは…っ、やべぇマジか!ショートさん、ホントに本気のやつじゃないすか!これは惜しいことしたなぁ」

しばらく閉ざされていたその口が、軽薄で不愉快な笑いと共に、そんな言葉を呟くと、近くにいた三人のヒーローは、それぞれに複雑そうな顔を浮かべていた。

「…こいつ、クズな上に全然反省してねぇのな」
「反省しようがしまいが、クズはクズだかんな。もう手遅れだわ」

二人の言葉を受けた男の視線が、不意にこちらに向けられると、反射的に肩が跳ねた。それに気づいたからなのか、すぐ側にいた焦凍さんは、手を軽く引いて私を立ち上がらせると、そのまま自分の後ろへ隠してくれた。

「うっかり長話しちゃったのは、失敗だったね。あれがなければ、今頃なまえちゃん"で"もっと楽しめてたのに」

吐き捨てられた悪意たちに、部屋の温度が少し下がる。表情こそ見えないが、その原因が目の前の彼であることを、私は不思議と直感していた。焦凍さんは壁に張り付けられた男の元へ、重い足取りで近づくと、その胸ぐらを思い切り掴み、力づくで引き寄せた。

「俺は忠告したからな」

先ほどと同じか、それ以上に冷たい声が響いた直後、その拳が振り下ろされる瞬間を、私は初めて目の当たりにした。それと入れ替わるようにして、痛々しい男の声が、何度も何度もこだまして、白い壁に何かのシミが飛び散るのが、暗闇の中でもはっきりと見えた。

「ちょっ、轟待った!!一旦少し落ち着けって!!」
「離せ上鳴…っ、立てよてめぇ!!仮にもヒーローやってたんなら、この程度でへばってんじゃねぇぞ!!」

慌てて駆け寄り、後ろから押さえつけようとする上鳴さんを払いのけ、焦凍さんは再びその拳を、男の顔面めがけて振り下ろした。自分がどれだけ罵倒されても、理不尽に殴られても、何も言わずにそれを受け入れていたこの人の、声を荒らげて拳を振るうその背中は、なぜかとても悲しく見えた。

「焦凍さ…やめ」
「やめろって!!これ以上やったら、そいつ死んじまうぞ!!」

そう叫んだ上鳴さんの言葉は、私にとってのトリガーだった。

止めなくちゃ。

頭の中にはそれしかなくて、勝手に足が動いていた。目を丸くした上鳴さんを、視界の端でとらえたものの、構うことなく一直線に、彼の身体にしがみついた。

「だめ、です」

その広い背中越しに、たったそれだけ口にすると、焦凍さんは小さく声をあげてから、ぴたりとその場で動きを止めた。束の間の静寂が流れる間、彼の服を力いっぱい握りしめると、それを包み込むようにして、彼は私の手に触れた。

「なまえ」

好きな人が呼ぶ自分の名前は、やっぱりすごく特別だ。どうしたって私は、どうしようもなくこの人が好きだ。

「もう、大丈夫だ。ごめん。ありがとな」

あぁ、いつもの、焦凍さんだ。

私の大好きな、優しい彼の声だ。それが耳に届いた瞬間、全身の力が抜けていき、瞼が突然重くなる。再びぐらつく視界の中、最後に私が目にしたものは、珍しくとても焦った様子の、愛しい彼の顔だった。







目が覚めると、再び知らない天井があった。

「気がついた?」

よく知るその声に、顔をゆっくり動かすと、壁にもたれかかりながら、椅子に座ってこちらを見ている幼なじみの姿があった。

「ちーちゃん…なんで…」
「それはこっちの台詞。家に帰ってもいないし、電話しても繋がらないし、柄にもなく焦ったわ。このあたしが」
「ここは…」
「病院。外傷はほとんど無かったけど、念の為ってことで、寝てる間に色々検査してたのよ。特に異常もなかったから、起きたらそのまま帰っていいって。荷物はそっちにまとめてあるから」
「あの…おばあちゃん達には…」
「言わないでって言うと思ったから、連絡してないわよ。ニュースにはなるだろうけど、こういうケースの場合、被害者の名前は出されないから、家族に気づかれることはないでしょ」
「ありがとう。それにごめんね。鍵持ったまま…いなくなって…」
「そんなの別にどうでもいいわよ。それに、あんたに鍵を渡しておいたのは、ある意味正解だったもの」
「え…?」
「これよ」

ちーちゃんが私に見せたのは、バスに乗る前に渡されていた、彼女の部屋の鍵がついたキーケースだった。チャリ、という金属音を立てながら、彼女は白く細い指で、その中のひとつを摘み上げた。

「車のキー。紛失防止のために、スマホのアプリから、GPSで鍵のある場所が見れるようになってるの」
「そっか、だから…」

スマホのバッテリーを抜いていたのに、どうやって場所をつきとめたのかと、あの男は不思議がっていたが、私と一緒に運んだその荷物の中に、思わぬ希望の欠片があったということだ。

「アプリを開いたら、全く心当たりのない場所が表示されて、どうしようかと思ったけど、あんたが黙って勝手にいなくなるわけないし、もしかしてって思って通報したの。感謝しなさいよね。色々大変だったんだから」

そう言うと、病室のベッドで横たわる私の額に、ちーちゃんは手を添えて、前髪に軽く触れてみせた。

「まぁとにかく、最悪なことにならなくて良かった」

冷静に呟くその声の向こう側で、安堵の気持ちがちらついている。いつも通りに見えるようで、少しだけ震える綺麗なその手に、本気で心配してくれていたことが伝わって、また涙が溢れてくる。彼女がいなかったら、あの場に彼が来てくれることは、きっとなかったのだろう。

「…っ、うん…っ、ちーちゃ、ありが…っ」
「はいはい。お礼を言うなら、まずはあっちの人に先に言いなさいよね」
「あっち…?」

悪戯っぽく笑いながら、ちーちゃんは視線を動かした。彼女の視線が向けられた先に、何気なく顔を動かすと、彼女がいる場所とは反対の壁にもたれ掛かり、腕を組んで立つその人物と目がぱちりと合った。

「よう。身体は大丈夫か?」

微かに眉を下げ、穏やかな口調でそう言う彼の姿に、数秒間思考が完全に停止した。

「%△#?%…!?きゃああああ…!!」

声にならない奇声を発してから、おそらくここ数年で一番の悲鳴を上げて、反射的に身体を起こした。そんな私の声に驚いたのか、彼は今まで見た中で、一番大きく目を見開いた。

「こら〜、病院ではお静かに〜」
「な、ななななん…っ!?」
「まさかあんた、覚えてないの?あんたを助けてくれたのは」
「それは覚えてるよ!!そうじゃなくって!!」
「あー分かった分かった。そんだけ騒げる元気があるなら、身体は心配なさそうね」

軽くあしらうようにそう口にすると、ちーちゃんはちらりと焦凍さんの方を見た。

「見ての通り元気そうなので、あたしはもう帰ります。あとはお任せしていいですか?このうるさいの」
「あぁ」
「え!?」

私の気持ちなどお構いなしに、さっさと話を進めてしまう二人に、思わず再び声を張り上げる。ただでさえ気まずいというのに、ここでちーちゃんに帰られたら、どうしていいか分からない。

「ま、待ってよ…!ちーちゃん帰っちゃうの…!?」
「だって完全に邪魔者でしょ、あたし。それにちょうどいいじゃない。留守電聞いてかけ直すかどうか、ずっとうだうだ言ってたんだから」
「ちょっ、なんでそれ今言うの!!」
「だって口止めされてないし」
「普通に考えて言わないでしょ!?」
「あーもーうるさいわね。今さらビビってんじゃないわよ。どうせ逃げられやしないんだから、さっさと腹を括りなさいな」

縋り付くようにすり寄る私を、彼女は諦めろと言わんばかりに、あっさりと突き放した。美人で優秀な幼なじみは、華麗に私を見捨てていくつもりらしい。

「というわけで、あとは宜しくお願いします」
「あぁ、ありがとな。色々」
「じゃあねなまえ。落ち着いたらまた連絡して」

軽くひらひらと手を振ってから、窓際に置かれた自分の鞄を手に取ると、ちーちゃんは足早に病室の入口へと向かう。するとどうしたことか、あ、と小さく声をあげてから、彼女はくるりとこちらを振り返った。

「ちなみにこの子、今日はあたしの家に泊まることになってますので、"諸々"ご心配なく。それじゃ」

にやりと笑みを浮かべながら、メガトン級の爆弾を投下して、彼女はその場を去って行く。その言葉を焦凍さんがどう受けとったのかは分からないが、ちらりと覗き見た彼の横顔は、少し困惑しているように見えた。

「……確かに頭は切れるみてぇだが、なかなか強烈な性格だな」
「お、恐れ入ります…」

よく分からない返答をすると、焦凍さんは私が返事をしたことが意外だったのか、こちらにぱっと顔を向けた。そんな彼の視線に耐えかねて、咄嗟に近くにあった枕を手に取り、それを顔に押し付けた。ちーちゃんが言っていたように、最早私に逃げる術はなく、ただの悪あがきにしかならないけれど。




「─── 消したと、思ってた」

しばらく沈黙が流れてから、焦凍さんはぽつりとそう口した。

「何がですか…?」
「留守電。消してると思ってた。聞いてくれてたんだな」
「今日、聞きました」
「そうか」

彼が短く返事を零すと、もう一度病室が静かになる。言いたいことはたくさんあるのに、いざ本人を目の前にすると、怖くてそれを切り出せない。枕で顔を隠しながら、どう話そうかと考えていると、焦凍さんは小さく息を吐いた。

「悪かった。ごめん」

その姿は、一切私に見えてはいない。けどなぜか、そう口にした焦凍さんが、今どんな顔をしているかは、なんとなく分かるような気がした。

「それは、なんの"ごめん"ですか」

別に謝って欲しいわけじゃない。私が聞きたいのは、そんなことじゃなくて。

「二つ、あって」
「二つ…?」

予想外の言葉に、咄嗟にそう聞き返す。一つは予想がついているけど、もう一つの理由はなんだろう。

「一つ目は、お前を傷つけて泣かせたこと。まさかあの場で、お前が聞いてると思わなくて。だから、悪かった」
「それは、もう」
「けどあの時は、ああ答えるのが最善だと思ったんだ」

彼が口にした"最善"という言葉の意味を、少し考えてみたものの、私にはよく分からなかった。

「あの…それは、どういう…」
「少し前に、雑誌の取材があったんだが」
「取材ですか…?」
「あぁ。その日の取材が一通り終わった後、そん時来てた記者に言われたんだ。『最近、仲良くしてる女の子がいますよね』って。まぁ、もちろんオフレコだったけど」
「それって…」
「他に思い当たる奴なんかいねぇし、ほぼ間違いなくお前のことだな。それにあの記者の言い方から察するに、お前のことも、たぶん多少は調べてるはずだ」

そこまで聞いて、彼の中に生まれていた懸念を、私は初めて知ることとなった。

「俺は家のこともあるし、色々言われんのも、書かれんのも、まぁ慣れてる。けど、お前はそうじゃない。学校に行って授業受けたり、友達と話したり、家に帰って店の手伝いしたり、家族と飯食ったり。そういう日常を生きてるだろ」

それがどんな関係であれ、彼と関わりを持つということが、周りにどんな影響を与えるのか。彼を好きだという気持ちばかりで、そんなことをこれっぽっちも考えたことのなかった私は、やっぱりバカだ。

「もしも俺が、誰かに余計なことを言って、記事にされたりでもしたら、お前や、あの店に迷惑がかかると思った。だからああ言っとくのが、あの時は一番いいと思ったんだ」

それは紛れもない、彼の善意だ。だけどそれでも、胸はとても痛かった。この人とは、住んでいる世界が違うのだと、頭では理解していたけれど、それを改めて本人から突きつけられたことで、遠回しに拒絶されているような気持ちになって、それがとても、苦しかった。そんなこと、一週間前のあの時だって、十分痛感していたはずなのに。

枕があって良かった。
きっと今、私絶対泣きそうな顔してる。

「……すみません。私、全くそんなこと…考えてなくて…」
「いや、お前が謝ることじゃねぇから。それに、今まで話してなんだそれって感じだけど、結局それは……ただの建前だから」

少し間を置いて、彼がそれを口にした時、瞼の裏側に溜まっていた水が、ついに枕をじわりと濡らした。

「建前…って」
「お前やお前の周りに迷惑をかけたくないって気持ちは、確かにあった。でもそれ以上に、俺自身が嫌だったんだ」
「え…?」
「変に騒がれたり面倒なことになって、お前に嫌な思いをさせて、もう俺と関わりたくないって、お前にそう思われるのが、怖かった」

胸の奥に生まれた痛みが、みるみる小さくなっていく。その代わりに、波打つような心臓の鼓動は、どんどん大きくなっていく。

だって、そんな言い方、まるで。

「お前に離れて行かれるのが、嫌だったんだ。俺が」

顔が熱い。息の仕方が分からない。それなのに、ちっとも辛くないのは、私が彼を、とてもとても好きだからで。

「理由、二つあるって言ったよな。さっき。もう一つは、大事なことを、ちゃんとお前に言ってなかったことだ」

コツ、という足音が部屋に響き、顔を隠したその枕に、何かが当たる感覚がした。もちろんその正体は、他の誰でもない、大好きな彼の手だ。

「なぁ、これ取ってくれねぇか」
「む、無理、です…っ」
「顔見て、ちゃんと言いたいんだ」

ずるいよ。そんな言い方。
だってそう言われたら、断る理由がないんだもん。

おずおずと、少しずつそれを離していく。開けた視界のすぐ先で、彼は私の顔を見て、落とすように笑ってみせた。


「好きだよ。なまえ」


何度も、何度も思った。初めて叶う恋の相手が、この人だったら。そんなことはあるわけないと、何度も自分に言い聞かせて、でも心のどこかで、やっぱり希望は捨てきれなくて。

「本気で、女として、お前が好きなんだ。今のお前が俺を大嫌いでも、俺はお前が好きだ」

ごめんなさい。違う。違うの。

「嘘、です…」
「え?」
「嫌いなんて、嘘です」

そんなわけないわ。だって、本当は ───

「焦凍さんが、好きです。初めて会った時から、ずっと…ずっと大好きなんです…っ」

涙で前はよく見えないし、きっと顔はぐちゃぐちゃだし、ここは病院で、薬品の匂いが充満するその部屋は、ムードもへったくれもなくて。
だけどそんなこと、私たちには関係なかった。彼が私を引き寄せる、優しい力に身を預けて、その腕の中に飛び込んだ。大好きな人の腕の中は、暖かくて、安心して、ただ触れているだけで、世界一の幸せ者になれたような、そんな気がした。

「わ、悪ぃ…っ」

そのまま身を委ねていると、焦凍さんははっとしたように顔を上げて、私の両肩に手を置き、なぜか自分から引き離してしまった。

「あの…焦凍さん…?」
「いや、その……今は、嫌なんじゃねぇかと、思って。あんなことがあったばっかだし」

それを躊躇う確かな理由を、彼は静かに口にした。そんな彼の大きな手に、そっと自分の手を重ねると、焦凍さんはぴくりと肩を震わせて、無言でじっと私を見た。初めて自分から手を伸ばし、初めて触れた焦凍さんの手は、思っていたよりも柔らかくて、なんだか不思議な感じがした。

「いや、です」
「え」
「離しちゃ、嫌です…」
「…っ、お前な…っ」

取り乱したような声をあげると、彼は私の両頬を、二つの手のひらで押し潰した。

「い、いひゃいれす、ひょーほはん…」
「急にそういうこと言ってくるなよ。ほんとに連れて帰っちまうぞ」

怒ったようなその口調とは裏腹に、頬は少しだけ赤くなっていて、初めて目にしたその表情に、思わず口が開いていた。

「いいですよ」

あなたとなら、どこまでも。そんなドラマのようなセリフは、恥ずかしくて言えないけれど、今の私が思うことは、まさにそれだった。
冗談のつもりだったのか、私が断ると思ったのか、彼はまるで凍りついたように表情筋を固めると、しばらく黙り込んだ後、小さくひとつため息をついた。

「お前、俺がそれをどういう意味で受け取るか、分かってんのか」
「……だいたいは」
「大体って、お前な」
「だ、だって…っ、やっと会えたのに、まだ離れたくないです。一緒が、いいんです」

離れていたって大丈夫だと、そう信じ合える関係は、とても素敵だし羨ましくもある。だけど今は、許されるのならそばにいたい。いてほしい。子供じみたわがままだって、頭で分かってはいるけれど。

「ダメ…ですか…?」

恐る恐るそう尋ねるも、彼から返事は返ってこなくて、徐々に不安が湧き上がってきた。言葉に出したその全ては、純粋な本音だった。しかしよく考えてみると、相当はしたないことを口にしてしまったような気がするし、自分だけが舞い上がっているみたいで、途端に恥ずかしさが押し寄せた。

どうしよう。やっちゃった。

詳しいことは知らないけれど、いわゆる恋愛のあれこれには、順序というものがあるらしいし、いきなりそんなことを言い出した私に、焦凍さんは呆れてしまったのかもしれない。

「す、すみません…やっぱり…今の、忘れ」

言いかけたその言葉を、私は最後まで言えなかった。気づいた時には、もう一度彼の腕の中にいて、耳がぴたりとその胸板に触れると、そこから命の音がした。ドクドクと強く鳴り響く心音は、普段淡々としたその表情からは想像できないほど、とても激しい。

「もう遅ぇよ」
「え…?」
「忘れてやるわけねぇだろ」

焦凍さんはやけくそ気味に、乾いた声でそう呟いた。その声に全身が熱くなって、熱いはずなのに身体が震える。少し腕の力を弱め、私の頬に手を添えると、彼は涙でぐしゃぐしゃになった私の顔を、じっと上から覗き込んだ。私を見る、少し切れ長の綺麗な目に、体温がまた上昇する。逸らしてしまえばいいはずなのに、未知の何かを孕んだその視線が、私を逃がしてくれそうにない。

「本当に、いいんだな?」

問いかけられたその言葉に、ほんの少しの間を置いて、首を小さく縦に振ると、彼は私の頭に手を置いて、ふっと穏やかに笑ってみせた。思わず私も笑みを零すと、焦凍さんはその端正な顔を、ゆっくりと私に近づけた。

「焦凍さん、好き」
「ん。俺も、好きだ」

額をこつんと軽く合わせて、自然と指を絡ませながら、互いの存在を確かめた。ありふれた白い病室で、不安と期待が交差する中、私は彼と、二度目のキスを交わした。


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2021.12.14

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